第四話
見知らぬガキが、グラスに薬物を入れるのを見て。
親友が語った、辛い過去を思い出した。
恋人と――セラとゆっくり過ごすはずだったバー。
トッドは大きく息をついた。フーッと息を吐き、席を立った。セラを見て、顎を動かしてジェスチャーをする。右端にいるガキのところに行く、と。
セラも立ち上がった。彼女が、また少し微笑んだ気がした。
右端の席に行くと、トッドは、青年の前で立ち止まった。
自分の席が大きな影で覆われたからか、青年はトッドの接近に気付いた。ハッとしたように顔を上げ、トッドを見上げてきた。
トッドは何も言わず、青年のグラスを素早く取り上げた。
途端に青年は、驚いたような、苛立ったような顔になった。
「何すんだよ、オッサン」
強気な口調で言っているが、青年の肩は震えていた。当然だろう。トッドは、青年よりも三十センチほど身長が高い。肩幅もはるかに広い。こんな大柄な男に目の前に立たれ、いきなりグラスを奪われたら、恐怖を感じて当たり前だ。
トッドは、青年の質問に答えなかった。逆に質問を返した。
「グラスの中に何を入れた?」
「……」
青年は何も答えず、俯いた。その態度が、答えを雄弁に語っていた。やはり薬物だ。
同じ質問をしても、このガキは黙りを決め込むだろう。人間観察が得意なセラでなくても、それくらいは想像できる。だからトッドは、質問を変えた。
「おい、ガキ。名前は?」
「……イーサン。イーサン・ジョブズ」
青年――イーサンは、思いの外素直に名乗った。薬物というハードルの高い話から、自己紹介というハードルの低い話題に変わったからか。俯いていたイーサンの顔は、少しだけトッドの方を向いている。
「そうか。で、イーサン。グラスの中に何を入れた?」
イーサンは、再びプイッと顔を背けた。トッドから目を逸らし、小声で、でも暴れるような口調で返してくる。
「いいだろ、何だって。オッサンには関係ないだろ」
オッサン呼ばわりされることが、トッドは少し面白くなかった。自分はまだそんな歳じゃない。ついでに言うなら、トッドは、少しは名の知れたベースボールプレイヤーだ。これだけはっきりと顔を突き合せたなら、自分が誰なのか、イーサンに気付かれてもいいはずだ。二重の意味で、トッドは不機嫌になった。
「おい、イーサン」
「なんだよ、オッサン」
オッサンオッサンうるせえよ、クソガキ。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、トッドは聞いた。
「ベースボールに興味はないのか?」
「は? 何だよ、いきなり」
「いいから答えろ。グラスの中身は答えられなくても、これくらいは答えられるだろ」
「……別に興味ねぇよ。どうでもいい」
「じゃあ、ショータ・オオツキは知ってるか?」
「そりゃあ、オオツキのことくらいは」
ショータ・オオツキ――大月翔太は、日本から来たベースボールプレイヤーだ。二期連続で神がかった活躍を見せて、今やアメリカ中の誰もが知っているような選手になっている。
トッドがもっともライバル視する選手。同時に、もっとも気に食わない男。オオツキの国の言葉でいう「目の上のたんこぶ」のような存在。
「オオツキを知ってて、俺を知らねぇのかよ」
無意識のうちに、トッドは舌打ちをしてしまった。そのせいで、イーサンを怖がらせてしまったようだ。彼の横顔が強張った。
ハァ――と、後ろから溜め息が聞こえた。セラの溜め息。トッドが振り返ると、呆れ顔のセラが目に入った。
「トッド。目的と論点がズレてる」
「あ」
つい、間の抜けた声を漏らす。トッドは咳払いをすると、イーサンに対して、三度同じ質問をぶつけた。
「で、イーサン。このグラスに何を入れた?」
今度はイーサンが舌打ちをした。不機嫌と不快感を全力で表情に出している。反面、肩は細かく震えている。
「……だから、オッサンには関係ねぇだろ」
そうだな、関係ないな。そう言って、グラスをイーサンに返しそうになった。なんだか面倒になってきたのだ。それでも、トッドはグラスを離さなかった。離せなかった。なぜかは分からないが、グラスから手を離さないよう、上から押さえられている気がした。もちろん気のせいだろうが。
「まあ、関係ねぇけどな。もっと言うなら、どうでもいいけどな」
「そうだろ。当然だ!」
急に、イーサンの声量が上がった。店にいる他の客が、こちらをチラチラと見ている。
周囲の視線にも気付かず、イーサンは続けた。
「俺が死んだって、何も変わらない。誰も何も思わない。俺が死んだって、この国は変わらない。ママだって、俺がいなくても幸せに生きていいける。俺なんか、どうでもいいんだ」
「……」
ママ。イーサンの口から出た言葉を聞いて、トッドは、またレジーを思い浮かべた。わずか八歳で、大好きな母親を失った親友。
今まで後ろにいたセラが、トッドの前に回り込んできた。イーサンとトッドの間に割り込む。声量を上げて喋るイーサンを、覗き込む。
イーサンは、懐からシガレットケースを取り出した。薬物が入っているシガレットケース。
「こんな物が簡単に手に入る! この国は自由だ! 生きるも死ぬも! 子を捨てるのも! 母を見限るのも! 自由の国! 万歳!」
トッドは苛ついてきた。セラの頭越しに、イーサンを見下ろす。
トッドに、セラほどの観察眼はない。それでも、イーサンのセリフで、彼の背景が概ね想像できた。おそらく、母親と喧嘩でもしてやさぐれたのだ。甘ったれたクソガキ。もういい。こんなガキ、やはり放っておこう。セラとの大切な時間を、こんなガキのために使いたくない。
そう思っているはずなのに。
やはりトッドは、イーサンから奪ったグラスを離せなかった。
苛つくトッドの前で、セラは、少しだけ腰を低くした。イーサンと、目線の高さを合わせるように。そのまま、彼に語りかける。
「お母さんと何かあったから、薬物に手を出したの?」
セラの質問は直球だった。本人は優しげな口調を心掛けているのだろう。けれど、見ず知らずの人が聞いたら、冷たい口調に聞こえるはずだ。トッドだからこそ分かる温かさが、彼女の声に混じっていた。
「ちゃんと話してくれないと、この人、あなたにグラスを返してくれないよ?」
言いつつセラは、イーサンがテーブルの上に出したシガレットケースを奪った。
「あ……」と、イーサンの口から声が漏れた。
セラは、シガレットケースをトッドに渡してきた。トッドの両手が塞がった。右手にグラス。左手にシガレットケース。
「これで、あなたの手元に薬物はなくなったね。返して欲しかったら、大人しく事情を話すしかないんじゃない?」
再度、イーサンが舌打ちをした。憎々しげにセラを睨んでいる。
俺の女を睨みやがって――と、トッドは、イーサンの頭にグラスの中身をぶちまけたくなった。
――本来ならセラは、お前なんかが口を聞けるような女じゃないんだ。
トッドはイーサンを睨んだ。その視線に、イーサンが気付いたようだ。
憎々しげなイーサンの表情は変わらない。けれど、威嚇にも見える彼の表情は、恐怖の表れでもあった。まるで、人間に怯えながら威嚇する野良猫。
しばしの沈黙の後。
観念したように、イーサンは語り始めた。自分の身の上。薬物を手にするまでの流れ。
イーサンは、母一人子一人の家庭で育ったという。彼が物心つく前に、両親は離婚した。原因は、父親のDV。よくある話だ。
母親に育てられたイーサンは、すっかりママっ子になった。母親が大好きで、常に、どうすれば彼女が喜んでくれるかを考えていた。小学生のときには、野原で摘んだ花を束にしてプレゼントした。
十四歳になってアルバイトができるようになると、イーサンは、貯めた給料で母親にアクセサリーをプレゼントした。
高校生になって就業できるアルバイトの種類が増えると、働いて家計を支えた。家計を支えるだけではなく、やはり金を貯めて母親にプレゼントを贈った。
イーサンは、現在二十一歳。彼の母親は四十一歳。若くて綺麗な母親は、彼の自慢でもあった。
イーサンは母親が大好きだ。しかし、だからといって、家庭で嫌なことがなかったわけではない。
イーサンの母親は、高収入のキャリアウーマンとは違う。若くしてイーサンを産み、女手一つで育ててきた苦労人だ。イーサンを家に残して仕事に出ることなど、しょっちゅうだった。
小学生の頃のイーサンは、たったひとりで家に残されるのを嫌がった。もちろん、母親が働かないと生活できないのは知っていた。それでも、ひとりきりになりたくなかった。大好きな母親と、ずっと一緒にいたかった。
「ママ、行かないで」
母親が仕事に行くとき。
度々イーサンは、涙目で彼女に訴えた。
母親はいつも、少しだけ困ったような笑顔で、イーサンの頭を撫でてくれた。おやつとして買い貯めていたスニッカーズを、イーサンに握らせた。この国では人気の、一般的なお菓子。でも、貧しいイーサンの家では、涎が出るほど美味しいお菓子。
「……スニッカーズ……」
イーサンの口から出たお菓子の名前を、トッドは小声で復唱した。この店に入ってから、やたらと、レジーを連想させるものに遭遇する。薬物。暗い目をした青年。母一人子一人の家庭。
そして、スニッカーズ。
(続く)