第三話
レジーとの出会いは最悪だった。初めての会話は、互いのパートナーの惚気合い。惚気合いから、殴り合いに発展した。
すぐにまた、惚気合いに戻った。
殴り合った二人が出した結論。
『自分にとって、自分のパートナーが世界一で、女神で、聖母だ』
アメリカン・ダイナー/アフタヌーンティー。夜のバーの時間。カウンター席。
レジーとの出会いを思い出して、トッドは、また口元を緩めた。残り一口のチョコレートケーキを口に運ぶ。そのまま、マッカランを流し込む。口の中で混ぜ合わせると、最高の味になった。味に未練を残しつつ飲み込む。
口の中が空になると、トッドは小さく息をついた。隣りのセラを見る。
いい女だ、と心底思う。付き合ってもう五年になるが、トッドの中で、彼女への気持ちが色褪せることはない。むしろ、共に過ごす時間が長くなれば長くなるほど、彼女への想いが大きくなる。
トッドは本来、個人主義な人間だ。ベースボールの世界で頂点を目指す以上、結婚などしないと思っていた。多少の女遊びをすることはあっても、誰かと共に生きることはない、と。
だが、セラと付き合い始め、さらにレジーという愛妻家に出会ってから、価値観が変わった。レジーは、妻や息子がいることで、より強くなっている気がした。ボクシングの世界から去ることになったが、もし彼が現役復帰をしたなら、昔より強かっただろう。
だからトッドは、本気でセラとの結婚を考えていた。互いに忙しい身であるが。
トッドの視線に気付いたセラが、小さく微笑んだ。笑みを崩さないまま、ジンジャーハニー・ホットトディを一口。グラスから口を離す。
直後、セラの表情が変わった。彼女の目線が、トッドから外れた。トッドの奥――カウンター席の右端に向けられている。一番奥に座っている、スーツ姿の男に。
セラの視線を追うように、トッドも、カウンター席の右端を見た。席に座る前は後ろ姿しか見えなかった、スーツを着た青年。今は横顔が見える。
年齢は二十歳そこそこ、といったところか。ノーネクタイのスーツが、まるで似合っていない。目の下に隈があり、暗い雰囲気を漂わせている。手元にグラスがあるものの、場違いと言えるほどバーに似合わない男。昼間のカフェなら、ギリギリ場違いではないかも知れない。背中を丸めて、手元を隠すようにモゾモゾと動いている。
「どうした、セラ。あいつがどうかしたのか?」
小声でトッドが聞くと、セラも小声で返してきた。
「あの子のこと、よく見て」
「?」
セラに言われて、トッドは、青年の動きに注目した。
彼は、スーツの懐からシガレットケースを取り出した。その中から、三角形に折りたたまれた小さな紙を出す。たたまれた紙を広げる。中に入っていた粉状の物を、グラスの中に入れた。
「セラ。あれって……」
「たぶん、あなたが考えてる通り」
青年がグラスの中に入れたのは、おそらく薬物。
当然だが、トッドは薬物など使ったことがない。しかし、アメリカという国にいる以上、薬物の話は嫌でも耳に入ってくる。最近流行っているのは、フェンタニルやメタンフェタミン。若者の中で特に流行っているのは、メタンフェタミンだったか。神経刺激薬で、依存性が高い。
青年が薬物をグラスに入れた、という確証があるわけではない。もしかしたら、ただの胃薬などかも知れない。トッドは、面倒事が嫌いだ。ベースボールの邪魔をするものは廃除したいし、知らないガキに構って時間と労力を無駄にする気もない。
あんなガキは無視して、恋人との一時を楽しむべきだ。せっかくのセラとの時間を、無駄にしたくない。
もっとも賢いと思える選択が、頭に浮かぶ。反面、なぜか、青年に声をかけるべきだと思う自分もいた。
なぜ、見ず知らずのガキに関わる選択が思い浮ぶのか。
その理由を、トッドは分かっていた。
以前の親友の顔が、思い浮ぶからだ。暗く、辛く、悲しい顔をした親友の姿が。
◇
レジーがトッドと知り合う、三年ほど前。
彼は、コカインの常用で逮捕された。逮捕されるより何年も前から、コカインに手を染めていたらしい。
世界タイトルという栄光を、コカインの常用が原因で剥奪された。さらに、一年間の試合出場停止を命じられた。結局彼は、そのまま引退した。
球場の廊下でレジーと知り合い、殴り合い、語り合ったトッドは、彼と急速に親しくなった。トッドは様々な球場で試合をするため、頻繁に会えるわけではない。それでも度々互いの近況を伝え合い、時間と場所が合えば必ず会った。
トッドはレジーと、親友と言える間柄になった。セラにも会わせた。レジーの家族にも会った。彼の息子に、サインをあげたこともある。
レジーと親しくなって。
親しくなれば親しくなるほど、トッドは、ひとつの疑問にぶつかるようになった。
どうしてレジーほどの男が、コカインなんかに手を出したのか。
親友としての贔屓目抜きで、レジーは強い男だと思う。単純な腕力の話ではない。人としての芯が強いのだ。決してブレず、反面、心に柔軟性がある。妻と息子を心から愛し、家族のためならどんな苦難にも立ち向かうだろう。
そんなレジーが、どうして。
親しく付き合うようになり、何でも聞ける仲になれた。だからトッドは、レジーに聞いた。
『どうして、コカインなんかに手を出したんだ』
今から二年前。小さなバーで、二人でウィスキーを傾けているときだった。レジーはラフロイグのロック。トッドはジェムソンのロック。
コカインに手を出してタイトルを剥奪されたという過去は、レジーにとって、面白いものではないだろう。自身の汚点と言っていいはずだ。
それでもレジーは、嫌な顔をしなかった。初対面のときのように激高することもなかった。ただ、どこか悲しそうに、どこか寂しそうに、グラスを揺らした。グラスの中の氷が、カランと音を立てていた。
「ママを忘れられなかったからだよ」
スポーツの試合のゲストとして呼ばれるレジーは、陽気な人物として有名だ。陽気で、すっとぼけたコメントをして、でも時々鋭いことを言う。
けれど、そのときトッドの目の前にいたのは、テレビに映るレジーとは別人だった。暗く辛い過去を持つ、一人の男。泥沼のようなトラウマに足を囚われていた男。
ときどきグラスに口をつけ、レジーは、自分の過去について語ってくれた。
レジーは父親の顔を知らない。彼が産まれる前に射殺されたらしい。だから彼は、母親の女手ひとつで育てられた。出身は二ューメキシコ州アルバカーキ。ニューメキシコ州の中でも、非常に犯罪率が高い都市。
治安の悪さは、レジーから母親も奪った。死別。彼がわずか八歳のときだった。
そんなレジーが、少年の頃にボクシングに出会った。もともと才能があったのだろう。一気に強くなり、プロデビューし、連勝街道を歩み続けた。
レジーには、試合前の計量後にスニッカーズを食べる習慣があった。この国では一般的なお菓子であり、軽食でもある。どこのスーパーにも売っている食べ物。
でも、レジーにとっては特別な食べ物だった。ただの食べ物ではなく、御守りに近かった。
けれど、一時期を境に。
レジーの御守りは、スニッカーズからコカインに替わった。
「コカインをやると、気分が高揚するんだ。大事なものを失っていない気になれる。ママがすぐ近くにいるような気分になれるんだ」
大好きだった母親の温もり。抱き締められて、キスをしてくれたときの温かさ。包み込まれるような愛情。どうしても失いたくなかったものを、取り戻せたような高揚感。コカインをやることで、大切なものがすぐ近くに感じられた。ママの幻覚を見たことだって、何度もあった。優しく、幸せそうに微笑むママの顔。
「でもな、コカインが切れたら最悪だ。別の幻覚が出てきやがる。ママが殺される場面だ。暴漢に、アイスピックで何度も何度も刺されてる。助けを呼んでも、助けてくれる奴なんかいねぇ。血にまみれて、少しずつ体から力が抜けていって、俺をおいて死んじまうんだ」
レジーの母親を殺したのは、薬物中毒者だったらしい。
「そんなママの姿を見るのが嫌で、またコカインに手を出す。その繰り返しだ」
レジーがトッドに語った、壮絶な彼の半生。薬物中毒者に最愛の母親を奪われた彼が、過去の傷から逃れたくて薬物に手を出した。
(続く)