第二話
レジー・タピアという男の人生を語るとき、誰もがこう口にする。
『波瀾万丈な人生を歩んできた男だ』
親友のトッドだけではない。誰もがそう言うのだ。そんなレジーだから、ボクサーとして引退した後も各方面から仕事の依頼があった。あるときはボクシング放送のゲスト。またあるときには、他のスポーツ放送のゲスト。
初めてMLBの放送のゲストとして呼ばれたとき、レジーは解説に聞かれた。
『どころでレジー。ベースボールのルールは分かってるよな?』
レジーはフフンと鼻で笑った。
『当然だ。バットでボールを打って、一周すれば点が入るんだろ?』
こんな突拍子もないやり取りが、自然にできること。そのくせ、波乱に満ちた人生を歩んでいるからか、ときに深い言葉を吐くこと。いい意味での不安定さが、レジーという男の魅力だった。
トッドがレジーと出会ったのは、彼が試合のゲストコメンテーターとして呼ばれたときだった。
今から四年前。トッドが、セラと付き合い始めて一年ほど経った頃。MLB投手としては、まだ新人だった。
今でこそ先発で出場することが多いトッドだが、その日は抑えとしてマウンドに立った。八回途中からの登板。そこから全員を三振にとり、チームの勝利に貢献した。
自分でも自覚はあるが、トッドは個人主義な人間だ。チームの勝利よりも、自分の記録に固執していた。今回の試合では五者連続三振。いい記録だと、そこそこ満足していた。もっとも、目指す場所はまだまだ遠いが。
試合の興奮がまだ冷めていない状態。高揚した気分で控え室への廊下を歩いていると、向かいから、小柄な男が歩いてきた。身長は一七〇あるかないか。おまけに細身だ。体重なんて、六十キロもないだろう。ある程度近付いて、トッドは、男が誰なのか気付いた。今日の試合のゲストで来ていた、レジー・タピアだ。
トッドは正直なところ、レジーに良い感情を抱いていなかった。
レジーは、ボクシングの元世界チャンピオン。世界一になるのだから、凄い男なのだろう。だが、その私生活は決して褒められたものではない。彼が世界タイトルを失い、ボクシングの世界から去った理由は、誰かに負けたからではなかった。
コカインの使用。それによって警察のやっかいになり、試合ができなくなり、タイトルを剥奪された。
薬物に手を染める有名人なんて、世の中には掃いて捨てるほどいる。アスリートでも俳優でも、ミュージシャンでも。そんな掃いて捨てるほどいる者達を、トッドは、一人として欠くことなく軽蔑していた。自分が目指す頂点を、薬物などという下らない理由で駄目にした者達。
レジーとすれ違い様、トッドは軽く挨拶だけした。「お疲れ様」と。それ以上関わる気はなかったし、関わりたくもなかった。
しかし、すれ違い様に、レジーに声を掛けられた。
「あんた、最後に試合に出て、全員を空振りさせた奴だろ?」
レジーは陽気な笑顔を見せた。もう三十は越えているはずなのに、子供のように無邪気な笑顔だった。
「いや、見事だったな。豪快なKOみたいな感じで、スカッとする終わり方だった。みんな、こんなふうにバットを空振りさせてなぁ」
オーバーアクションで空振りの様子を再現するレジーに、トッドは、少しだけ気分を良くした。頂点を目指す者が、自分の活躍を褒められて嬉しくないはずがない。自分でも単純だと思うが。
レジーは、目尻に皺を寄せて笑顔を見せている。ポケットから、自分のスマートフォンを取り出した。
「妻と息子にも、見せてやりたかった。正直、ベースボールなんて打って走って回って点が入るくらいしか知らねぇけど、投げて空振りさせる楽しさもあるんだな」
レジーのスマートフォンのトップには、彼と同世代と思われる綺麗な女性と、小学生くらいの男の子が映っていた。彼の妻と息子だろう。
「俺は仕事で来てんだけど、妻と息子も連れてくれば良かった。絶対興奮したはずだからな」
トッドはますます気を良くした。つい、自分もスマートフォンを取り出し、トップ画面を表示した。そこに映っているのは、恋人のセラ。
「俺も彼女に見せたかったよ。自分で言うのもなんだけど、今日は絶好調だったんだ。絶対にいけると思ってた。実際、全員三振で終わらせたしな」
レジーが、トッドのスマートフォンを覗き込んできた。セラを見て、うんうんと頷いた。
「いい女だな」
「だろ? シンガーソングライターで、抜群に歌が上手いんだ。今度聴いてみてくれよ」
「お前の試合くらい興奮できるか?」
「ああ。保証する。世界一の女だからな」
はっ、とレジーは鼻で笑った。
「確かにいい女だがな、世界一の女は俺の女房だ。こいつ以上の女なんて、この国どころか、世界中探したっていねぇよ」
「いやいや、セラの方が――」
しばらくは、単なる互いのパートナー自慢だった。周囲が見たら、微笑ましいと思える言い合い。パートナーを心から愛する男達の、終わることのない惚気合い。
けれど、試合の興奮が冷めやらないトッドと、本来気性の荒いレジーは、次第にヒートアップしていった。それこそ、もし周囲に人がいたなら、互いの間に火花が見えるくらいに。
「俺の女房以上の女なんて、この世にいねぇんだよ」
「ふざけんな。セラは女神だ。この世どころか、あの世にだってセラ以上の女なんていねぇ」
互いに、口調が変わってゆく。声が低くなり、ドスの効いた喋り方になってゆく。
「俺の女房は、俺を地獄から救い出してくれた女だ。そのうえ、俺の息子を産んでくれた聖母でもあるんだよ。お前の女もいい女だけど、俺の女房の比じゃねぇ」
「……ぁんだと?」
トッドの手は、考えるより先に動いていた。こいつの女房が、セラよりもいい女? ふざけるな!
心の声を体現するように、レジーの胸ぐらを掴もうとした。
次の瞬間――
バチンッと弾けるような痛みが、トッドの頬に走った。レジーの胸ぐらを掴もうとしたトッドの手は、空を切った。
気が付くと、レジーは、トッドより二メートル以上も離れた位置にいた。
トッドはすぐに気付いた。レジーは一瞬でトッドの顔面を殴り、そのまま距離を取ったのだと。殴られ、距離を取られてから初めて気付くほど、レジーの動きは速かった。
トッドが腕力を振りかざそうとしたからか、レジーは臨戦態勢になった。両拳を握り、その手を、目線の高さに構えた。両手をやや前に出すような構え。トッドがイメージしているボクシングのファイティングポーズとは、少し違っている。
最初に手を出したのはトッドだ。だからレジーは応戦した。けれど、トッドの頭からは、そんなことなど抜け落ちていた。喧嘩を売ってくるなら買ってやる、という気分になっていた。
ボクシングで世界チャンピオンになるくらいだから、レジーは強いのだろう。引き締まった体型から、彼が今でもトレーニングを積んでいるのだと伺い知れる。
だが、体格に圧倒的な差がある。レジーはどう見ても、六十キロもない小男だ。身長でも、トッドの方が三十センチ近く高い。体重差は三十キロ以上あるだろう。大人と子供と言っても大袈裟ではない体格差。
生物の強さは、概ね体格で決まる。五十キロの達人は、百キロの素人に勝てない。長年のアスリートとしての経験から、トッドはそう認識していた。
レジーに向かって踏み込み、トッドは思い切り殴りかかった。右腕を大きく振りかぶり、ボールを投げるように拳を振り抜いた。
次の瞬間、レジーがまたトッドの視界から消えた。コンマ何秒か後に、鋭く弾けるような痛みがトッドの体に走った。顔の右側に二発。腹に三発。合計五発のパンチを、ほとんど同時に打ち込まれた。
レジーは一瞬で、トッドの右側に回り込んでいた。また二メートルほど距離を置いている。パンチも足の動きも、信じられないほど速い。
もしレジーと一〇〇メートル走で競ったら、勝つのはトッドだろう。けれど、レジーの速さは種類が違う。ほんの一、二メートル移動する速度が、尋常ではなかった。
もっとも、レジーのパンチはまったく効かない。あまりに軽いのだ。彼自身が軽量なのだから、当然だが。
たとえ何発殴られても、これなら効かない。トッドには余裕があった。痛いことは痛いが、それだけだ。何発殴られても効かないだろう。いつか一発当てて、レジーを殴り倒せるはずだ。
トッドは再び、右腕を大きく振りかぶった。同時に、レジーに向かって踏み込む。拳を、レジーの顔面に向けて振り抜く。
先ほどとまったく同じように、レジーが視界から消える。同時に、数発のパンチを食らう。痛いが効かないパンチ。
再びレジーと向き合う。彼は、トッドに比べて遙かに小さい。彼にしてみれば、熊と向かい合うような体格差だろう。それなのに、彼の表情には、どこか余裕があった。パンチは効かず、トッドを倒せるはずがないのに。
トッドは舌打ちした。
「頭のネジが外れてんのかよ。これだから薬物中毒者は」
煽り、挑発したはずだった。レジーは、薬物の使用が原因でタイトルを剥奪された。ボクサーとしての成功も栄冠も失った。
トッドは、レジーを激高させるつもりだった。
だが、レジーはまったく表情を変えなかった。女房よりもいい女がいると言われたときは激高したのに、自分の汚点を突かれても平然としていた。
平然としていたが、レジーの口から吐き出された声は、低かった。
「俺は馬鹿な人生を歩んできたんだよ。だから、俺の女房は女神で、聖母なんだ」
「……は?」
間の抜けた声を漏らすと同時に、トッドの肩から力が抜けた。
「どういうことだよ?」
トッドが肩から力を抜いたからか、レジーも構えを解いた。廊下の壁際に寄る。そのまま、壁に寄り掛かるようにしてその場に座った。
「座れよ。俺の女房がどれほどの女か、聞かせてやる」
レジ-に並んで、トッドも腰を下ろした。
「だったら、セラがどれほどの女なのかも聞かせてやる」
球場の、控え室に繋がる廊下。
ほんの少し前まで試合に出ていた投手と、ゲストコメンテーター。
廊下を歩いてきた選手や監督、コーチは、二人に対し、妙な者でも見るような目を向けていた。けれど、決して、二人の会話の邪魔はしなかった。
互いが、互いのパートナーの素晴らしさを語り合う。惚気合う。その根拠を聞いて、互いに納得し合う。
二時間ほど語り合い、レジーとの対話を終え、連絡先を交換して別れた。
その後、トッドは、合流したチームメイトに聞かれた。
「お前、レジー・タピアと知り合いだったのか?」
別に知り合いではない。今日初めて会ったし、初めて話した。そう答えると、驚かれた。
それほど、二人は楽しそうに、それでいて感情を剥き出しにして話していた。
(続く)