復帰
「ほらほら、早く早くぅ」
女の子は走る。神社の敷地内を、何度も何度も後ろを振り返りながら。
「早くしないと、また日が暮れちゃうよぉ」
「きょ、今日こそ、捕まえて、み、みせるんだからぁ」
男の子は走る。神社の敷地内を、ずっと追いかけている女の子の背中に向かって。
「きょ、今日こそは……」
「早く早くぅ。ほらほらぁ」
女の子は走る。浮かべる満面の笑みは、この世に悲しいことなど一つもないかのように。男の子との鬼ごっこ、それがただただ楽しくて。
「こっちだよぉ」
太い樹木に体を半分隠して、口角を上げられるだけ上げていった。それはもう、この時間が永遠につづくと信じて疑うことなく。
「きー君ってばぁ」
頭上の空は、茜色を濃くしていった。
復帰
※
十月二十六日、月曜日。
午前十時。中央大学付属病院201号室には、中央に設置されたベッドに腰かけ、青いスポーツバッグにパジャマと着替えの下着を力いっぱい押し込んでいる青色のワイシャツ姿、天川希守がいた。
今まさに、今日までお世話になった病院を退院する。一週間前は全身に包帯をぐるぐる巻きつけた状態で、とんでもない重傷だった。それがたった一週間ですっかり治癒し、退院することができるのだ。医学の発展と、丈夫な体に育ててもらった母親にただただ感謝であった。
「…………」
窓側の白いカーテン越しには、向かいのオフィスビルが見える。ほとんどの窓から照明の明かりが確認できた。
そんなビルとの位置関係により、残念ながら来年の博覧会の目玉である建設中のセントラルタワーを眺めることはできなかった。別の部屋からなら見えるので、なんとなく損をした気分である。入院する病室は治療に専念するためのもので、窓の景色を求めるなんて滑稽な話かもしれないが。
「…………」
白い壁には猫のカレンダー、近くの台にはポットと湯飲みが置かれている。テレビが設置された木製の棚には、部下のきあ瑠が持参してくれたお菓子の詰め合わせがあるが、希守が一つも手を出していないのに、なぜだか一割程度しか残っていなかった。きあ瑠本人がここで食べていったからである。さすがに見舞い品ということで全部食べることを遠慮したのか、申し訳程度に残骸が置かれているのだった。希守は残ったお菓子をビニール袋に詰めて、パジャマの上からスポーツバッグに無理矢理押し込んでいく。
腰かけていたベッドのシーツの皺を整え、病室を見渡して忘れ物がないことを確認。着ているワイシャツより色の濃いネクタイをして、準備完了。
(さてと)
危険と背中合わせの職業柄、こうして入院することは、両手で数えきれない。つまり、その数だけ退院していることを意味する。できることならあまり病院にお世話になりたくないが、なぜだか希守は事件の度にこの病院にお世話になることが多かった。謎である。
けれど、入院は決していやなことばかりでない。この病院にいれば入院している母親の見舞いも容易にできるから。
「…………」
「支度できたみたいですね、天川さん」
いつの間にか、入口には前ボタンの純白なナース服に身を包んだ女性が立っていた。鳥升宝美。二十五歳。身長は希守と同じ百七十センチメートルで、腰まである長い髪の毛を後ろで縛っている。この中央大学付属病院の看護師で、入院している希守の担当でもあった
「あまり無茶しちゃいけませんよ。毎回毎回、どうしてこんなことになっちゃうんでしょうね? 少しは自分の体を大事に考えてもらいたいところです」
「仰ることはもっともで、僕も体は大事にすべきだと思います。いつも真剣といいますか、必死なんです。この国を守るため、平和を保つため、断じて目の前の悪を見逃すわけにはいきません。時には後先考えずに突き進んでいくことだってあるわけでして……そうすることがこの国の平和を守ることであり、自分の使命でもありますから」
「……その結果、犯人が逃走する車に正面から撥ねられちゃったわけですか?」
「その通りです!」
「……そこ、力を入れるとこじゃないと思います」
宝美は大きく嘆息。
「とても正気の沙汰とは思えません」
「あの場面では、仕方がなかったんです。犯人に逃走されては、事件が解決しませんから」
「正面から撥ねられることが仕方ないんですか? どんな場面なんです?」
目を丸める宝美。
「でしたら、もし、わたしが同じ状況に直面したら、わたしは迷わず車に撥ねられるべきでしょうか?」
「そんなはずないじゃないですか!」
即答。声を荒げてまで。希守は首を強くぶんぶんっと横に振る。
「車に撥ねられるだなんて、そんな危険なこと、やっていいわけありません! 宝美さん、少しは自分のことを大切に考えてください」
「あなたがです!」
宝美の一喝。
「なんで天川さんは自分のことになると、冷静になれなくなっちゃうんでしょう!? そんなことじゃ、お母様だって天川さんのことが心配でゆっくり静養することもできないじゃないですか」
「う……」
それから十秒間、『う』の形で唇が固まる希守。両目は尋常でないほど泳ぎまくっている。決定的な弱点を突かれ、どうにも反論することができない。
「……か、母さんのことを出されてしまいますと、なんとも苦しいものがあります……仰る通り、母さんにはいつも心配をかけてしまい、申し訳ないと思っています。ですが、それが月絵国における僕の使命だと思っています。母さんだって、こんな僕のことを応援してくれるはずですから」
「どうしても譲る気がないみたいですね……まったく、なんでこうも頑固なんでしょ」
宝美は吐息。
「いいですか、『勇気』と『無謀』を履き違えないでくださいね。もし天川さんに万一のことがあったら、みんな悲しむことになるんですよ、職場のみなさんもお母様も、もちろんわたしもです」
宝美はぷいっと横を向く。
「それに、天川さんがいなくなっちゃったら、いったい誰が怪盗トレジャーを捕まえるっていうんですか? いやですよ、別の人に追いかけられるなんて」
「……はい? 追いかけられる?」
希守の頭に巨大な疑問符。届けられた言葉の意味が理解できずに、口を開けたまま首を傾げている。
「……どうして宝美さんが追いかけられるんです?」
「天川さん、何を言っているんですか? いいですか、怪盗トレジャーを天川さんが追いかけるんですから、それはつまりは、わたしが追いかけられるということじゃないですか」
「はい……?」
希守の頭上に特大の疑問符が浮かぶ。
「……どうして僕がトレジャーを追いかけると、宝美さんを追いかけることになるんです?」
「どうしてじゃないですよ。だって、怪盗トレジャーは……」
宝美の動いていた口が、ぴたっと止まった。それはまるで映像の停止ボタンを押したみたいに。『しまった』という表情をして。
そんな、いかにも不自然なところで言葉を止めた看護師は、身長百七十センチメートルと世間を賑わす怪盗トレジャーと偶然同じ背の高さで、髪の長さも腰までとまったく同じ。そればかりか、その顔にあの巨大なゴーグルをつければ、まず怪盗トレジャーと見分けがつかない外見をしている。
フリーズしたままたっぷり十秒という時間を経て……止まっていた唇が動き出す。
「……あ、あのですね、えーと、その……どういうことなんでしょうね? わたし、何言ってるんでしょうね? えへへへっ」
宝美の顔に尋常でない汗が浮かんでいた。なぜだか現在、窮地に追い込まれたような心情的圧迫を得ている。
喉が大きく鳴った。ごくりっ。
「と、とにかく、その、天川さんには怪盗トレジャーを捕まえてほしいですよ。わたしは。だから、頑張ってください」
「はぁ……」
「つ、つまりですね、天川さんには頑張ってもらわないと困ります。はい、頑張ってください。頑張るのが天川さんの素敵なところです」
「……頑張って、頑張って、頑張る?」
「はい、天川さんは頑張ってくれればいいんです!」
まったくもって、さきほど向けられた問いの答えになっていないが、言葉を連ねることで窮地を力ずくに揉み消す方向に話題を導いていく。
「だいたい、こっちだって大変なんですからね。毎回毎回天川さんが入院する度にわたしが担当になるわけですよ。この前退院したと思ったら、すぐ戻ってくるんですもの。骨が折れるといいますか……すぐ病院抜け出そうとするのを見つけては、したくもないお説教しなきゃいけないわけです。もっとご自分を大事にしてください。じゃないと、今度から首に縄をつけますから」
「……首に縄ですか。とすると、僕、犬みたいになっちゃいますね。だとすると、飼い主は宝美さんってことですか? なるほどなるほど」
想像してみる。宝美の部屋で、鎖をつけられて一緒に暮らしている自分の姿……一緒にテレビを観て、食事して、風呂に入って、同じ布団で寝て……自身の姿は犬とはいえ、その生活は悪くない気がした。
「なんて素敵なんでしょう!」
「はいぃ!?」
「あ、いえ……」
こほんっと咳払い。
「そ、それはいやです。首に縄だなんて、涙ながらにいやですよ。本当に。いや、本当の本当に。ですので、忠告は充分肝に銘じておきます。今日までお世話になりました。ありがとうございました」
「仕事もいいですけど、ほどほどにしてくださいね」
「お約束はできませんが、心がけます」
終盤のやり取りによって、なぜだかほっと胸を撫で下ろす雰囲気を醸し出した宝美に、希守はにっこりと微笑んでから深々と頭を下げて、荷物の入ったスポーツバッグを手に病室を後にする。
平坦なリノリウムの床がつづく廊下で振り返るが、宝美は姿を見せない。病室の清掃をするようで、玄関まで見送りをしてくれなかった。入院した回数は両手でも数えることはできないので、当然のごとく看護師に見送られるのも数えきれないぐらいしている。なくてもいいが、お世話になった宝美に見送られないのは少し寂しい。
(…………)
201号室を出て右方にあるエレベーターの前に立つ。エレベーター近くに休憩所があった。『コ』の字型に設置されたソファーに、パジャマ姿の老人とその娘であろう中年の女性が談笑している。近くには自動販売機があり、小さな子供が母親にジュースをねだっていた。テレビにはニュース番組が流れていて、一昨日もまた現れたという暴走バイクについて報じていた。
「…………」
エレベーターがやって来た。扉が開くと、車椅子も利用するということで小会議室ぐらいの広さが目に飛び込んでくる。
中には楕円の眼鏡をかけた白衣姿の男性が一人乗っていた。希守を見て驚いたように目を大きくしたが、すぐ元に戻る。
希守はこの病院の医師であろうその男性に小さくお辞儀して、エレベーターに乗り込んでいく。
本日は月曜日で、希守には午後から仕事に復帰する予定である。けど、その前に寄るところがあった。希守はエレベーターで一階ではなく、五階に上がっていく。
「…………」
目的地は505号室。エレベーターを出て、通路を通って手前から四つ目の扉に入っていくと、まず中央に設置されているベッドが目に飛び込んでくる。そこには上半身を起こした女性がいた。その目に眼鏡をし、手にした本に目を落としている。
希守はその女性に声をかけていく。
「母さん、ご心配をおかけしました。これから退院いたします」
「……ああ、希守。よくきましたね。ほら、こっちへおいで」
ベッドの女性は、天川瞳子。希守の母親である。灰色のパジャマ姿で、半分以上白くなった髪の毛を大きく揺らして、ベッド脇に置いてあった飴の袋に手を突っ込む。
「ほら、飴だよ。好きだよね、お前。どうしたの? 遠慮なんかするもんじゃないの。ほら、おいで」
「あ、はい」
「えーと、他には何かあったかしら?」
「…………」
笑顔のまま、ベッド脇へと移動する。
「今回は一週間も入院することになりましたが、ようやく退院できます。ですから、仕事に復帰したいと思います。これからも月絵国のために、懸命に精進していきます」
「そうだよ。あなたは父さんと母さんの息子なのですから、しっかりこの国のために働くのですよ。そのために、決して努力を惜しんではいけません、常に全力を出して取り組んでいくのです」
瞳子は機嫌よくにっこりと微笑んだ。小さな丸い眼鏡の奥は、とても細いものとなっている。
と、次の瞬間、その目はどこか遠い空を見つめるみたいに虚空を漂う。
「……この国は、もう二度とあのような過ちを繰り返すわけにはいきません。そのためにも、希守はしっかりするのですよ」
「はい、肝に銘じております」
「もう戦争は、たくさんです……」
瞳子はどこでもない虚空を目に、小さく長い息を吐き出した。そうして、当時を思い浮かべるようにゆっくりと口を開ける。
「あんなの、人が生きていていい世界ではありません……」
その身が体感した、目を塞ぎたくなるほどのおぞましい記憶を、惨劇を、心の奥底より少しずつ紡いでいくようにして、多くの言葉をつなげていく。
常に死という恐怖が漂っていた、残酷な世界の話。
※
「…………」
希守はさきほど病院を後にしたばかり。着替えが詰まったスポーツバッグを右肩からぶら下げ、すっかり葉が落ちて寂しくなった何十本という桜が並ぶ川沿いの道を西方に向けて歩いていく。すぐ隣には片側二車線の道路があり、乗用車が次から次に追い抜いていった。
退院。まだ全快というわけでないが、日常生活に支障はない。そんな希守には部下と呼べるような人間がいて、出迎えを依頼することもできた。しかし、その選択はしない。自分のために部下の業務を中断させるなどと、発想すらなかったから。だからこそ、こうして徒歩で職場である警察署まで向かっている。
歩いていると、多くの通行人と擦れ違った。希守が小さくお辞儀すると、相手は面食らったように目を見開き、そそくさと歩いていく。
太陽は高い場所にあった。どこかで昼食を取ろうと考えたが、それほど空腹を得ているわけでない。今は職場に顔を出す方を優先する。
前方には銀色の電車が南へと走っていったばかりのコンクリートの高架があり、希守はその下を潜って先に進んでいく。十年ほど前まではこのような高架はなく、踏切によって電車が通る度に足止めされていた。それが今では中央地区の線路はほぼすべて高架になっている。交通渋滞は随分と緩和されていた。凄いことである。
高架の柱の近くにはバスケットゴールが設置されており、今は誰の姿もないが、夜にはきっと若者が集ることだろう。
「…………」
さきほどまでの母親のことが頭に残っていた。母親はいつも自分が体験した戦争のことを話してくれる。しかし、辛い生活を思い出すようで、興奮して血圧が上がってしまう。最後には呼吸を乱しながらも顔を赤くさせて今の平和の大切さを訴えてきた。
こちらに手を伸ばし、そこにある幸せを掴もうとするようにして。
そんな母親に希守は安心させてあげられるように力強く頷いてみせた。
希守はその母親の願いのために警察官になったのである。平和を守るために。
※
警察署は高いコンクリートの壁に囲まれている。門に立つ守衛の二人に敬礼をしている間に、希守を追い抜いた背広姿の人は正面にある巨大な十階建てのビル一階、玄関ロビーに向かっていった。しかし、希守はそれにつづくことはせず、建物を迂回するように塀に沿って敷地内を歩いていく。
前方に焼却炉があり、今も煙突から煙を吐き出している。奥には多くの銀杏の木が植えられていて、この季節は黄色く染まる葉を眺めることができた。もう少しすると、この辺りの地面には黄色の絨毯ができ上がるに違いない。銀杏拾いが楽しみである。
希守は、鉄筋コンクリートの建物を迂回していくと、敷地内の一番奥に建てられたプレハブが見えた。『月絵中央警察特別捜査部特別捜査G』という木製の看板を掲げた二階建て。
見えた瞬間に口元を緩め、希守は小走りになる。たった一週間の不在だったのに、とても懐かしい気持ちがした。
(あっ、豪さんだ)
二階建てのプレハブの前、青い袴姿の男性がいた。背筋を伸ばし、肩までの髪の毛を小さく揺らしながら、木刀を素振りしている。頭上から振り下ろす度に空気が切り裂かれ、顔からは汗が飛び散っていく。
希守は再会が嬉しく、相手に気づかれないようにそっとしゃがみ込み、小石を拾う。そして、大きく振りかぶり、投げた。
放物線を描く小石は、こちらに背を向けている袴姿の男に向かっていく。そのままではぶつかることだろう。
刹那! 目にも止まらぬ速さで空気を裂いた木刀により、宙を渡った小石が真下に叩き落とされていた。
(さすがは豪さんだ)
ぱちぱちぱちぱちっ、希守は拍手する。いつ見ても見事な太刀筋に感心するばかりであった。
「やあ、豪さん、お久し振りですね。相変わらず、鍛練に精が出てるみたいで、なによりです」
「おお、これは天川殿ではないか! そうか、今日が退院だったようであるな。めでたいことである」
小石を叩き落とした際、相手を眼光だけで威圧する鋭い目つきをしていた袴男から、緊張の色が消えていった。剣乃豪。三十歳。希守が所属する月絵中央警察特別捜査部特別捜査Gに在籍している。
「天川殿がいないものだから、小生はどのように時間を過ごせばよいのやら、やきもきしていたところであるぞ。さあ、命令してくれたまえ。小生はこれから何をすればいいというのであるか?」
「うーん、なんともおかしな話ですね、僕がいないからって、豪さんがやきもきする必要なんてないのに? だって、豪さんには鍛練があるじゃないですか? いざというときのために、いつだって鍛練は欠かすことはできないですよ」
「こ、これは盲点であったぁ!」
雷が直撃でもしたかのように、豪は全身をびりびりっと震わせたかと思うと、瞳をかっ! と見開く。
「そうであった、小生には鍛練があったのである。さすがは天川殿であるな。貴重な助言、痛み入る。ふふふっ、すべての悪は小生によって成敗されるのである」
「その調子ですよ。僕、上にいってますから」
相変わらず鋭い眼差しで、木刀を目にも止まらないスピードで振り下ろしていく豪の姿を横目に、屋根のない剥き出しの階段でプレハブ二階へ。
かんかんかんかんっ、踏み出す度に鉄製の階段が大きく鳴り、錆の色が目立つこの状態では、『いつ壊れてもおかしくないなー』と思わせるものがあり、いらない緊張を帯びてしまう。慣れでは克服できない問題であった。
(はー、やっと戻ってこれたー)
入院期間は一週間。振り返ってみればたったの一週間なのに、前回訪れたのが遠い日のよう。
目の前の扉。変哲のない擦りガラスつきのスチール製のもの。ノブを掴んで手前に引くと、剥き出しの電球の光が目に飛び込んできた。今はなんとも眩く思えるオレンジ色。鼻孔を刺激する埃っぽさがとても懐かしかった。
「ただいまー」
手前には下駄箱用の棚があり、他には段ボールがたくさん積まれている。元々このプレハブは荷物保管用のもので、一部を改修工事して事務所にしていた。そのため、まだ処理できていない荷物がそのまま残されている。たくさん積まれている段ボール表面にはどれも埃が白く積もっていた。
玄関から顔を伸ばして奥の方に目を移すと事務机が三つ並んでおり、ここが希守たちの事務所である。しかし、今は照明が消されており、まるで終業後のよう。
この玄関近くには間切り板に囲まれた応接室にソファーが設置されており、テレビの音が響いてくる。覗き込んでみると、知っている顔を見つけた。
「ただいま、きあ瑠ちゃん」
応接室には、青を基調とした白い制服姿のきあ瑠が、ソファーに寝ころびながら煎餅を銜えていた。
一週間前までは当たり前にあった光景が、なぜだか無性に愛しい。
「お疲れさま。ちゃんと言われた通り、事務所の照明消してから休憩してるみたいだね。えらいえらい。採掘される資源には限りがあって、貴重なエネルギーは大切にしないといけないんだ」
「あー、天っちょ警部だったりそうじゃなかったりしちゃうかもしれなかったりするような気がしないことはない」
「……天川だよ、確実に」
「今日が退院だったりしちゃいます? あらら、知ってたこともあるようなないようでしたよ。退院おめでとうございます」
小さくぺこりっと頭を下げて、きあ瑠は再びテレビに顔を戻す。月曜日の昼ということで、画面に情報番組が流れていた。
「とかく、おかえりなさいだったりしちゃいます。天っちょ警部、言ってくれればお迎えにいったかもしれないような、だったりしちゃいます。水臭かったりしちゃいます」
「きあ瑠ちゃんならそう言い出すと思って、遠慮したんだよ。僕なんかのことより、みんなには仕事を優先してほしかったからね」
希守の言う『みんな』とは、ここにいるきあ瑠と外にいた豪のこと。この月絵中央警察特別捜査部特別捜査Gに所属するのは、たったの三人。グループ長が希守で、部下がきあ瑠と豪という少人数部署。いや、正確には、隣接する立派な警察署ビルから押し出された部署だった。そうなっている原因は希守にあり、だからこそ、みんなには申し訳なく思っている。ただ、その点に関して一切愚痴を零さない部下には、本当に恵まれていた。
「留守の間、変わったことはなかったかな?」
「変わったことがあったかなかったかっていうと、うーん……」
きあ瑠は銜えていた煎餅をばりっと齧り、視線を斜め上に向けて逡巡し……首を横に振っていた。
「うむー、特にはなかったりします。一昨日黒暴走に逃げられちゃったぐらいだったりなかったり、ぐらいのようなそうじゃないような。うん、やっぱり特になかったりします」
「そう。よかったよ」
夜のビル街を暴走するバイクの件は新聞で読んでいた。病院のテレビでもニュースを観た気がする。取り逃がしたことは、警察として失態であるが、だからといって責める気持ちなど毛頭ない。肝心なときに、現場に居合わすこともできなかったのだから。
希守は、病院からずっと肩にかけてきたスポーツバッグを奥にある自分の机に置き、受付箱に書類が山積みになった状態に苦笑。暖房はないが、だからといって寒いわけではない。コートを脱いで椅子の背もたれにかけ、机の上にある書類の山を見つめて少しだけ逡巡し、後回しにすることに決めた。今はまだ休憩時間である。
応接室のソファーまで移動して、きあ瑠の隣に座る。テレビ番組では大物芸能人の不倫報道が流れていた。希守はあまりテレビを観ないので、不倫した芸能人も、唾を飛ばしながら激しい口調で責めているコメンテイターも、誰が誰だか分らない。
壁にかけられている丸時計は、十二時十五分を少し回っている。この時間だと、まだきあ瑠たちは昼食を済ませていないだろう。意識すると、急に空腹を得た。出勤したばかりで、いつもと勝手が違い、時間の感覚が少し変である。病院を出るときはなんともなかったのに、『これだったら、どこかで済ませてくればよかったかなー』そう思った。
「…………」
「毎度ぉ、万来々(らい)軒でーす」
威勢のいい声とともに、応接室近くにある扉が開く。そこには取っ手と蓋のついた鉄製の岡持を持つ、白い作業着に身を包んだ男性が。雷田翔琉。二十二歳。中華飯店と定食屋を足して二で割ったような万来々軒から出前にやって来たのだ。
「おっと、これはこれは天川の旦那じゃないっすか。もう退院されたんで? 旦那がいないから寂しかったっすよ」
翔琉は慣れたように、応接室のテーブルにラップをかけたチャーハンと坦々麺を置いていく。
「きあ瑠さんは坦々麺っすよね。今日も丹精込めて運ばせていただきやしたっす。親方にスパイス全開って頼んでおきやしたから、今日のはきますぜ」
「どもね」
「炒飯は外で目の色変えて木刀振り回してた袴の大将の分っすよね。あれ? 天川の旦那の分はないんで? どうするんっすか? なんなら、もう一回出前してきやしょうか?」
「ありがとう。でも、今日はいいよ。また今度頼むから」
「そうっすか。毎度おおきに」
翔琉は身長百八十と大きく、その分横幅も広い。声は地の底から這い上がってくるような低く太いものだった。
翔琉はきあ瑠から受け取った百月絵ドルを手にして、即座に照明に翳していく。百月絵ドルはこの国の最高紙幣で、シルクハットを被った初代国王の肖像画と、木々に囲まれた国会議事堂が描かれている。中央には透かしがあり、そこには満月があるが……翔琉は満月にひびがないことを確かめた。
「物騒な世の中っすよね、偽札が横行してるなんて。毎回確かめないと安心できないっすよ。あ、いや、断じてきあ瑠さんが偽札を出したって疑ってるんじゃないっす。念のために確認しないと、親方に叱られますんで。はい、確かに。これ、お釣りっす」
翔琉は釣りをきあ瑠に渡してから、テレビに顔を向けている希守に囁きかけるように声をかけていく。
「なことよりも、天川の旦那、一昨日の事件、どうっすか?」
「一昨日?」
希守はついさっき退院してきたばかりで、一昨日といえば病院にいた。新聞を読んだ限りは、これといった事件は載っていなかった気がする。もしかしたら見逃したのかもしれないが……少なくても現時点ではぴんっとくるものはなかった。
「事件なんてあったんだっけ?」
「いやだな、旦那。一昨日の夜も、深夜の闇を切り裂く漆黒のブラックライダーが現れたっていうじゃないっすか」
「……ああ」
さっきその話をきあ瑠としたばかり。
「あの、黒暴走のことね」
「ブラックライダーっすよ!」
なぜか呼び方にこだわる翔琉。譲れないとばかり、顔を近づけていき、両の拳を握りしめている。
「ブラックライダー、凄いっすよねー、ぶっちぎりでこの中央地区を駆け抜けていくんっすから。いやー、最高っすよー」
希守のいう『黒暴走』と翔琉のいう『ブラックライダー』は同一人物。深夜の中央地区を黒スーツで暴走行為を繰り返す一人のライダー。これまでに何度も出没していて警察も追いかけているが、残念ながら逮捕に至っていなかった。
「ブラックライダーはスピードだけを追求して、どこまでも駆け抜けていくんっす。格好いいじゃないっすかー。どこかに盗みに入るわけでもないっすし、誰かを誘拐するわけでもないっす。単純に速さの限界に挑戦してるんっす」
「いや、格好よくなんかないよ」
相手の興奮を、即座に全否定。希守は相手との凄まじい温度差で、淡々と言葉を紡いでいく。
「全然。まったく。これっぽっちも格好よくない。だって、スピードを追求っていっても、ただの暴走行為を繰り返しているだけで、迷惑でしかないよね。スピードを追求したいならサーキットですればいい。それなら応援してくれる人がいると思うよ。あれを迷惑以外に思っている人なんていないでしょう?」
「いますよ! いっぱいいます! 無茶苦茶憧れるじゃないっすか。格好いいっすもん。今や怪盗トレジャーと並ぶ中央地区の光っす」
「……トレジャーに並ぶことに意味があるとは思えないし、それに、どっちも迷惑だよ。なんであんなものに憧れるのか、僕にはさっぱり理解できないな。あと、黒暴走はトレジャーほどの知名度はないね。やってること、バイクで走って迷惑行為をしてるだけだし」
「そんなことないっす!」
またも力が入る翔琉。目に火花を散らしてまで。
「巷ではトレジャーよりもブラックライダーの方が盛り上がっているぐらいなんっすから。もう時代はブラックライダーっすよ、絶対。あのスピード、たまんないっす」
「うーん、そんなもんかなー、ちっとも理解できないよ……」
希守は得心いかないように眉を顰めて首を傾けると、その鼻にはきあ瑠が食べている坦々麺の香ばしい匂いが。瞬間、存在を脅かすほどの凄まじい空腹に襲われた。盛大に腹の虫が鳴ったぐらいに。
ぐぐうぅーっ!
「あー、駄目だ、僕も腹減ったから、ちょっと食堂いってくるよー。きあ瑠ちゃん、昼から打ち合わせだからねー。一週間あると、結構仕事が溜まっちゃうからー」
「あれ、天っちょ警部ぅ!?」
食堂に移動すべく勢いよく立ち上がった希守に対して、坦々麺を啜っていたきあ瑠が思わず声を裏返した。目を大きく丸くさせているので、周辺に汁が飛んでいることにも気づけていない。
「天っちょ警部、食堂にいったりいかなかったりするんですか?」
「……紛れもなくいくんだよ。たまには気分転換にいいでしょ」
「そ、そんな天っちょ警部が食堂だなんて……じゃ、じゃあ、あたしもご一緒したりしちゃいます」
「どうして?」
ただただ疑問でしかない希守。相手は坦々麺を啜っている最中。
「きあ瑠ちゃんは、そのおいしそうなのを食べてるところでしょうが」
「で、でも、天っちょ警部……」
不安そうに、心配そうに表情を曇らせて、きあ瑠はすっかり箸を止めていた。その視線は希守の外跳ねの髪の毛と瞳にいっている。そこにある色を意識して。
「天っちょ警部が、食堂だなんて、その……」。
「ははっ。大丈夫だよ。僕のことは気にしなくていいから。さっきも言ったけど、昼からは未解決事件の整理だから、書類をばっちり用意しておいてね。そうそう、お昼だから豪さんも呼んでこないといけないな。せっかくのが冷めちゃうよ。あー、なんか、こうしてると、『戻ってきたなー』って実感するよー」
青色のワイシャツ姿のまま、引き止めようとするきあ瑠に安心させられるように微笑み、希守は事務所を後にした。
月絵中央警察署一階にある大食堂。一度に五百人は入れるだろう大きな食堂で、希守が訪れたのは混雑する昼食開始時より少し遅いこともあり、席は五割程度しか埋まっていなかった。スピーカーからは誰もが一度は耳にしたことがあるクラシックのピアノ演奏が流れていて、暖房は入っていないが、料理の熱と利用する人の熱気で充分暖かかった。
希守は窓側の席に座り、サンドイッチを食べている。カツサンドとハムサンドのシンプルなもので、トレイ端のコーヒーカップから湯気が立ち昇っていた。食堂といってもこういった軽食も用意されていて、喫茶店のように利用できる。希守は少食のため、こういうのがあると非常に助かるが、普段は人の目を気にしてあまり利用することはなかった。
(…………)
希守の周囲にもたくさん席があり、食堂の半分近くの席が埋まっているのに、希守の周囲は空席となっている。一番近くの人間でも席が八つ離れていた。まるで意図して希守の周囲が避けられているよう。事実、意図して避けられているのだが。
けれど、だからといって無視されているわけではない。現に希守は多くの視線を感じている。若くして警部にまで飛び級昇進した希守は、こうして大勢の人間に敬遠されるのだ。しかし、本人は気にしない。慣れというのか、いつものことである。なぜなら、特別視されることは今にはじまったことでなく、幼少の頃から繰り返されてきたこと。もううんざりを通り越して、日常と化していた。
「…………」
食堂を訪れるのは久し振り。外に事務所を構えてからは、一年でも片手で数えるほどしかない。いつも昼食は出前か近くの店で買ってきて、事務所の応接室で食べている。同じグループの三人で、テレビを観たり、どうでもいいようなことを話したりして。希守にとってあの二人は、自分のことを特別視しないで接してくれる貴重な存在だった。
だから、こうして一人寂しく食堂にいること、周囲の人間に遠巻きに見られていること、嘆息したくなる気持ちが大きいが、仕方のないことなのかもしれない。これが警察本部ビルにおける天川希守の扱いなのだから。
「…………」
「おお、これはこれは天川君ではないか」
遠くの方から大股で歩み寄ってくる大きな男性がいた。八神秀一郎。希守が所属している特別捜査部の部長である。恰幅のいい体型を揺らしながら、どしどしっと歩み寄ってくる。
「入院しているとのことだったが、今日はどうした?」
「ご迷惑をおかけました。さきほど退院しましたので、任務に復帰したいと思います」
「そうだったのか。あ、いや、せっかくの静養なのだから、ゆっくりしていればいいものを、熱心なことだな。儂ならもうちょっとぐうたらしているところであろうに。がっはっはっ」
八神の身長は百七十センチの希守と同じぐらいだが、横幅が半端ではない。着ている背広も張りに張って今にもはち切れんばかりのぴちぴちっ状態。来週はもう十一月なのに額には汗が滲んでいた。
「先週はまたしてもお手柄だったな。まさかあの連続強盗のアジトを突き止め、犯人を逮捕してしまうとは」
「いえ、あれは部下二人がやったことですから。ただ、ああして事件が解決できたこと、よかったと思っています。僕の使命はこの国の治安を守ることですから。それを乱す人間を断じて許すわけにはいきません」
「がっはっはっ。そう謙遜するものではないよ。あの業績に、また所長が所長賞を用意していると聞いた。天川君みたいな部下を持って、儂も鼻が高いよ。これで天川君のその髪さえ……」
八神は急ブレーキで言葉を止め、小さく咳払い。
「ああ、いや、その……と、とにかくご苦労であった。これからも中央地区の平和のために力を発揮してくれたまえ」
「はい、尽力いたします」
大きな体を左右に大きく揺らしながら、食堂を後にする上司を目で見送り、これまでのやり取りを食堂にいた人間が好奇心に目を光らせながら遠巻きで見ていたことを認識する。顔を向けてみると、視界にいる全員が一斉に顔を逸らすので、希守は窓の方に顔を向けながら小さく吐息した。
窓の外は小さな庭園で、大きな岩を囲むようにして木々がたくさん生えている。向こう側は警察署を取り囲む高い塀で、今は日陰となっていた。食堂の照明と外の薄暗さの関係が窓に若干の反射を生み、僅かではあるが希守の姿を映し出している。
「…………」
映し出されたもの、それは鮮やかなまでの黄色の髪と黄色の双眸。月絵国人のものではなく、大国人の色である。二十九年前まで戦争をしていた敵国の。
「…………」
希守の母親は敗戦後、周囲の反対を押し切って大国人と結婚した。希守は父親の血が濃いようで、髪の色も目の色も黄色となっている。だからこそ、この食堂では誰もが奇異なものを見るように遠巻きで見つめ、近づいてこようとしない。病院からの道程もこちらを振り返った人間は希守の髪の色を珍しがってのことで、古い人間からすればこの髪と瞳の色は忌み嫌う対象なのだろう。
『黄色い悪魔』それが月絵国民から見た大国人であった。さすがに戦後二十九年の歳月が過ぎているのだから、その差別的な見方も随分薄らいでいるものの、完全になくなることはなかった。
(……そろそろ戻ろうかな?)
ここはあまり居心地のいい場所とはいえない。やはり希守の居場所はあの小さな事務所なのだ。それに、食堂にいくと伝えたとき、きあ瑠にいらない心配をかけてしまった。ああ言ってもらえたことは嬉しくあるが、部下に気をかけてしまっている面では上司失格である。
(みんなと同じ月絵国の人間なのにな……)
すっかり冷めたコーヒーを飲み干し、トレイを持って席を立つ。
移動する希守を追うようにして動いてくる周囲の視線を気にすることなく、『ありがとうございます。とてもおいしかったです』そう食器を洗っていた人に声をかけて、食堂を後にした。
※
十一月一日、日曜日。
すでに昼食を済ませており、午後二時。
中央警察特別捜査部特別捜査Gの事務所内において、現在G会議が行われていた。メンバーはGに所属する三人。希守ときあ瑠と豪。
玄関近くの応接室が会議室となる。ホワイトボードにはここ最近、中央地区を騒がせている事件が羅列していた。
『怪盗トレジャー』『連続強盗事件』『偽札製造』『連続幼児誘拐事件』『麻薬流通』『連続下着泥棒』『深夜の黒暴走』
並んでいる事件の内、『連続強盗事件』には二重線が引かれている。それは先週、怪盗トレジャーを追いかけているときに偶然現場に遭遇し、解決した事件であるから。毎日のように宝石店が襲われており、警察の捜査もなかなか足取りが掴めなかったものを、希守たちがあっさりと解決したのである。その際、希守は逃走する犯人の車に撥ねられたのだが。ともあれ、これでまた一歩、月絵国の治安維持に貢献できたと喜ぶところだが、まだまだ事件はたくさん未解決のままだった。
「こうやって並べてみると、僕たちにはやらなくちゃいけないことがたくさんあることが分かるね。僕たちはこの中央地区の平和を守るためにいるんだから、みんなが納める税金を有益なものにしないと。じゃあ、きあ瑠ちゃん、ここまでの点で補足はあるかな?」
「なかったりしますよー。だってだって、ようやく連続強盗事件の方が落ち着いたりしちゃったんですもん。天っちょ警部が入院しているとき、現場検証とか、被害店舗への説明とか、記者会見の見学とか、もろもろ大変だったりしなかったりすることもなかったんですから」
「……どっちなの? ってより、それら全部本部の人の仕事だよね。僕たちにそんな権限ないと思うけど……って、最後の記者会見の見学って、やってることは野次馬と変わらないんじゃ……」
「そうだったりすることはあるかも、ないかも」
微笑みながらかわいらしく首を傾けるきあ瑠。会議中でも関係なく、制服姿で煎餅を口に銜えている。醤油味であり、さっき近所にある駄菓子屋で焼き立てを買ってきたもの。まだテーブルの上に置かれた紙袋にはたくさんある。その量、とても会議中に食べ切ることはないだろう。
噛むと、ぱりっといい音がする。瞬間的に香ばしい匂いが事務所内に漂う。食欲をそそると同時に、どこか懐かしい匂い。だからこそ、きあ瑠の手が次から次に伸びてしまう。
「とかく、事件解決はいいことで、それは間違いなかったりしちゃうかもしれないような気がする」
「部長の話だと、また所長から賞状がいただけるそうだから、きっと金一封もあると思うよ。そしたら、またみんなでご飯にいこうね」
「わっはーい」
諸手を上げて大喜びのきあ瑠。『みんなで食事にいける』という部分で、現在食べている煎餅が格別においしく感じられた。
「じゃあ、この辺でちょっとお菓子タイムにしたりしたりしたりしちゃったりしちゃいますか?」
「……会議やってるところだから、まだ休憩には早いかな。って、今でも充分お菓子食べてるでしょ。きあ瑠ちゃんの場合、年中お菓子タイムなんじゃない?」
会議中のきあ瑠の発言に大粒の汗を額に浮かべつつ、希守はもう一人の袴姿の男性を見つめる。
「豪さんは未解決の事件についてどう思いますか?」
「小生は未熟者であり、まだまだ精進して業務を遂行していかなければならないのは明白である。だからこそ、教えてほしいのだ。小生はいったい何をすればいいのであるか? どうすればこれまでにない小生になることができるという?」
「うーん、それは豪さんが生真面目な性格で、だからこそ、ちょっと難しく考えちゃっているところはありますね」
希守はにっこりと笑顔。
「いざというときは、僕はちっとも役に立たなくて、いつも豪さんが頼りです。なら、豪さんは日頃から鍛練をしていてください。『ここぞ!』ってときに頼りになるのは、やはり豪さんしかいませんから」
「なるほど、そういうことであったか。小生が鍛練することによって、世の中の平和が確たるものになるということで間違いない、ということであるな。さすがは天川殿、その発言すべてに重みが感じるのである。よし、ぐずぐずしておれん。さっそく鍛練である」
「あ、あの、今は会議中でして……」
意気込み強く、鼻息荒く、ソファー脇に置いていた木刀をさっと手に取って颯爽と事務所から出ていった袴姿に、半分開けられた口を十秒以上閉じられなくなる希守。
いつものこと。
「ねぇ、きあ瑠ちゃん、どうしてトレジャーにはいつも逃げられちゃうんだろう?」
「とかく、天っちょ警部の能力不足だったりしちゃう」
「……こういうときだけはっきり断定するんだよね」
苦笑い。
希守は首をぐるーっと回し、天井を仰ぐ。プレハブの天井には細いパイプが十字に組まれ、クリーム色の天井にはいくつもの黒い染みが見えた。まだ雨漏りは確認できないが、時間の問題だろう。次の夏から秋に大きな台風が上陸したら要注意である。
(……んっ?)
と、その時、扉をノックする音がした。こんこんっ。こんこんっ。どうやら来客のようである。希守は煎餅を銜えたまま資料の隅に猫の絵を描いているきあ瑠を残し、段ボールがたくさん乱雑に放置されている所に扉があるばかりに、自分たちが『玄関』と主張している場所へ。
(……あれ?)
扉を開けたが誰の姿もなかった。
「豪さーん、誰かいませんでしたか?」
下で木刀を素振りしている豪に問いかけるも、『鍛錬に夢中で気づかなかったであるな』とのこと。
(うーん、おかしいな?)
頭を傾けながら扉を閉めようとして、異変に気づく。
(あっ!)
扉には、怪盗トレジャーからの予告状が貼りつけられていた。
『今宵、楓美術館にある女神の肖像をいただきにまいります』
カードほどの大きさの予告状には、いつもの通り、四角いゴーグルのイラストが描かれているのだった。