6 青森に向かう車中の中で、コータローは
諱を授けられず、うの音を隠されたままの浩太朗は、一人息子の、孫の名さえ覚えられない父親爺になって
青森への道すがらの700キロを、ドライバーの一人息子相手にずぅーとお喋りしながらも、コータローは元々が無口だった性から、思考を司るあたまの半分は、ひとり東京にやってきてからの50年の間をその時の自分に投影している。自分のお喋りをカーラジオから流れるDJのお喋りの余所者扱いにするくらいだから、10時間のドライブをずぅーとハンドルを握り続けなければいけない一人息子は左から右に受け流す。
お喋りな父親は今に始まったことじゃないと、狭いフィアットのコンパーチブルのルーフを開けずにずっと付き合ってくれている。
彼の子も、もう五十なのだ。しかし、彼の中に50年があるわけじゃない。
オジ顔に落ち着いてしまったのは一駅先に住んでる息子だが、彼の子を産んでより出ていったきりの妻に代わりずぅーと手元において育ててきた息子なのだが、彼が自分と同じように20歳の澪で同い年の女と結婚し巣を作って時おり訪問されたり訪問したりの社交の関係に移ると、妻とから始まった20年余のことは、嫁の方へいったんは映り、それから途中の男の子二人を挟んで生まれた末っ子の佐和子の方へ移っていく。
たぶん、それは、妻からではなくて、母から繋がっていることで、もしも母にそのことを尋ねたら、いいえ私なんかよりももっと橙に繋がっていることと応えるに相違ない。
元々が自身のことだからひとつひとつを立ち止まり、振り返り、費やす説明はいらない。が、そのときまで青森にいた自分とそれから東京で過ごしてきた自分とは繋がるものがひとつも無かったように感じる。何かに繋がっている感じを近くに寄せるとき、コータローはいつもひとりだと強く感じた。
けっして、故郷と呼ぶもの同胞と呼ぶものすべてを捨て去るように青森を出たわけではなかった。母が亡くなり、父なるひとが自分が授与出来なかったそれを再び預かるような格好になって、次の筋を進めるように青森を離れ東京にやってきたのだ。
父なるひとは、再びというように、葛籠の奥から青森に辿り着いたときの国民服をひっぱり出して、万歳三唱で送り出した。それを見ているのを嫌がってるのが分かっていても、「これは国民服ではない。それよりも前に満洲国で流行らせた協和服だ」と得意げに吹聴する。
わたしはこの男が嫌いだった。父としての隔絶よりも、そもそもこの家屋敷にいることが異物だった。異物をみると、わたし自身もこの家の異物だと感じるからだ。だから、いつまでも授与できずにいる母は諦め、老い衰えた身を今生に残すのにもう飽いてしまった。
わたしが世間でいうところの父を感じるひとはすでに今生ではないひとだ。授与の修練のときに母の後ろに立って、一緒に汗をかきかきわたしの一挙手一投足に視線を送ってくれるひとだ。それなのに、わたしはそのひとがすればするほど、掌を後ろに隠し、いやいやを決める。身につけたカタコトの幼子のときからその仕草は変えていない。
そんな姿をそのひとに見続けてさせていれば、老い衰えた母が今生に飽いてしまうのも分かるというものだ。うしろのそのひとが母を慰める。
「こんなにイヤイヤする子に無理を強いることはありません。繋がりが悪かったのです。次まで待ちましょう」と、肩に手を置いた姿が最期だった。
妻となる女と逢ったのは、東京に来て間もなくだった。
偶然立ち寄った店で働いていた彼女に、わたしは既に繋がっているもの同士のようなお喋りを始めた。常に無口で、青森では必要な用を足す以外の言葉など発したことのないわたしは、お喋りをしていた。いまと同じように、ラジオのスイッチをオンするようなターンテーブルにレコード針を落とすような設えがわたしの中に出来ていた。
妻は、母がそのとき以前から母であったように、そのとき以前から妻であったように思う。
こうして、東京のひとになったわたしは、妻と二人から始まる。