4 娘にまで戻ったその女(ひと)とわたしは連れ合いになったのです
近しいからそれを感じるのか、それを感じるから近しかった時分に戻っていくのか。性愛を伴った男女のことも血を分けあった身内のことも、それと感ずる匂いは同じ
娘にまで戻ったその女とわたしは青森の下北で暮らしはじめました。
そうして10年が経ちました。その間に子どもは3人授かりましたが、女の子二人は3歳のお節句を待たずに亡くなり、一番下の浩太朗と名付けた男の子だけが5つのお節句を迎えたのです。浩太朗はこうたろうではなくコータローと呼んでました。うを隠して呼んでねと言われたからです。
諱に纏わる長い話を終えた山本上等兵の母君がわたしの齢を通り越して娘の姿にまで戻ったときは驚きました。が、こうして、それからの方が長くなっていくと、あの日一度きり逢っただけの母君の姿はこの女から遠いものになっていったのです。ちょうど、近しい女が亡くなりそのあともその女が今までどおりに近しいままで居ると、だんだんとその女が自分にとってのその女の本来の有り様に戻っていくのと同じでした。
振り返った時、時折、これが本来の有り様でないと諌めるものは感じます。わたし自身の中から感じます。それでも、もう、ハバロフスクでの抑留を含めた外地での戦のことや山本上等兵のことは向こうからは出てこなくなりました。だからでしょう。こうして時折は振り返り、死んだものばかりでなく、纏わる様々へ想いを馳せるのです。
それが、この女と当たり前な日常を暮らす方便なのは、しってます。それがいつの日か転んでしまうのも分かっていました。
コータローのお節句が近づいた頃、わたしは自動車を買いました。1000ccもある白いセダンです。テレビを買ったときも今までとは違う別のクラスの仲間入りをするような気恥ずかしさはありましたが、マイカーは別格です。国産車なのに、アメリカ人みたいなに背ぃが伸びて鼻まで高くなったような気がしました。もちろん、引き揚げてから上の学校に入ることもなく新しく出来た近くの工場に勤めるだけのわたしの器量でそんな贅沢が許されたわけはありません。
連れ合いになったその女の器量によりいまの日常をおくっているのです。
もともとが代々裕福な家のようであるのです。先の大戦の供出で逃れた調度品の数々から軒に深く差し出た垂木の一本一本まで、出征するまで生まれ落ちた村よりほか知らないわたしでも一朝一夕の素封家でないことは感ずいてました。
そうした住処のためだけの家屋敷ではありませんから、他人を招き入れる戸口は別にもう一つありました。
その戸口を使い招き入れる老若男女たちを客と呼ばず他人と記憶するようになったのは、そこにアンタッチャブルな気配を感じたからです。10年住んでいればその戸口を潜る誰もが分かります。誰もが分かるのに誰が誰なのかは分かりません。皆んな顔がくっついていて濁音のない呉音の老若男女で括ってるご近所たちです。それでも、わたしは偶然にその光景を目撃したときは、他人のふりをします。見えていても見えていないふりをします。
それが、諱にまつまる長い話の中にあったかどうかは分かりません。
けれど、アンタッチャブルを続けていくことは、ここの毎日を日常に過ごす方便なのは確かなことでした。
老若男女でも、大半はわたしの父母よりも遥かに齢を重ねた老爺老婆たちです。その女を見て懐かしい顔をするひとたちです。この女の幼かった日の顔を見つけてそうするのか、自分の幼かった日を思い起こしてそうしたのか。それがどちらなのかまでは分かりません。
大きな立派な拵えの家屋敷とはいえわたしが勤める工場ほどの容積があるわけはなく、その戸口から繋がって他人を招き入れてる先は、こうした旧家によくある余った透き間をその家の主と呼ばれる者はけっして開けたりはしない使用人や布団を押し込むための窓のない物置きのようにした設えです。ときおり女のくぐもった声が壁から染み出てくるので、仏壇と背中合わせになった中廊下あたりなのは概ね外れていないようです。
招き入れた老若男女の誰であっても女の籠もった声の陰影や長短に変わりはありません。わたしはあの女の連れ合いですから、その中でのことを想像したとき、世間一般な下世話で言うところのざわざわに変換したこともありましたが、いまはただ流れるものが流れていくだけの時間の経過をあたまの先につけるようにしました。
今月は今日で9人だから、マイカーの月賦が2ヶ月縮まると、わたしの先はそちらに切り替わります。
工場での給料日、わたしの差し出した給料袋をその女はうやうやしく受け取ると神棚にあげ、短い祝詞をあげます。家の方の祝詞ですから、壁の奥から聞こえるあのような籠もったものでなく、合掌してる間の短く明るいおまじないのようなものです。それから、先にその女があげてた紙包みを下してわたしに渡すのです。
女心でしょうか。
千円札だけではわたしが渡した給料袋よりも厚くなるのが分かっていますから、繰り上がった分は同じ顔の聖徳太子の一万円札に変えてありました。
「今月も、お疲れ様でした。それでは、これで来月をよろしくお願いいたします」
この女は、なにかのために出かけるときを除き、外に出かけることをほとんどしません。ですから、おのずと買い出しや支払い関係はわたしが担うこととなります。中身の太宗は、萬屋の月々の掛金に、テレビと先月から始まったマイカーなどの月々の月賦に消えますが、それでも残る1万円札1枚と千円札数枚がわたしの来月の遊び銭になるのです。
わたしは自らを前に出していくような男ではありません。が、「うまく当てたな」と此処の婿のように扱う世間の目を受け入れていましたから、金回りの匂いに寄ってくる輩を排除せず神輿に乗って、飲む打つ買うの遊びのひととおりを過ごし、借金を作らず残金を残さず翌月を迎えました。
きっと、その女の前でも、借金を作らず残金をつくらず月越しするのが才覚のような顔をしていたと思います。あの女はそんなわたしを甲乙付けずに見守っていました。この女と当たり前な日常を暮らすのは方便なのだとあたまの先に括りつけてはいましたが、浩太朗をコータローとうを外して隠す呼び名に慣れ親しんでるのと同じように、わたしはこれからもこの先もこれが続くように尻の下に敷いたのです。