3 ホッキ貝のおかゆを食べながら
諱には、貴っとい香の匂いと屍の酸えた臭いがする。裏表がする。諱自身に表と裏があるのでなく、それを見定めようと覗くものの眼に宿るような
代々の家屋敷には、山本上等兵の母君がひとりで待っていた。老いても身体の節々が凛としたままの女だった。・・・・あの子があなた様に託したのは遺書と申せば遺書でしょう。ですが、世間様が言うところの遺書と呼ぶ類のものなんかじゃありゃしません。あなた様は他人様ですから、お見せは敵わないのです。あれは、あの子の諱なのですから。
母君は、本土を踏んで他は立ち寄らずに真っ直ぐやってきたわたしを気遣って呉れる。抑留で亡くなった我が子と同じ憂き目に晒されたわたしの身体を気遣い、慈しんで呉れる。今までのことがあるから、身体は御馳走と呼ばれる類は受付けないだろうと朝からの支度で出来上がったお粥を差し出して呉れる。
青森の、下北のそれなのに、母君の声や掌の隙間隙間には京の都のくるんとしたはんなりが顔を出す。囲炉裏の鍋を開けると磯の爽やかだけを集めたホッキ貝のぷつぷつが顔を出す。引揚船で横たえた視界に写った尖った外梅とは別の、わたしを造る体液と同じ塩味の湯気が鼻腔に来る。湯気の香りに負けそうになり、わたしは初対面のこの女に伝えてたハバロフスクの抑留の顛末の途中であるのをあやうく忘れるところだ。
途中を駆け足にして、一番の大事に掛かった。椀を置き、箸を置き、借りた裁ち鋏で内ポケットの縫い目をほどいていく。
ぽつぽつ、ほつほつ・・・・・・
ぽつぽつ、ほつほつ。
震えはなく、向かいの女の嗚咽も聞こえない。現れた紙片を指の先でつまみと、指を変えずに差し出す。母なる人の前で、わたしの一部が紙片に触るのを出来るだけ避けたのだ。
一礼をして受け取ると、開いて、暫くはなく、確かにとうなづき、胸元に仕舞う。
それが、おあがりなさいを促してくれた気がして、胃袋から掌を出すようにわたしはホッキ貝の纏う粥椀に掴まれた。
終わった。いままでのすべてが終わったのだ。わたしは素直を感じていた。大戦のことよりも山本上等兵のことよりも磯の匂いで身体が一杯だった。ホッキ貝のお粥の湯気を嗅いだときから、わたしは素直になっていた。生まれ変わったのはその時からかもしれない。そうしたわたしであったから、内ポケットに縫い付けた糸をほどくときも掌は震えず、運針の習いのように運ばれ、それが母君の嗚咽まで毛羽立たせなかったのだと己れに言い含めるほど素直になっていた。
だから、なおさらに、始まりは唐突な感じがした。
母君は、わたしにではなく、誰かほかの、母君には見えてわたしには見えないふらり寄った身内相手に話しているようだった。真っ直ぐに見てる相手は私なのに、母君の眼に映っているのはわたしなのに、眼が見ている先も声が向かっていく先も、いまの私より2間先の土間の上り框にあった。
影はひとつなのに、中には何人も詰め込まれている。
わたしは、見えていない上り框に立つ人に代わって食い終えた椀を膝に載せたまま沁みこませるように母君の話を聞いている。