2 青森下北での再会
諱は、貴人の貴っとい匂いと屍の酸えた臭いの裏表の顔を持っている。諱がそれを持つよりも、見定めようと覗くものの眼に宿ってくるのだ。
昭和26年10月、わたしは青森に向かう列車の中にいた。
先月、吉田茂がアメリカに出向いてサンフランシスコ条約を締結した。のちの教科書では敗戦、戦後の一区切りと言われる出来事だが、シベリアの抑留はまだ終わっていない。舞鶴までの引揚船で本土へ帰って来たのはわたしが最後ではない。デッキを降りた私は、すでに引揚船の余韻の薄れた港町を通り過ぎ、裏日本を通る列車に乗って青森に向かった。
引揚船のデッキを降りてから、どれほど上着の内ポケットを触ったろう。
駅の改札口を潜ったとき、
三等席の窓席でひとりになったとき、
こうして、うたた寝してたのに気付き、起き上がるように右手を胸に当てる。
そのような挙動が質のよからぬ輩たちの目につくのはわかっていたが、もしもそうした遭遇があったにせよ、内ポケットは縫い付けてあるし、折り畳まれた一枚紙が封筒に収まっているだけだから、それに背嚢の底にはまとまった紙幣の束を隠している。暗闇に引っ張りこまれ脅されてもそれを差し出せばまずは引き上げてくれるだろうと、引き揚げの船の中で何度も反芻するように算段していた。
反芻は、亡くなる山本上等兵がわたしに託したときから始まっている。
わたしの引揚船が決まった時、わたしは出征した故郷よりも未だ見たことのない青森の景色が近づいてきた。そのときから北の最果ての茫洋とした冷たさに沁みた身体を思い出していた。
けれども、昭和26年の本土でそんな殺伐してるのは、国防服に似た満州国オリジナルの協和服に身を包んだわたしだけ。街も列車も他人の顔は3年続いた神武景気のはしりを感じるような明るさに満ちている。
車窓からの弁当を買いながら、わたしは列車を3つ、バスを3つ乗り継ぎ、翌々日に青森下北半島の山本上等兵の母なる人が住む村に着いた。
青森も下北もはじめて訪れる土地だった。それでもひとつも疑い迷うことなくその女のいる下北の外れの村に辿り着いたのは、臨終までの毎晩繰り返し聞かされた山本上等兵の一言一句が書き連ねた遺書を反復するような山本上等兵の肉声が脳裏から呼び起こされているからだ。
最後の声を聴いてから、もう2年が過ぎている。
ハバロフスクの凍てつく土の固さと寒さは薄れていった。ひもじさもこうして毎日の三度三度が続けば過去のような気になる。ただ、山本上等兵の渇いた眼はその肉声と同じく薄まってはこない。東北人特有の大きな二重まぶたの中の眼は青白い埋火のように灯ったまま。最期の日の書き終えた紙を丁寧に畳む音さえ覚えている。
四つの角を合わせ、爪の剝がれた指の甲がしゅぅううーと紙と擦れていくときの音が、また鳴りはじめた。
「高杉、これを」
わたしは、かねてより用意していた封筒に四つに折り畳まれた紙片を入れると山本上等兵の目線に合わせるように糊付けまでの一部始終を見せる。首の傾けから眦の阿吽まで、わたしは少しでも山本上等兵に余計の体力を使わせたくなかった。分ではなく秒の単位で余命は刻まれている。
「相変わらず、おおぎょうだな」と山本上等兵は小さく応えようとするが、声はそこまで出てこない。
わたしは、山本上等兵が見届けたのを確認すると上着の内ポケットに入れ、昨日までの復習をする小学生のように、身振り手振りでそこを縫い付け、けっして下北の母君に手渡すまでの不可触を誓う。
そこまでだった。もう駄目だった。
紙一枚にさらりと書いた最期の手紙を思うと、わたしは涙ぐんでしまう。幼い子どもの日のことだろうか、まだ甘えられた時分の幾分か今の自分に近い若かった母親の顔を想い綴ったのだろうか。「おいおい、そんなんじゃないから」と、山本上等兵は身勝手なわたしの拙さ熱さを優しく否定する。
お仕舞いが近づく。体温がなくなるまでの間、わたしはその次を拾い上げようとする。代々の・・・ことだから、どこで朽ち果てようと義理を欠くわけには・・・、お前がそうして行けば、待っていることだから母は、すぐに・・・・