第五話:あの日の約束
アレックスの背後で、銀の鎧が黒い影を殴り飛ばす音が響く。
だが美秀は振り返らない。ただ、少年へと走り続ける。
その瞬間、胸の奥に焼き付いていた、あの日の記憶がよみがえった。
あれは、たった数日前の出来事。
夕暮れの公園には誰もいなくて、錆びたブランコの鎖だけが、カラカラと風に鳴っていた。
美秀は、ひとりベンチに座っていた。
何も考えたくなくて、ただ、空を見上げていた。
そのとき。
「ここ、座っていい?」
声に顔を上げると、白いシャツの少年が立っていた。
年齢は十二、三歳。だが、その存在感は年齢以上のものを感じさせた。
透けるように白い肌、無表情のような顔。だけど、その瞳だけは強く深かった。
「……どうぞ」
美秀は自分でも驚くほど素直に答えていた。
少年はブランコに座り、ゆっくりと漕ぎ出す。
チェーンの軋む音だけが、二人を包んだ。
「……ねえ、お姉さんは、名前って大事だと思う?」
「名前……?」
唐突な問いかけに、美秀は一瞬、言葉に詰まった。
でも、それは今の彼女には、あまりにも答えを知っている問いだった。
だって、美秀自身が、ゴールドメイデンという名前に囚われ続けたから。
誰かに決められた運命。
ただの道具として与えられた、力と名前。
それがどれほど、重たかったか。
でも、だからこそ、今なら、わかる。
「……うん、大事だと思う。
名前って、ただの呼び方じゃない。
そこにいていいって、誰かに認めてもらうための……証だと思う」
少年は、目を丸くして美秀を見つめた。
「証……か」
「うん。
私……前は、自分の名前が嫌いだった。
誰かに作られた存在みたいで。
でも、今は少しだけ、違う。
自分のために、自分で意味を選びたいって思ってる」
少年はしばらく黙っていたが、ふっと寂しそうに笑った。
「……僕には、名前なんてなかった。
生まれた時から、誰にも呼ばれなかったんだ」
「……どうして?」
「だって、最初から、いないものだったから。
誰にも気づかれなくて、ただ、いるフリをしてた」
美秀の胸がズキリと痛む。
その孤独が、あまりにも他人事じゃなかった。
「……それでも、あんたは今ここにいる。
だったら、私は、あんたの名前を呼ぶよ」
少年は、はっとしたように美秀を見つめた。
「……もし、もしさ。
名前も知らないまま僕が消えてしまっても、覚えててくれる......?」
「……うん、忘れない。
もし消えちゃっても、見つけ出して名前を聞いてやるんだから」
少年は、初めて安心したように微笑んだ。
その瞬間、美秀は確かに思った。
あの子は、あの時の私と同じだ。
誰かに名前という居場所を求めてる。
なら、私がその役目を果たす。
今度こそ、誰かに託されるんじゃない。
自分の意志で、私が守る。
「結局、あなたの名前は何なの?
別に今聞いてても良いでしょ?」
「……それは、次に会った時。
今日じゃなくて、ね」
「わかったわ。
それじゃあ、また明日ね。」
少年は、まるでもう存在しないものみたいに、ふわりと立ち上がった。
「うん、バイバイ、お姉さん。
......また明日。
もし、また、会えたら......きっと......」
だが、次の日、美秀がどれだけ公園を探しても、あの少年はどこにもいなかった。
まるで最初から、存在しなかったかのように。
「だから、私は……取り戻す。
あの子は……救わなきゃいけない」
美秀の足は止まらない。
約束は、まだ果たされていない。
アレックスはその背中を見て、呆れたように笑った。
「あの顔......。
なるほど、これは止めても無駄だな。
仕方ない、好きにしてくれ。
……私は私の仕事を片付ける」
アレックスは銀の鎧を固め、黒い影の群れへ飛び込んだ。