葬儀
葬る
父は火葬をした。
母は土葬をした。
父がどんな形で見送られたかったか私たち姉妹は知らなかった。
母はカトリックの信者になった。その時の願いはカトリックの古い伝統に従って土葬されたいと言い、教会を通して墓地を買い、前もって棺も選んだ。私たち姉妹にとってはとてもありがたいことだった。父から何も要求されていず、何も知らなかった私達は、父が亡くなったその日に葬儀屋へ行き、渡された厚いカタログから棺を選び、火葬のための書類にサインをした。空っぽの頭と萎んだ(しぼんだ)心。葬儀屋さんは落ち着いた静かな顔で何件も毎日こなしていく葬儀手続きを速やかに行ってくれた。煙になって空を登る父を私たちは見ることはできなかった。葬儀屋さんから連絡があり私達は灰になった父を迎えに行った。両腕で骨箱を引き取った。思っていたよりも手にずっしりと父の重さを感じた。その後何を感じ、何をしたのかはまるで覚えていない。ただ抱いた骨箱の重さがいつまでも手と腕に残った。
母は死ぬことを待っていたかのように、全て手順よく死後の準備がなされていた。私達は、葬儀屋さんと教会に連絡をし、ミサと母のメモリアルサービスの日を決め、その後墓地での埋葬の日を決めた。
私のミスで葬儀屋さんにメモリアルサーヴィスの時に柩は教会にもって来てもらう連絡をしなかったために、神父様の葬儀で司る祭儀はできなかった。柩の前でのお祈りや、棺の周りを回ってお香で柩と亡くなった人を清める儀式などを(その後他の人の葬儀に出て、カトリックの葬儀のしきたりを知った。)、母はきっと望んでいたのだろう。その最後のこだわりを私はうっかりとミスした。実に親不孝な娘だ。教会に一生懸命になっていた母はどんなにがっかりしたか、それとも火の如く腹を立てたか。死んだ人から聞くことはできない。
姉も私も、今を生きている。それは紛れもなくだんだん最期に近づいていっているということなのだ。両親の最後を見て思うことは、私もやはり灰になりたいと思う。柩の中に一人で、朽ちていくよりも、灰となって自由に大地のあちらこちらに風と共に飛んで行けたらいいと思う。そして灰が土と混じり、やがて、草花、木々を成長させ、また新しい何かの命になる手助けをする。灰になって仕舞えば、藁や落ち葉と同じ。魂もシャボン玉のようにフワーッと膨れて弾けて消える。
永遠に生きるとは人が土に還るからこそ生き残り、生き続けることができるのだと、私は思う。そうして地球は長い長い年月生き続け、新しい命を復活させてきたのだと。若緑色の芝に覆われた墓地はとても静かだ。