9.リューク(4)
馬を走らせながらチラリと空を見る。薄暗くなり始めている。日が暮れてしまうまでに早く港へ、レナーテのもとへ行かなければ。
無事に港に着くと馬をティモン商会の店員に渡す。店員は疑う仕草も見せず当然のように受け取ると、私に最終便の乗船券をくれた。私はティモンさんの徹底した準備に驚きを隠せない。
「時間がありませんから急いでください。よい旅を」
「ありがとう」
私は礼を言うと走りながら船乗り場に向かった。最後の船が出港間際だった。船に乗り込むとそこにはヘルベン様がいて私に手を振った。私が来ると思っていたようだ。
「リューク。間に合ったな!」
「ええ。ギリギリでしたが」
「私は手を貸してやらなかったが、リュークは自分の力でここまできた。よくやった」
ヘルベン様は私がレナーテに相応しいか見極めていたのだろう。私がフェリシア嬢を選んで国に残るのか、それとも自分の力でケーマン公爵から逃れ船に乗るのか。自分で活路を見出せないようではレナーテを託すことはできないと私を切り捨てるつもりだった。もちろん恨む気持ちはない。それだけ父親としてレナーテを愛しているのだ。
「いいえ。助けてくれた人がいたのです。私は非力だった」
ティモンさんの力でここに来た。私の力ではない。そう思うと情けなさと悔しさに俯いた。
「そんなことはない。助けてくれる人を得ていたことはリュークの力だ」
「そうなのでしょうか?」
「そうだ。だから顔を上げろ。そしてレナーテに会ってやってくれ」
ヘルベン様は私の背中を強く叩いた。たぶん励ましてくれているのだが、痛い……。
「ヘルベン様。レナーテは?」
「今頃甲板で感傷に浸っているだろうな。だからリュークの顔を見せて安心させてやってくれ」
「はい。私は二度とレナーテを不安にさせません」
「頼んだぞ」
ヘルベン様は手をひらひらと振ると私にレナーテのいる場所を教えてくれた。甲板へ行くとレナーテが佇んでいるのが見えた。声を掛けようとしたらレナーテは突然海に向かって叫び出した。
「リュークの馬鹿! せめて一発殴らせなさいよ。それで許してあげるから。本当は私以外の人と幸せになるなんて許せないけど、でもフェリシア様との幸せを祈ってあげる……のはどう考えても無理。でも、リュークに不幸せになって欲しいとは絶対に思えない。私はリュークが好きなの。どうしようもなく好きなの――!」
レナーテは可愛いなあ。不満と怒り、そして私への思いを叫ぶ姿に胸が熱くなる。
「私もレナーテが好きだよ」
レナーテが振り返り目を丸くして私を見ている。もしかして私がフェリシア嬢を選んだと本気で思っていたのだろうか? 心外だ……。
「うそ……本物のリューク? 髪はどうしたの? その格好は?」
髪が気になるのか? レナーテが長い方が好みなら切ったのは失敗だったかもしれない。もう一度伸ばそうか。
「酷いな。レナーテは私が本物かどうか見分けられないのかい?」
「見分けられるに決まってる! でも信じられない。だってリュークはフェリシア様を選んだのでしょう? 公爵家に婿入りするんでしょう?」
「私はそんなことを言った覚えはないよ?」
「そうだけど。私に会いに来てくれなかったし、リュークは今日私に気付いたのに無視したわ」
フェリシア嬢はレナーテがいることに気付いていた。もし私がレナーテを気にかければ公爵に頼んで何かをするかもしれないと思い、無視するしかなかった。
「うん。ごめん。でもあのときはそうするしかなかったんだ。仕方ないとはいえレナーテを傷つけてしまった。だから一発、いいや気が済むまで殴って、それで許して欲しい」
レナーテは顔を赤くした。そして瞳を潤ませると震える声で言った。
「仕方がないから一度だけ、一度だけなら許してあげる。でもいいの? 私はもうこの国には戻らないわ」
「私も戻らないよ」
私はレナーテの瞳を見つめながら彼女の手を取った。
「ねえ。リューク。もしかしたらこれって駆け落ちじゃない?」
「そうだね。駆け落ちだ」
「いいの? 本当に私を選んでくれるの? 私の顔にはそばかすがあって全然美人じゃないわ」
急に何を言うのかと思えば、レナーテは可愛いのに容姿を気にしていたのか。私は昔からレナーテの鼻の上に散ったそばかすを愛らしいと思っていた。不思議なことにレナーテは自分のそばかすは欠点だと思っている。子供の頃は何度も「大人になったら消えるかな?」と呟いては溜息をついていた。私は怒られてしまうので口には出さなかったが彼女のそばかすが消えないことを祈っていた。そしてそばかすは消えなかった。よかったと密かに喜んでしまったことはレナーテには一生内緒だ。
「レナーテは誰よりもかわいいよ。私は君のそばかすが大好きなんだ」
「健康なのが取柄なだけの女で、料理もできないし」
「貴族は自ら料理をする機会がないからね。私だって出来ないよ。出来ないことは一緒に学ぼう。それに健康な体さえあればどこでも生きていける。それが一番だと思わないかい?」
またレナーテと一緒に学ぶことができる。幸せだ。
「そうだけど。でも……私の家は爵位を売ってしまったからもう貴族じゃない。リュークとの婚約も解消されてしまったし」
「父が勝手にレナーテとの婚約を解消してしまったが私は受け入れていない。だけど私も家も国も捨てたから貴族じゃなくなった。そんな男は嫌かい?」
私はずっとレナーテだけが婚約者だと思っている。王家やケーマン公爵が何をしてもそれは変わらない。
「嫌なわけない! 私はリュークが好きなの」
「私もレナーテが好きだ。私と駆け落ちしてくれるかい?」
レナーテの瞳から大粒の涙が頬を滑り落ちた。その涙は天上の星々よりも美しい。
「……いいわ。する! 駆け落ちするわ」
胸に愛しさが広がりレナーテを抱き締めた。レナーテが私の胸に顔を埋める。彼女の温もりに万感の思いが込み上げる。
「私はレナーテを愛している。だからどんなことをしても幸せにする」
「私だってリュークを愛しているわ。だから私もリュークを幸せにする」
私たちは共に生きることを誓い合った。
この船はマーセン王国に向かう。
マーセン王国にはこれから生活するためのすべてがある。マーセン王国の国籍も、領地はないが伯爵位も屋敷も財産もある。
どうしてすべてが揃っているのか? それは先代のマーセン国王陛下から祖父が受け取ったものだ。祖父が亡くなると私が受け継ぐことになっていた。同じようにフォンス様も頂いていてヘルベン様が継いでいる。このことは自国には秘密にしていた。だから誰にも知らせず新天地で新たな人生を歩むことができる。
祖父たちがマーセン国王からそれほどの特別待遇を受けた理由は、およそ四十年前にマーセン王国および周辺国が大干ばつで食糧危機に陥ったことに始まる。各国は被害を受けなかった我が国に援助依頼をしたが、王家はその窮状につけ込んで小麦の価格を十倍に釣り上げた。各国は王家に抗議したが王家は価格を下げなかった。各国は民を飢えさせられないとその価格で取引したが高額過ぎて必要な分の小麦を買うことができなかった。すでにマーセン王国と親交のあった祖父とフォンス様が王家を欺いて通常価格よりはるかに安価で小麦を融通した。ブラーウ侯爵家は広大な小麦畑を所有しており膨大な量の備蓄もあったのだ。フォンス様は主に輸送の手配をした。
マーセン国王は祖父たちに感謝の印としてそれらを与えてくれた。祖父が国王陛下に願ってくれたので私も国籍を貰うことができた。これは祖父の功績の恩恵を受けたもので私の力ではない。それでもレナーテとの人生を歩むためなら遠慮なく享受する。いずれそれらに見合う人間になってみせればいいのだ。
マーセン王国周辺の干ばつ被害から数年後、わが国でも干ばつが起こった。ブラーウ侯爵領はその事態を想定して備えていたので領民が餓えることはなかった。でも王都や他領はそうではなかった。
当時マーセン王国および周辺国は我が国がしたように小麦を十倍の値段にした。王家にとっては己の所業が返ってきただけだが、その価格では国庫を空にしても民にいきわたる小麦は用意出来ない。その時、祖父が他国に頭を下げなんとか小麦を買い付け飢饉から国を救った。表立っては祖父のしたことになっているがもちろんフォンス様も手を貸して下さっている。ただそのことが明るみに出ると王家はフォンス様を陞爵しその功績を大々的に広めただろう。そうやって王家の不手際を民の目から背けさせるために。フォンス様はそうなることを嫌がったのですべては祖父のしたことにした。
その件で王家は祖父に対して強く出られなくなった。フェリシア嬢がどれだけ私との婚約を望んでも祖父が突っぱねれば王家は無理強いができない。
数年後には食糧危機は過ぎ去った。そして国内が安定すると王家は祖父が邪魔になったのだろう。だから今回父やケーマン公爵の思惑を受け入れ祖父を排除したのだ。祖父は国に尽くしたのに王家によって殺されたも同然だ。そして実の息子が主導していた。私は父を心底軽蔑している。許すことはできない。もう、この国に未練はない。あるとすれば祖父の墓参りができなくなってしまったことだけだ。
(でも、きっとお祖父様は許してくれる)
干ばつは周期的に起こっている。数年前におよそ四十年振りになる干ばつが、マーセン王国と周辺国に起きていた。ただ前回のことを教訓にどこの国も手を打っていたので大きな影響はなかった。そのためかその事実を我が国の王家は知らないでいる。そう、数年後にこの国にも干ばつが来るに違いない。
王家は備えをしていない。そしてフォンス様も祖父もいない。王家は外交を疎かにしているので他国からの援助は厳しいはずだ。この国は訪れる危機を乗り切れるのだろうか? きっと厳しいだろう……。
父のことはともかくブラーウ侯爵家の領地や領民が気にかかる。長きに渡って祖父が守ってきたものを父が奪いそして衰退させてしまう。
父は跡継ぎ教育を全く受けていない。さらには人脈もない。父個人として商会を営んではいたが、ブラーウ侯爵家の領地経営とは規模も内容も違う。上手くやれるとも思えない。父には自信があるようだがそれは過信だ。なぜなら父の商会は何度も潰れかけている。それを父に気付かれないまま祖父が手を回して救っていた。祖父がいなければ父は路頭に迷っていた。祖父は父と距離を置いていたがそれでも見守っていた。祖父なりに父を愛していたのだと思う。でも父は…………。
私は首を横に振り考えるのを止めた。この国への未練は海に捨てていく。