8.リューク(3)
私はレナーテを抱き締めながら幸せな気持ちで輝く星空を見上げた。一番大切な存在を失わずにすんだ。この腕の中にレナーテがいる。それがすべてだ。
不安はあったが監視から逃れ船に乗ることができた。到着が出港ギリギリになってしまい正直ヒヤヒヤした。もし、この船に乗れなければ翌朝の便になってしまう。そうなればケーマン公爵の追手に見つかり連れ戻されていただろう。
私はフェリシア嬢のために宝石を買う振りをしてケーマン公爵家が利用する商会に行った。もちろん騎士に見張られているので逃げるのは容易ではない。だが手助けをしてくれる人に心当たりがあった。その人とは――。
店に入ると笑顔の店主に出迎えられる。騎士は私が中に入るのを確認してから扉を閉めた。
老齢に差し掛かった優しそうな顔の店主は私を見て一瞬だけ目を見開き瞬いた。だがすぐに元の表情に戻る。
「いらっしゃいませ」
「ティモンさん。今日は女神の首飾りをお願いしたいのですが」
「これはリューク様。女神の首飾り、ですね? 承知いたしました」
「国を――」
国を出たいと私が言い終わる前に店主であるティモンさんは心得ていると大きく頷いた。
「ええ。すぐにご用意出来ます。どうぞ。奥の部屋へ」
私は戸惑いながらもティモンさんの後に続いて奥の部屋に向かう。
奥には窓のない小さな部屋があった。簡素な執務机と本棚があるだけだ。ティモンさんは本棚から一冊の本を引き抜きその隙間に手を入れた。するとすぐに本棚が移動する。そこには小さな空間があり地下へと続く階段が現れた。ティモンさんは紙にサラサラと何かを書くと畳んで私に渡した。
「さあ、どうぞ。この階段を下りると地下通路があります。そこを抜けると小さな屋敷の部屋に着きます。そこに私の息子がいます。この紙を渡して下さい」
私は彼の迅速な対応に驚いた。
「まるで……私が来ることを分かっていたみたいですね。それも何を望んでいるのかまで」
「商人は情報に聡いものです。情報をもとにお客様の欲するものを先回りして用意する。そうでなければ生き残れない。王家やケーマン公爵家の動きは知っていました。もしリューク様が現状を受け入れないならどうするか、考えて準備をしておきました」
ティモンさんはウインクをすると私の背を押し促した。
「本当に助かります。あなたは私の恩人だ」
「いいえ。リューク様。恩人はあなたの方です。私は借りを返すだけです。さあ、急いだほうがいい」
「ティモンさん。一時間後に騎士が声をかけてくると思います。あなたが疑われないためにそれより前に私の姿が消えたと騎士に訴えて下さい。それでもきっと迷惑をかけると思いますが……」
ティモンさんは目を細めニヤリと笑う。それは人がいいだけの商人の顔ではなかった。
「どうぞ、ご心配なく。このくらい乗り切って見せますよ。どうかお気をつけて」
「ありがとうございます。心から感謝します」
時間が惜しい。私はティモンさんから小さなランプを受け取ると最後に一度感謝を込めて頭を下げた。そしてすぐに階段を下り地下道を抜けた。つき当りの階段を上がり、目の前に現れた扉を開けると眼前に小さな執務室が現れた。部屋の執務机で書類を見ていた男は、突然現れた私に動じることなく無言で立ち上がり手を差し出した。私はティモンさんからの手紙を渡す。その男性は一読すると机の引き出しから服一式を取り出した。
「これに着替えて外に来てください。馬の用意をして待っています」
淡々と告げると男性は出て行った。私は男性から受け取った服に急いで着替えた。追手に見つかりにくくするために伸ばしていた髪を首のところでバッサリと切る。そして帽子を被って眼鏡をかけて部屋を出た。するとさっきの男性が馬と一緒に玄関の前で立っていた。男性は私に鞄を差し出した。
「この中にお金が入っています」
「いえ。そこまでして頂くわけには」
「ぜひ持って行ってください。あって困るものではありませんから。父にはあなたに報いるように言われています。あなたは私たちを救ってくれた恩人です」
「それでは……甘えさせていただきます」
男性はニコリと笑った。その顔はティモンさんの笑顔とそっくりだった。
「馬は港にある商会の人間に預けて下さい。どうかお気をつけて」
「ありがとうございます」
私は必死に馬を走らせた。
ティモン商会はあらゆる商品を取りそろえている。逃亡もしくは脱出を望めば叶えてくれる。そんな商品も用意していると私は以前ティモンさんから教えてもらっていた。もちろんこのことを知る者は限られている。
ティモン商会は王家やケーマン公爵派閥のお抱えの商会でありブラーウ侯爵家とは接点がない。だが私個人がティモンさんと面識を得る機会があった。
一年前、ティモンさんはケーマン公爵から陛下に依頼されたワインを用意するよう注文を受け探していた。それは他国特産の最高級ワインだった。年代物は数が少なく私はお祖父様の誕生日プレゼントにと購入した。それが最後の一本だったのだ。ティモンさんは私と入れ違いで店を訪れワインが品切れだと知ると手を尽くして他の店を探したそうだ。残念ながら見つからず顔色悪く帰りの船に乗った。ケーマン公爵は陛下に必ず用意すると請け負ってしまったので手ぶらでは帰れない。もし用意出来なければケーマン公爵に叱責される。いや叱責だけではすまないだろう。
そこで偶然私と会ったのだ。ワインを扱っていた店から私に売ったことを聞いていたティモンさんは私に頭を下げて譲ってくれと懇願した。その表情は必死で青ざめていた。彼の必死さに同情しそれを譲った。
「ありがとうございます!! 本当にありがとうございます! リューク様は我が商会の恩人です。」
「祖父には他にもプレゼントを用意してあるので気にしないで下さい」
私にとって絶対必要なワインではない。他にも別の年代のワインを数本とコートも購入しているので問題ない。
「ぜひお礼を……なんでもおっしゃってください」
「いえ。お気になさらずに」
「そういうわけには」
「そこまでおっしゃるのなら……お願いがあります」
「ええ。何でもおっしゃって下さい。我が商会で出来うる限りのことをさせて頂きます」
私は深く考えずに言った。
「それなら私が困っている時に助けて下さいますか? でも私と知り合いだということは内緒のままで」
私の希望を聞いてティモンさんは目を丸くした。しばらく考えたあとすぐに頷いた。
「分かりました。その時が来たらこのご恩を必ずお返しします。私はあなたの望む物を用意してみせます」
私がなぜこんなことを言ったのか。それは祖父の教えがある。目に見える貴族間の関係だけを信用するな。どこで誰が繋がっていていつ足元を掬われるか分からない。またその逆も然りだ。他人から敵に見える者同士が味方だったら? 面識がないはずの人間が実は知り合いだったら? 不測の事態に助けを乞うことができる。私はこの出来事で隠れた味方を手に入れることができた。でもこの提案は保険のようなもので必要になることはないと思っていた。
「その時は『女神の首飾りが必要だ』とおっしゃって下さい」
それは私たちの秘密の暗号だった。『女神の首飾り』を望まない時は普通の買い物客として訪れたと判断するということだ。
ティモンさんは私の状況を調べた上で幾つかの可能性を考慮し準備していた。
だから突然店に訪れた私の望んでいるものを提供することができたのだ。
彼の配慮と慧眼に頭が下がる。ティモンさんがいなかったらケーマン公爵の監視から抜け出すことはできなかった。私は心からティモンさんと息子さんに感謝した。