5.リューク(1)
私はリューク・ブラーウ。二か月前までブラーウ侯爵家の一人息子だった。
そして私には祖父が決めた婚約者がいた。彼女はレナーテ・バールス伯爵令嬢。
祖父同士の交流が深くレナーテとは幼い頃から長い時間を一緒に過ごしてきた。私たちは物心ついた時からお互いを婚約者だと認識していた。でも婚約者でなかったとしても私はレナーテに恋をしたと思う。この世界でとても大切で愛おしい存在。
私は幼いころから侯爵家嫡男として厳格な祖父に厳しく育てられた。祖父は立派な人で尊敬しているが私に厳しすぎると感じていた。その厳しさから私に期待するのは跡継ぎとしての存在だけで、孫としての愛情はないと思っていた。
ある日、レナーテが教えてくれるまでは。
レナーテが遊びに来ている時に二人でマーセン王国の言葉を勉強をしていた。マーセン王国原文の小説を祖父からもらったので、私はレナーテに読んであげた。レナーテはマーセン王国の言葉で会話はできるがまだ文字を読むことはできていなかった。
「リュークはすごいわ! あっという間に文字を覚えてしまったのだもの」
「レナーテだってすぐに読めるようになるよ」
「うん。頑張る!」
丁度部屋の前を通りがかった祖父が顔を出した。
「リューク。マーセン王国の文字が読めるようになったのか?」
「はい!」
私は笑みを浮かべて大きな声で返事をした。祖父から「よく頑張ったな」の一言を期待して。ところが祖父は顔を酷く歪めると「そうか」と言って私を睨んで深く頷いた。その表情からきっと文字くらい読めて当然のことで、いちいち嬉しそうにするなと思っていると感じた。急に自分の振る舞いが惨めに思えた。祖父はすぐに部屋を出て行ってしまった。するとレナーテが言った。
「エフベルト様、嬉しそうだったね!」
レナーテの言葉に私は渋面を作った。あの顔がどうやったら嬉しそうに見えるんだ。
「そうは思えないよ。誰が見たって不機嫌だと言うさ。きっと僕の出来が悪いと呆れているんだ」
「違う! さっきだってリュークが難しい本をすらすら読んだらとても嬉しそうに頷いていたわ」
「睨んでいたのに?」
「あれは睨んでいるのではない……はずよ」
「…………」
レナーテが私を心配して必死に言い募るので納得をした振りをしたが、全く信じていなかった。あれが嬉しそうな顔であるはずがない。
私にとって祖父はたった一人の家族だ。祖母も母も早くに亡くなっていて父は家にいない。だから祖父にだけは誉めて欲しかった。認めて欲しかった。私の母は私が二歳の時に病に罹り亡くなった。私には母の記憶がなく肖像画の中の母がすべてで、愛されていたのかそうでないのかも分からない。
父は政略結婚だった母を愛しておらず、私が生まれると侯爵家の中継ぎの役目は終わったとすぐに家を出た。そして学生時代からの恋人と暮らし始めた。母の葬儀にすら顔を出さなかったそうだ。私の存在は父にとって家から解放されるための道具でしかなかった。その時、祖父は父が家を出たことを咎めなかったが、父に爵位を継がせないことと相続問題が起きないよう子を作らないことを約束させていた。再婚をするならばブラーウ侯爵家から籍を抜くようにと言われ恋人とは結婚しないまま側に置いている。
私が父に会ったことがあるのは両手程度の回数だ。だからどんな人間なのか知らない。知らなくても父のことが嫌いだった。父は誰に対しても不誠実だ。祖父に逆らえなくて母と結婚したのなら、愛せなくても母に対してもっと誠意のある行動を取るべきだ。恋人だって中途半端に繋ぎ止めて、手放してやれば別の幸せを与えることだって出来たはず。
どうしても恋人との未来が諦められないのなら粘り強く祖父を説得するべきじゃないのか。私は父のような人間にはならない。絶対に愛する人を裏切ったりしない。どんな苦難を乗り越えてでも一緒になる。レナーテの笑顔を見る度にその決意を胸に刻んだ。
ある日レナーテが祖父に嬉しそうに報告した。
「聞いてください! エフベルト様。もうちゃんと読めるようになりました!」
「そうか」
祖父は目を細めレナーテを見ると口角を歪めた。
(これが喜んだ顔?)
私は半信半疑でじっとその表情を観察した。無理矢理上げた口角が歪んで見える。目は睨んでる……のじゃなくて笑っているのか? この場面で祖父がレナーテを怒る理由も呆れる理由もない。それならばこの表情はレナーテの言う通りに喜んでいるということなのか……。私は目を丸くして呆然としながら頭の中を整理した。今まで私のことも誉めてくれていた? 喜んでいてくれていた?
とにかく祖父は口数が少なすぎる。そして表情がなさすぎる。ずっと勘違いしていたことが分かると私の胸の奥が温かくなり幸せな気持ちになった。レナーテを見ると嬉しそうにキラキラと瞳を輝かせて頷いている。私はレナーテがいっそう好きになった。
私には尊敬している人がもう一人いる。レナーテの祖父であるフォンス様だ。フォンス様は明るく朗らかで話が上手で人好きのする人物だ。なぜ祖父と親友なのかいまだに謎だ。
「エフベルトは不器用だが面白いやつだからな」
「それだけで孫同士を結婚させたくなるほどの親友になれるのですか?」
「そうだ。人と人との関係なんてそんなもんさ」
私は一年の中で三か月間、フォンス様に預けられていた。そしてレナーテと一緒に色々な国に連れて行ってもらっていた。フォンス様が一番好きな国はマーセン王国で滞在することも多かった。
「この国は活気があっていいですね」
「私もこの国大好き!」
「そうだろう。私も大好きさ。男女が対等なところが特にいいな」
フォンス様は奥様のトルディ様をこよなく愛していたが、自国でトルディ様の素晴らしさを自慢できないことを不満に思っていた。我が国では夫が妻を謙遜することはあっても自慢することはない。フォンス様は一度社交場で堂々と自慢したが、そのせいでトルディ様が女性たちに変わり者の夫で恥ずかしくないのかと嘲笑されてしまい以降はやめたそうだ。トルディ様はそのことを気にしていなかったが、フォンス様は妻に嫌な思いをさせたくないと言っていた。でもマーセン王国ではトルディ様を自慢するほど仲睦まじいと羨ましがられる。日頃の鬱憤を晴らすようにマーセン王国では意気揚々と妻自慢をしていた。
私はフォンス様に色々な国の文化や言語、知識を与えてもらった。そして多くの友人も紹介してもらった。
大人になって思う。祖父は本当に私を愛してくれていたと。普段はブラーウ侯爵家の後継ぎとして厳しい教育を与えられる。それは逃げ出したいほどのものだ。でもその教育を中断してまでフォンス様のもとで得難い経験をさせてくれるのは私のためを思ってくれているからだ。私はその時間を伸び伸びと過ごした。
「お祖父様。ありがとうございます。フォンス様とレナーテとの時間を下さって」
「フォンスと過ごす時間はお前が成長するために必要なものだ。その時間がお前にとって一番大切なものを教えてくれる」
「一番大切なもの? それはブラーウ侯爵家……ですか?」
祖父が私に施す跡継ぎ教育は本当に厳しい。だからこの家を守ることを至上だと思っていると信じていた。
「まあ、家も金も大事だが……。リューク、一番大切なものは自分で決めなさい。私と同じでなくていい。私はそれを認めるだろう」
「……はい」
私は面食らった。まさに貴族の鏡のような祖父が一番大切なものを自分で選べと言った。全てを投げ打っても家を守れと言われると思っていたのに。
フォンス様ご夫妻とレナーテと過ごす時間は十二歳の時に突然終わってしまう。トルディ様が亡くなった。その一月後にフォンス様もまるであとを追うように亡くなった。人との別れがこれほど呆気なく訪れることに驚き、私とレナーテは悲しみに暮れた。それでもいつまでも悲しんでいるわけにはいかない。フォンス様もそれを望まないはず。お祖父様はフォンス様を見送ったあと、私に言った。
「リューク。もしも私に何かあれば次のブラーウ侯爵当主はお前だ。カレルではない。いいな」
「はい」
祖父は父を飛ばして私がブラーウ侯爵家を継ぐための手続きを済ませていた。
「でもお祖父様はお元気なのですから、まだ手続きなどしなくてもよかったのではないですか?」
「さて、人生は何が起こるか分からないからな。フォンスだってわしより長生きすると思っていたのに呆気なく死におって……。もちろんわしはまだ譲るつもりはない。今のリュークではまだ半人前だからな」
祖父は目を細め口を歪ませると肩を揺らした。笑っているようだが、いつまで経っても慣れない……。
「ええ。まだ譲らないで下さい。それにお祖父様には私とレナーテの結婚式に出てフォンス様の分もお祝いしてもらいますからね?」
「ああ、楽しみじゃな」
祖父には長生きをしてもらわないと。私は毎日を幸せに過ごしていた。
私とレナーテの結婚式が二か月後に迫ったある日――。
突然の馬車の事故で祖父があっけなく亡くなってしまった。馬車の事故だったのに遺体は奇跡的に綺麗な状態で、その顔はまるですぐにでも目を覚ましそうだった。そしてあの不器用な笑顔を浮かべて……。でも祖父はもう二度と目を覚まさない。私はどうしてもそれが信じられなかった。
だが私はすぐにブラーウ侯爵を継ぐのだ。無様に泣くわけにはいかない。レナーテを慰めることで自分の心を落ち着かせ葬儀を終えた。心細いけれどレナーテの父親であるヘルベン様が力になってくれる。それにレナーテを守る為なら私は強くなれるはずだ。
私はレナーテに改めて祖父の喪が明ける一年後に結婚をしようと約束をした。
しばらくして祖父の葬儀に顔も出さなかった父が女性を連れて屋敷に来た。その女性の腕の中には生後まもない乳児が抱かれていた。
「今日からブラーウ侯爵は私だ。爵位継承と財産相続の手続きは終えている。そして跡継ぎはこの子にする」
父は祖父との約束を破り、恋人だった女性との間に男児を儲けていた。
「それはおかしい! 私は何も聞いていない。それにお祖父様は私を跡継ぎにする手続きを済ませていたはずだ」
父は不敵な笑みを浮かべた。数回しかあったことはないが私の知っている父の姿ではない。祖父の顔色を伺うか不満顔を浮かべつつも逆らわないだけの人だったが今は違う。
「これは陛下の意向だ。それとお前とバールス家の娘との婚約は解消し、新たにケーマン公爵令嬢と婚約を結ぶことにした。よかったな、リューク。私に感謝しろよ。あんな平凡な娘ではなく美しい令嬢と結婚できる上に、公爵家に婿入りできるのだから。そして公爵家と我が家の縁を強固にし、この子の力になってもらう。まずは明日、ケーマン公爵様に挨拶をしに行くように」
「冗談じゃない。私はレナーテとの婚約を解消するつもりはない」
陛下の意向だと? 陛下は祖父の手続きをなかったことにし、父がブラーウ侯爵を継ぐことを認めたのか? 私は信じられなかった。王家が法を犯すことをしたのだ。
陛下の強硬な行動に一つだけ心当たりがある。これはケーマン公爵家の、いやフェリシア嬢の望みか……。フェリシア嬢は以前、私と婚約したいと言っていた。もちろん祖父は断っていた。フェリシア嬢の母親は陛下の妹でフェリシア嬢を特に可愛がっていると聞く。陛下が姪のためにこれほど横暴な行動を取るなど想像もしなかった。
「お前には何の権限もないんだ。それとも金もないまま家を放逐されたいか? ふん。貴族の生活を捨てたくなければ私の言うことを聞け」
憎々し気に私を見つめる父の目を見て、祖父に後継ぎと認められなかったことで私を恨んでいたことを理解した。
私は理不尽な状況に憤りながらも翌日父の命令通りにケーマン公爵邸を訪れた。なぜならケーマン公爵家から複数の騎士が我が家に居座り私を一日中監視している。もちろん抗議も抵抗もしたが無駄に終わった。
私はレナーテに会いに行くことも手紙を出すこともできなくなった。私の味方だった屋敷の使用人はすべて父の手で解雇され、見知らぬ使用人に総入れ替えされてしまった。
この屋敷の中に私の味方は一人もいない。私は非力だった。