10.フェリシア
私のお父様はケーマン公爵当主。この国では王家に次ぐ権力を持っている。
お母様は国王陛下の歳の離れた妹で、公爵家に降嫁したあともとても大切にされていた。陛下は私のことも実の娘のように可愛がってくれている。陛下には娘がいないから特に大切にしてくれていたのだと思う。
「フェリシアは娘も同然だ。欲しいものはあるか?」
会うたびにそう言ってくれる。私も陛下が大好きだ。両親も陛下も私の願いは何でも叶えてくれる。
でも一つだけどれほど頼んでも手に入らないものがあった。ブラーウ侯爵子息リューク様を婚約者にして欲しいという願いだけは駄目だと言われた。
リュークのお祖父様エフベルト様に王家もお父様も頭が上がらない。強く出ることはできないと言われた。
「おかしいわ。この国で一番偉いのは陛下なのに。エフベルト様よりお父様の方が身分は高いのに。どうして? リューク様は、無理矢理レナーテ様と婚約させられて可哀そうよ」
子供の頃、高位貴族の子女子息が集まるお茶会でリューク様に会った。キラキラと光る金髪と美しいヘーゼルの瞳を持つ男の子が、私が落としたハンカチを拾ってくれた。私はその瞬間に恋に落ちた。彼だって私のことを好きになってくれたはず。それなのにこんなのおかしい。私は何年経ってもリューク様を諦めることはできなかった。むしろ恋焦がれどうしても彼と結婚したいと強く思うようになった。
「バールス伯爵令嬢に何の瑕疵もない。この婚約に横槍を入れる理由がない。そもそもブラーウ侯爵に逆らうことはできないのだ。フェリシア。諦めなさい」
昔、干ばつの影響で食糧難になったときにエフベルト様がそれを救ったそうだ。その時のことを民衆が覚えている。ここで王家や我が家が無理に婚約解消をさせようとすれば民衆から反感を買うと説明された。そんな何十年前の出来事を気にかける必要があるとも思えない。馬鹿馬鹿しい。
「もうそんな昔のこと誰も覚えていないと思う。ねえ、お父様。エフベルト様はもうお年だわ。亡くなったあとなら誰も文句を言えないわよね」
「確かに……だがブラーウ侯爵は高齢とはいえまだピンピンしている……いや、そうか。そうだな」
お父様は大きく頷くとニコリと笑った。私はその笑顔に期待した。
それから数日後、エフベルト様の息子であるカレル様が頻繁に来てはお父様と話し込んでいる。内容は分からないけれどきっと私の願いを叶えるための相談だ。
一か月後、エフベルト様は馬車の事故で亡くなった。すぐにカレル様がブラーウ侯爵家を継ぎ、リューク様とレナーテ様の婚約は解消された。私は知らなかったがカレル様には愛人との間に生まれたばかりの息子がいた。その子がブラーウ侯爵家を継ぐことになるのでリューク様が我が家に婿入りできるのだ。私はお父様に感謝した。
「ありがとう。お父様。私、早くリューク様と婚約したいわ」
「すぐには無理だ。さすがに外聞が悪いし、陛下もお許しにならない」
「そんな……喪が明けるまで一年もあるのよ。待ちきれないわ」
もう、何年も我慢して待っていたのだ。一刻も早くと気が急く。お父様に催促したが陛下が難色を示していると言われた。一年は待つようにと。不満だったがそれでもリューク様と外出することができるようになった。彼と一緒にお茶をして過ごせる。今リューク様の隣にいるのは私だと優越感に浸った。
向かいに座ってリューク様の顔をうっとりと眺める。なんて綺麗なのかしら。リューク様の顔は完璧なほど整っている。でもそこに表情はない。でもそんなことは問題にならない。むしろそのクールさが好きなのだ。私の周りには馴れ馴れしい軽薄な子息が多かった。でもリューク様は違う。
お父様は社交界に私とリューク様の婚約が間近だと噂を流した。仲睦まじさを演出するために頻繁に人目の多いところを二人で歩いた。
お父様はリューク様が逃げ出さないように騎士に監視をさせ送り迎えも我が家の馬車を使わせていた。
私との婚約でリューク様が逃げるわけがないのに何を心配しているのか不思議だった。誰だって公爵家の婿入りを喜ぶ。それに彼には逃げ出すためのお金や手段もカレル様が取り上げてしまったと聞いている。リューク様の未来は私の隣にしかない。彼もそれを理解して受け入れているから最近はすごく優しくしてくれる。
「だが結婚式を挙げるまでは監視を続ける。いいな、フェリシア」
「お父様は心配性ね。でも分かったわ」
その日はお気に入りの画家の個展があってリューク様を誘った。
ブラーウ侯爵家に迎えに行くと木に隠れてこちらを窺うレナーテ様が見えた。もう彼女は貴族じゃない。バールス伯爵家は破産した。それなのにリューク様に会いに来るなんて未練がましいことだ。でもその惨めな姿を見て、長い間リューク様を独占したことに対する留飲を下げることができた。リューク様の様子を見る限りもうレナーテ様に興味はないようだ。
私たちは個展を楽しんだ後カフェで同じケーキとお茶を味わった。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。リューク様は私を公爵邸に送ると言った。
「フェリシア嬢。あなたの行きつけの宝石商を教えてくれませんか?」
「えっ?」
「私にアクセサリーを贈らせてください。もうすぐ婚約するというのに贈り物をしないようでは情けない。できればフェリシア嬢の好みを把握している店がいいと思いまして」
リューク様が私にアクセサリーをプレゼントしてくれる? なんて素敵なの。やっぱりリューク様は私との婚約を喜んでいる。嬉しくて頬が緩む。
「まあ、それなら私も一緒に行きますわ!」
「それもいいのですが初めてのプレゼントは私に選ばせて頂けませんか?」
一緒に行きたいけれどそう言われてしまえば彼に選んで欲しいとも思う。
「リューク様がそうおっしゃるのなら選んでもらおうかしら?」
「ええ、できれば帰りに寄りたいのですが」
「今日ですか? それは父に聞いてみないと駄目なのです。生憎父は今不在で……王宮に行っているのです。困ったわ。どうしましょう」
「そうですか。残念ですね」
父にはリューク様に予定外の行動をさせるなと厳しく言われている。私が迷っているとリューク様はあっさりと引き下がってしまった。
「あ……」
「では、帰りますね」
せっかくリューク様がその気になっているのにこの機会を逃すのは嫌だった。
「リューク様。待って!」
「何でしょう?」
「リューク様。お父様にはあとから私が伝えておきます。でも一時間で選んで下さい。もちろん騎士も同行させます。私の行きつけの商会はブラーウ侯爵家とはまったく取引のない商会ですもの。問題ないわ。では今から行って来て下さいませ」
「ありがとうございます。あなたに似合う物を選んできますね」
「嬉しいわ。楽しみにしていますわね!」
私は浮かれた。女性が好きな人からアクセサリーを選んで贈って欲しいと思うのは当然だ。リューク様は私にどんな色の宝石を選ぶのだろう。可愛いデザインか、大人っぽいデザインか。想像すると待ちきれない。やはり一緒に行けばよかった。しばらくするとお父様が帰宅した。
「フェリシア。ただいま」
「おかえりなさい。お父様」
お父様を出迎えると抱き付いた。
「随分機嫌がいいな。個展はどうだった?」
「とても楽しかったわ」
「そうか。私もフェリシアにいい知らせがあるぞ」
「まあ、なあに?」
「陛下がフェリシアとリュークの婚約を認めて下さった。本当はもう少し時間を置きたかったようだが」
「まあ、陛下が!」
陛下はエフベルト様の喪が明けるまでは認めないと言っていた。それをお父様が説得して下さったのだ。お父様の手には私とリューク様の婚約が認められた書類がある。それを手に取り確かめる。今日の日付で王家の印章も押されている。ああ、最高の気分だわ!
「陛下の説得は大変だったのだぞ。よかったな。フェリシア」
「ありがとう。お父様。大好きよ。これでリューク様は私の正式な婚約者になったのね! 今日は素敵なことばかりだわ」
「他にも何かあったのか?」
「そうなの。お父様! リューク様が私にアクセサリーを贈ってくださるって。だからティモン商会に行ってもらったわ」
お父様は眉を寄せ怖い顔をした。
「フェリシア! 勝手なことを」
「大丈夫よ。騎士が三人もついて行っているし、ティモン商会はブラーウ侯爵家やリューク様と繋がりはないでしょう? リューク様もティモン商会は初めて行くって言っていたわ。何もできっこない。それに時間も一時間と約束したから、そのうちリューク様をブラーウ侯爵邸に送った騎士が戻って来るわ」
「まあティモン商会なら信用できるが……」
その時、玄関の扉が開き騎士が慌てて入って来た。そして青い顔でお父様に頭を下げた。
「公爵様。申し訳ございません。リューク様を見失いました」
「なんだと! どういうことだ」
「ティモン商会に入ってしばらくすると店主がトイレに行ったリューク様がそのまま消えたと騒ぎまして、すぐに店中くまなく探しましたが見つかりません。店主も必死に探してくれていますが手がかりもなく……」
「馬鹿者め!! 店の中でも監視を続けるべきだったのになぜ目を離した」
「出入り口をすべて監視していたので外に出ることはできないと思い……」
「とにかく探せ。そうだ。港へ馬を走らせろ。今日の最終便の船でバールス伯爵家の者たちが出国すると報告を受けている。一緒に行こうとするはずだ」
お父様の指示に騎士が慌てて出て行った。
「そんな。まさかリューク様が? もしかしたら誰かに攫われたのではないの?」
「フェリシア。誰が何のためにリュークを攫うと思うのだ? あいつはフェリシアとの婚約を嫌がっていた。だから逃げたのだ」
「嘘よ。どうして私との婚約を嫌がるの? そんなはずないわ……」
信じられない。だって私への贈り物を選んでくれるって言ったのに。似合う物を選んでくれるって……楽しみにしてるわって伝えたのに、私を騙したの?
お父様は陛下に無理を言って婚約を結んだのにとブツブツと文句を言っている。
「すぐにリューク様は見つかるわよね? もしかしたら自分でブラーウ侯爵家に戻ったのかも知れないわ」
「念のためブラーウ侯爵家にも騎士を向かわせるがたぶんいないだろう。社交界にこの事実が広まれば我が家は恥をかく。陛下にも何と言えばいいのか。まったく、フェリシアが余計なことをしたばかりに……」
「だって……」
お父様は怒りが収まらないのか近くの花瓶を床に投げつけ自分の部屋へと行ってしまった。私はそわそわと落ち着かないまま騎士の報告を待った。
(リューク様はすぐに見つかる。大丈夫よ)
深夜に騎士が港から戻って来た。
「船は出港した後で乗船名簿にはリューク様の名前はありませんでした。ですが……リューク様らしき男性が乗船したという目撃情報がありました」
その報告を聞いたお父様が怒鳴り出した。
「なんだと! やはりリュークはバールスの娘と逃げたのか!」
私は全身の血が引いていくのを感じた。目の前が暗くなっていく。
「レナーテ様と逃げた? そんな、嘘よ。どうして? だって……リューク様は私と結婚するのよ!」
やっと今日、婚約が成立したのに……それなのに……。
私の婚約者が、駆け落ちをした――――。




