1.レナーテ(1)
よろしくお願いします。
婚約者が駆け落ちをした――。
彼の駆け落ちの相手は平民で秀でたところのない地味な女性。庇護欲をそそるような愛らしさもなく、料理が上手というわけでもない。さらに言えば彼女の家は最近になって財産を失い困窮しているので一緒になるメリットはまったくない。その女性を誉めるとしたら健康であるということくらい。目を引くのは鼻の上に散ったそばかすで、それは誉める要素とは思えない。
それなのに婚約者は身分も家もそして国をもすべてを捨てて、その女性を選んだのだ。
彼の行動を知った時、私は……涙を流した。
私はレナーテ・バールス。我が家は領地を持たない伯爵家だ。私にはお兄様が一人いる。
お祖父様から仕事を継いだお父様は貿易商をしている。経営も順調、家族仲は良好で領地を持たない貴族であってもとても裕福な暮らしをしていた。
婚約者のリュークはブラーウ侯爵家の嫡男。容姿端麗で優しく賢く、私にはもったいないくらい素敵な人だ。
私たちの婚約はお互いのお祖父様たちが私たちの生まれる前に決めたもの。
「孫たちを結婚させよう」と。もともとは子供たちを結婚させたかったらしいが、双方とも息子が生まれて叶わなかった。だから孫に託した。
リュークはお日様のようなキラキラした長い金髪をうしろに結っている。くっきりとした二重のヘーゼル色の瞳は美しく印象的で誰もが見惚れてしまう。その見た目ならば当然のごとく周りの女性から秋波を送られる。でも彼は誰が相手でも取り合わない。婚約者がいるからとダンスの誘いも断っている。私に対して誠実でいたいと言ってくれていた。
私たちは幼馴染でもあることから長い時間を共に過ごして来た。お互いに物心がついた時から婚約者であることは教えられていたが、それとは関係なく無邪気に将来を約束していた。
「ぼくはレナーテがだいすきだから、ぜったいにしあわせなおよめさんにするね!」
「わたしだってリュークがだいすき。だからわたしもリュークをしあわせなだんなさまにしてあげる!」
幼い頃にお祖父様に連れて行ってもらった旅行帰りの船の上、美しい星空の下で大人たちに見守られ交わした約束。大人には戯れに見えるかもしれないが私たちは本気だった。それは大人になっても変わっていない。
二人が社交界に出るようになると私は女性たちからやっかまれるようになった。
私の近くに来ては聞こえるように「リューク様とは釣り合っていないわ」「身の程を弁えるべきなのに」「平凡な女のくせに」などと囁かれる。それに対しリュークは許せないと怒ってくれていた。
「レナーテが誰よりも一番素敵だ。私はレナーテの婚約者になれて本当に幸せだと思っている。だから周りの言葉なんて気にしないで」
リュークは心配してくれているがそんな地味な嫌がらせでは私の幸せは壊せない。
「ありがとう。私もリュークの婚約者で幸せよ。お祖父様たちに感謝しているわ」
「ああ、そうだね。私もレナーテの婚約者になれて嬉しいよ。お祖父様たちには本当に感謝している。それにしても愛想のない私のどこがいいのか……」
リュークは身内以外には愛想が悪い。ほぼ無表情で笑わない。本人曰く意識すると上手に笑えなくなるらしい。だからリュークはこんな自分が女性に好かれる理由が分からないと首を傾げている。笑顔がなくても十分麗しい顔だという自覚がない。本人だけが自分の魅力に気付いていない。むしろ無表情であることが彼をより魅力的にしてしまっている。整った美貌が冴え冴えとして神秘的に映るのだ。
でもどんな女性が私の前に立ちはだかろうとも彼を譲るつもりはない。私はリュークが大好きで彼との未来を楽しみにしているのだ。
私たちは予定通りであれば二か月後に結婚式を挙げるはずだった。式の準備も完璧に終えてその日が来るのを待ち焦がれていた。すべては順調に進んでいたのに……。
そう、リュークのお祖父様エフベルト様が亡くなるまでは。
――馬車の事故だった。
突然の別れに私もリュークも酷く取り乱し悲しんだ。エフベルト様は誰よりも私たちの結婚式を楽しみにしてくれていた。八年前に私のお祖父様が亡くなったときは、お祖父様の分まで私たちの幸せを見届けるといってくれていた。それなのにもう二度と会えない。私にとってエフベルト様は本当のお祖父様同然の存在だった。
馬車は崖から転落したのに奇跡的にエフベルト様の顔には酷い損傷はなかった。ただ目を閉じ静かに眠っているように見える。そのせいで悲しい現実が受け入れられなくて私はいつまでも棺に縋り付いてエフベルト様が目を覚ますのを待った。でもエフベルト様が目を覚ますことはなかった……。
私たちは気持ちの整理のつかないまま、エフベルト様との最期の別れをした。
エフベルト様はお年を重ねても美しい顔をしていた。リュークはエフベルト様によく似ている。エフベルト様はリューク以上に笑わない人で気難しいと周りからは恐れられていた。
私も幼い頃は怖いと思っていた。怯える私にお祖父様が言った。
「エフベルトは怒っているわけじゃない。不器用なだけなのさ。レナーテ。今度リュークと話をしている時のエフベルトをよく見てごらん」
「? うん。見てみる」
そしてじっくり観察するとエフベルト様は結構笑っている。ものすごく分かりにくいので普通の人では気付けない。といっても笑うのは心を許した人の前だけだ。どうやらエフベルト様の表情筋は仕事を完全に放棄している。ちなみにエフベルト様の笑顔は目を鋭く細め口角が歪ませたものだ。知らない人には不機嫌になったと思われるのも仕方がないと思う。
私が笑っていると分かったのはリュークが初めて馬に乗れるようになったときにエフベルト様がその顔をしたからだ。私は一応お祖父様に確認をした。
「お祖父様。エフベルト様はものすごく変な顔で笑うの?」
「ははは。やっと分かったか? リュークは気付いていないようだが、あれがエフベルトの笑顔なんだよ」
「普通は気付かないと思う……」
それ以降、私はエフベルト様の観察を続けた。するとリュークに関わることでその表情をすることが分かった。例えばリュークが勉強を頑張って誉めたいときにその表情になる。でも言葉では「そうか」としか言わないのでリュークはエフベルト様が満足していなくて怒っていると思っている。エフベルト様はリュークが大好きなのに言葉足らずで誤解されていた。
だから私はリュークにそれを教えたが、彼はすぐには信じてくれなかった。
「リューク。エフベルト様は笑っているのよ。あなたのことを大好きなの!」
「そうは見えないよ。誰が見たって不機嫌そうに見える。きっと僕の出来が悪いと呆れているのさ」
リュークはヘイゼル色の瞳を悲しげに伏せた。
「違う! さっきだってリュークが難しい本をすらすら読んだらとても嬉しそうに頷いていたわ」
「睨んでいたのに?」
「あれは睨んでいるのではない……はずよ」
「…………」
リュークは私の必死の説明に半信半疑ながら頷いた。客観的に観察すれば分かるけどリュークはエフベルト様と相対することが多いから気付きにくいのだ。
ある日私はエフベルト様にマーセン王国の文字を覚えたことを報告した。
「聞いてください! エフベルト様。もうちゃんと読めるようになりました!」
マーセン王国は我が国よりずっと海の向こうにある豊かな国で、私の家ではお父様が多くの取引をしている。もともとはお祖父様がマーセン王国の商会と取り引きを始めたことがきっかけだ。お祖父様は仕事をお父様に譲り引退すると、自由気ままに他国を訪れた。それに私とリュークも同行させてもらっていた。特にマーセン王国には一番多く行っている。だから私はマーセン王国の言葉を理解し会話はできていたのだが、文字まではなかなか覚えられていなかった。嬉しくてこのことをエフベルト様に自慢したかったのだ。
「そうか」
エフベルト様は感情のない声で一言だけ返事をした。すぐに目を細め私を見ると口角を歪めた。
(喜んでくれている!)
私にとっては見慣れたリュークを誉める時の顔だとすぐに分かった。リュークは目を丸くして呆然としている。そして我に返ると私を見て少しはにかみながら頷いた。リュークもこれがエフベルト様の笑顔だと信じてくれたようだ。
「ありがとう。レナーテ。君が教えてくれなかったら一生分からなかったと思う」
「今度こそ信じてくれた? よかった!」
あの不器用な笑顔をもう見ることができない。私とリュークはエフベルト様の思い出を語り合いながら少しずつ心の隙間を埋めようとした。
「エフベルト様はきっとお祖父様に怒られているわ。こんなに早く天国に来たって……」
「そうだね。でもこれからは二人で私たちを見守ってくれているよ。でもお祖父様はレナーテがお嫁に来る日をずっと楽しみにしていたのに……」
「私だってエフベルト様と暮らせる日をすごく楽しみにしていたわ……」
エフベルト様は結婚して私がブラーウ侯爵家に入ることを心待ちにしていた。私だってその日をどれほど楽しみにしていたか。
これから一年間、静かにエフベルト様の喪に服して過ごす。喪が明けるころには悲しみが癒え、私たちは結婚するはずだった。
ところが状況が一変し静かな日々が終わりを告げた――。