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苦手な方はご注意ください。

短編

君を愛する事はない、は破滅の呪文

作者: 猫宮蒼

 誰も(心の底から)幸せになれない話。



 精彩を欠いた、と思うのは何も気のせいではないだろう。

 少し前の悲しい事故。

 そのせいで屋敷は全体的に沈んだようにも思える。


 ティルミントン伯爵家で働く使用人、カチュアは何とはなしに空を見上げ、それがまたとても綺麗な青空だというのにどうにもそうは思えなくて、ひっそりと溜息を吐いた。


 それから、ティルミントン伯爵令嬢であるケイトリンの身支度を整えるためにいつものように部屋に向かう。


 着飾らせる必要はない。今日はそういった意味での来客ではないのだから。

 けれども、だからといって野暮ったい姿で人前に出すわけにもいかない。

 華美すぎないように、控えめに、それでいて美しく。

 カチュアはケイトリンをそう見えるように仕上げた。



「カチュア」

「はい、お嬢様」

「決してわたくしから離れず、そばにいてね」

「勿論でございます」


 言わずともそれがカチュアの仕事だ。

 ケイトリンから用事を言いつけられて離れる事はあっても、そうでなければ基本は常に彼女のそばで控えている。

 けれども、そんな当たり前の事であっても。

 どうしても、直接言いたい時というのはあるのだろう。

 気持ちはわかるので、カチュアは安心させるようにそっと微笑んだ。

 鏡越しにそれを見たケイトリンも、同じようにそっと微笑む。


 その微笑みがお互いにどこかぎこちないのは、仕方のない事だった。

 まだ、後を引いているのだ。



 準備を済ませてから間もなくして。

 本日予定していた来客は訪れた。

 客、という言い方も少し違うかもしれない。

 客、というよりは同士……いや、これも違うか。

 カチュアはあまりうまく回っていない頭であれこれ考えてみたが、今すぐしっくりくる言葉が浮かばなかったのでそれ以上は考えるのをやめた。



 やって来たのはハルヴィナス伯爵家の当主であるライオットと、その妻セリーナ。そして息子のレンブラント。


 両家の家で事業提携していた契約の見直し。それが本日訪れた理由である。


 迎え、案内された先で待っていたケイトリンの両親は二言、三言と簡単な挨拶をかわし、ちら、とケイトリンとレンブラントへ視線を向けた。本格的な話に入る前に、少し休んでおきなさい、と言われて。

 隣の部屋に移動する。

 年頃の男女が二人きり、というわけにもいかないので、ドアは開けられているし使用人たちも控えている。間違いなど起こりようもない。


 本題に入る前にも話す事があるのであれば、確かにケイトリンにとってもレンブラントにとってもその間は退屈になるだろう。

 それもあって、お茶でも飲んで待っていろ、という遠回しな追い出しは理解できなくもない。


 だからこそケイトリンは正直この男と二人きりになど勘弁してほしいわ……と思いつつも、すぐ近くにカチュアがいる事で気持ちを落ち着け、隣室の椅子に座って待つことにしたのだ。


 レンブラントもケイトリンの向かいの椅子に座る。

 そうしてすぐに運ばれてきたお茶と茶菓子。

 ケイトリンはお茶に口をつけこそすれど、茶菓子には手を伸ばさなかった。食欲がないのだ。まだ。


 対するレンブラントは遠慮なくその菓子に手を伸ばした。

 長距離、というほどでもないが、馬車に揺られてここまでやってくる間にちょっと小腹が空いてしまったので。

 どうせこれから小難しい話に付き合わされなければならないのだとわかってもいるので、それなら今のうちに糖分を補給しておこうという算段だった。



 レンブラントは菓子を口にしつつ、そっと不自然にならないように向かいのケイトリンを見た。

 同じ年のはずなのに自分より年下に見える。

 アンニュイな雰囲気を漂わせた、どこか儚い美貌の少女。

 カップを傾けるその所作も、洗練されていてさながら絵画のようだった。


 だがしかし。


 レンブラントは、そんな彼女にそれでも伝えておかねばならぬ事があった。

 下手な期待を持たせても、彼女に申し訳がないから。


「その、一つ、きみに伝えておかなければならない事がある」


 これから言う事は、彼女にとっては残酷な事になる。

 わかっている。

 わかっているが、それでも言っておかなければならない。

 余計な期待をする方が、きっとつらいだろうから。


 菓子を咀嚼し、お茶を流し込んで。

 唇を湿らせて、そうしてレンブラントはどこか憐れみを含んだ目をケイトリンへ向けた。



「君を愛することはない。私には真に愛する者がいる」



 レンブラントにとってこの家の娘との婚約は望んだものではなかった。

 事業提携をするにあたっての結びつきが必要だったからこその、政略。

 けれども既にその頃にはレンブラントには愛する者がいたのだ。

 その愛する者を捨ててまで、好きでもない女と結婚しなければならないなど、レンブラントには耐えられなかった。親にも愛している者がいるのだと、だからその婚約は弟ではだめなのかと訴えた。弟なら確かに年が離れてしまうが、それでもまだそちらの方がいいのではないかと。


 けれどもレンブラントが何を言ったところで婚約は既に結ばれてしまった後で。


 どうして当事者にきちんと話をする前に勝手に決めてしまったんだ、と憤慨したレンブラントは。


 まぁ、言うなれば反抗心だろうか。

 親が勝手に決めた婚約者との交流などごめんだとばかりに今の今まで顔を合わせる事すらなかったのである。


 けれどもいよいよ本日、両親に連れられその婚約相手のいる家に来てしまった。


 今まで手紙一つ、贈り物一つレンブラントが寄越そうともしなかった相手だ。向こうもわかってはいるだろうと思うけれど、それでもこうして顔を合わせた以上はきちんと伝えておくべきだ。


 そう思ったからこそ。

 本当ならもっと違うシチュエーションで言うべきだったのかもしれないが、親の前で堂々と宣言するほどの勇気はレンブラントにはなかったし、この機会を逃すと次に言えるタイミングがわからない。結婚式を終えて初夜当日に言うとなればその頃にはとっくに手遅れだろう。

 だからこそ、レンブラントは今するべき話ではないかもしれないと思いながらも、それでも伝えたのである。


 一応、少し前まで婚約者から手紙は届いていたようだが、その中身は読んですらいない。

 もし自分の事を想ってくれているのなら、ここで泣かせてしまうかもしれない。

 どこか申し訳なさを覚えながらも、レンブラントはそっと目の前の少女を見た。



「当たり前でしょう! バカじゃないの!?」


 悲しむどころかブチ切れだった。だんっ! とテーブルの上に手を乱暴について、そうしてケイトリンは立ち上がり怒りの声を上げる。隣の部屋にまで聞こえるくらいの大声だった。

 文句のつけようのない腹式呼吸からなる大声に、隣室で話をしていた両家の両親もなんだなんだとばかりにやってくる。


「なんって気持ちの悪い事を言い出してるの貴方は! おぞましい! 今日が何のための集まりかも理解していないの!? 有り得ない! 本当に有り得ないわ! こんな不誠実な相手に愛されたって気持ち悪いだけよ!! そもそも愛する相手を間違っている事にすら気付いていないのだから本当に無理!」

「なっ、愛する相手を間違えているだと!? そんな事はない! 私の愛はただ一人、マーサだけに捧げられている! たかだか親が決めただけの婚約者が愛されると思っている方がどうかしている!」


「誰が婚約者よ誰がッ!! まさか、婚約者とその妹の区別もついてらっしゃらない!? はー、だから言ったのよこんな不誠実極まりない男と無理に縁付かせたってロクな事にならないって! 大体お姉さまは婚約者として不誠実極まりない相手であってもこっちが礼を欠くのは違うから、ってきちんと歩み寄ろうとしていたのに!

 お姉さまが亡くなったのだって、貴方の誕生日が近いから、贈り物を選ぶためにと出かけた結果馬車の事故に巻き込まれての事だったのに!

 貴方と婚約してなかったらお姉さまが死ぬ事なんてなかったんじゃないかってずっと思ってた!

 それなのに言うに事欠いてわたくしに向けて愛する事はない!? そもそもわたくしには婚約者がおります! ふざけていらっしゃるの!?」


 その勢いまさに烈火。

 怒りのあまり頬が紅潮している。もしケイトリンが猫であったなら、きっとその毛も逆立っていた事だろう。大きな眼はたれ目がちの優しげな印象だったがそれも今はキッと吊り上がっていた。


 淑女の仮面などとうにかなぐり捨てたと言わんばかりのケイトリンに、レンブラントも反論しようとしたのだが。

 しかしそれより前に彼女の言葉がきちんと脳内に入ってきた事で。


「――は……?」


 彼は、ようやく事態を把握したのだ。



 ティルミントン伯爵家とハルヴィナス伯爵家との事業提携による婚約。

 それは両家の結びつきを強めるためと、下手な横やりを入れないためのものだった。

 レンブラントと婚約をしたのは、ケイトリンの姉、アーシャだ。

 二人の年齢は同じで、丁度良かったというのもあるのだろう。

 アーシャがハルヴィナス伯爵家に嫁ぐことが決まり、妹のケイトリンはティルミントン伯爵家を継ぐべく婿をもらう事になった。


 家のために姉が嫁ぐのであれば、自分もまたより一層家を盛り立てていかなければ、と決意を固めていたのだが。


 しかし姉が婚約者と交流しようとしても相手は一切それに応じず。

 なんて不誠実な男なんだろう! と憤慨していたケイトリンだったが、アーシャは困ったように笑うだけだった。

 確かに、家同士の結びつきを強めるためとはいえ、大分突拍子もない状態だったのだ。

 婚約を結んだばかりの頃は、姉もまぁわたくしも急な話で戸惑っていないわけじゃないから、と言っていた。

 けれどもそこから更に聞こえてきた噂は、姉の婚約者に恋人がいるというもので。

 あぁ、だから姉と会わないのだな、とはケイトリンでも理解できた。とはいえ、既に結ばれてしまったのだから、せめて婚約者として最低限の礼儀は……と思うのも仕方のない事だったが。


 しかもその恋人はどうやら市井で暮らしているらしい。つまりは、平民。


 家を捨てて自らも市井に下るのであればいいが、そのつもりはない。

 結婚した後でその恋人を愛人として囲うつもりなのだろうか。


 そう思うのも無理のない話だ。


 姉はそれでも、婚約者相手に礼儀を欠くような真似はしてはいけない、とマメに手紙を送り、時として贈り物をしていたが、相手からのお返しは手紙も贈り物も一度もなかった。


 ここまで不誠実な相手と結婚して、両家が強く結びつくとは到底思えない。

 ケイトリンは姉に幸せになって欲しかった。

 政略だろうとも歩み寄れる相手なら、まだそうなる可能性はあったけれど、レンブラントがその相手とはとてもじゃないが言い難い。


 こんなんじゃ結婚しても両家の結びつきが固くなったなど他家が思うはずもない。事業提携と結婚は別にして、新たな契約を結び直した方がまだ余計な横やりも入らないのではないか、とケイトリンは両親に強く訴えた。

 政略結婚で夫婦仲は最初から冷めきっている、となれば、両家の事業に一枚噛んで自分たちも甘い汁を啜ろう、なんて考える連中が群がりかねない。本来そう言った相手を遠ざけるために結んだはずの婚約なのに、結局そうなってしまえば本末転倒。

 それなら最初から結婚という結びつきを考えず、最初から最後までビジネスとしての契約でがちがちに固めた方がまだマシにすら思い始めていた。


 ケイトリンの訴えを、両親も薄々その方がいいだろうなと思ってはいたのだ。

 最初の頃は急な婚約だったから、お互い心の整理がついていないのかとも思っていた。

 ハルヴィナス伯爵夫妻も、息子の態度については顔を合わせるたびに謝っていたのだが、一向に親の言う事を聞いてくれないらしく、やはり婚約はさせず契約を見直して結び直すべきだと言っていた。

 どれだけ叱ろうとも説得しようとしても聞く耳を持たないのだ。

 正直これを跡取りにするのはな……とライオットは思い始めていたし、セリーナも否定はしなかった。


 レンブラントの立場は実のところかなり前から大分危うくなっていたのだ。


 だが、結婚前にマーサとの関係を解消させるだとか、結婚してからいっそ腹をくくってアーシャと夫婦としてやっていくか……といった可能性はまだ捨てきれなかった。

 あと一度せめてしっかりじっくり話し合う必要があるな、とライオットはレンブラントと夜通し話をする覚悟もしていたのだが。



 その矢先である。



 アーシャがレンブラントへの贈り物を用意するべく街に行き、そこで馬車の事故に巻き込まれ亡くなってしまったのは。


 本来なら家に商人を呼べば避けられた事態だった。けれどその時アーシャが婚約者へ贈ろうと思っていたのは、ここ最近人気が出てきたデザイナーによる男性用の小物。そのデザイナーはティルミントン伯爵家とは関係のない商会の人間で、だがしかしアーシャは学生時代そのデザイナーと友人であったが故に。

 その伝手で、注文する事ができたのである。


 けれどもその帰りに彼女は帰らぬ人となってしまった。


 葬儀にレンブラントは来なかった。

 そもそもその頃顔を合わせるたびに親にがみがみ言われるのをうんざりしていたレンブラントは数日マーサの家に泊まり込んでいたので、話をする機会もなかった。


 アーシャが死んだ理由を知って、ライオットとセリーナはこれでもかと謝っていたけれど。

 結局のところ元凶ともいえる相手はそんな事も知らずのうのうと生きていたのである。

 ケイトリンの怒りが爆発するのも無理はなかった。


 お悔やみの言葉一つなければ、妹を自分の婚約者だと勘違いしてよりにもよって、君を愛する事はない、とか言い出したのだから。こっちだってお前を愛する事は世界がひっくり返ったってありませんわ! と言い出さなかったけれど。正直愛どころか殺意しか芽生えない。


 お前のせいで姉が死んだんだ、とか、姉のかわりにお前が死ねば良かったのに、だとか、そういった思いが確かにケイトリンにはあったのだ。

 もっと早く、婚約の見直しを言い出していれば。

 そうしたら、もしかしたら誕生日の贈り物を姉がわざわざ用意しに行く必要はなかったかもしれないのに……!



 当事者のくせに完全に他人事の男に対して、ケイトリンが淑女の仮面をぶち割ってでも罵るのは仕方のない事でもあった。ここが社交の場で、周囲の目がもう少しあればケイトリンももうちょっとブチ切れる事に関してもやり方を変えたかもしれない。けれども自宅で、素の自分を出しやすい場所であった事もあって。

 更には、姉が死んでまだ間もない。憂鬱な気分のまま、それでもこの男を出迎えて一体どんな真意があったのかを聞いてやろうと思っていたのに。

 一応冷静に応じようというつもりはあったのに、何もかもをレンブラントは台無しにしたのだ。



 咄嗟にカチュアがケイトリンを引き寄せて抱きしめていなければ、レンブラントを視界から外さなければ。

 きっとケイトリンは怒りのままにテーブルの上の物をレンブラントに投げつけていたに違いない。

 少しばかり温くなってしまった紅茶の入ったカップと、茶菓子が僅かばかりに残された皿とティーポット。それくらいしかないので、投げつけられたところでレンブラントが大怪我をするような事はないかもしれないけれど。


 それでも、こんな男のためにケイトリンの手を汚すような真似をカチュアはさせたくなかったのだ。

 お叱りなら後でいくらでもうけよう、そう思っていた。


 アーシャがもし生きていたのなら。

 自分の事でこんなにも怒ってくれるケイトリンに対してどう思っただろうか。

 彼女は優しすぎた。

 婚約者に相手にされていなくても、それでも家のためと我慢して、いつかきっと。結婚してその後にだってまだ歩み寄れる機会はあるはずだといっそ愚かなまでに信じていた。


 ……いや、信じようとしていただけかもしれない。


 そうしないと、あまりにも自分が惨めで哀れになるではないか。


 どうだろう。もしかしたらそんな風に思ったりしなかったかもしれない。

 カチュアは自分だったらそうやって思い込みで乗り切らないと無理だと思うが、しかしアーシャはそうではなかったかもしれない。何せカチュアの目から見ても、アーシャはあまりにもおおらかというか人としての器が大きいと言うべきか……ともあれ、自分と比べればあまりにも自分がちっぽけに思える存在だったのだ。


 もっと、そこらの我儘な女性のように振舞っていたのであれば。

 こんな婚約冗談じゃないわ! と嫌がってくれていたのなら。


 婚約の見直しをもっと早くにされていたかもしれない。

 けれどもレンブラントに相手にされていなくても、アーシャにとってそれは辛い事ではなかったようなので。



 だから、今、こんなことになってしまっているわけなのだが。



 ケイトリンの腹の底から出されたハキハキとした言葉によって、レンブラントが何を言い出したかなど隣室にいた両親たちには聞き返す必要もないくらいわかってしまった。


 何かの間違いだった、だとか、悪気があって言ったわけでは……みたいな言葉は何の意味もなさないどころか、ケイトリンの怒りの炎に油を注ぐようなものである。

 そうでなくともハルヴィナス夫妻はそんな事を言うつもりはこれっぽっちもなかったのだが。


 というかだ。

 ケイトリンの言葉からレンブラントが何を言ったかは聞こえなくとも察することができてしまった。


 あまりにも、あまりではないだろうか。


 まだ、まだ引き返せると思っていた。

 マーサという平民の女に熱を上げていたようだが、それでもまだ、他の道があると思いたかった。

 そうでなくとも、貴族としての教育はしていたのだ。それも跡取りとして。ハルヴィナス伯爵家を継ぐ者として。

 故に貴族としての義務を理解していないはずがない。

 口ではなんだかんだ言いつつも、それでも最後はきちんと理解するだろうと思いたかった。信じたかった。

 だが、アーシャが死んでしまった今となっては。


 引き返せるなど思えるはずもない。



「レンブラント」


 ライオットの声は、だからこそやけに静かなものだった。


「お前がそこまであのマーサとかいう女を愛しているというのなら、それこそ好きにすればいい」


 名を呼ばれ、父へと視線を向けたレンブラントにかけられた父からの言葉に、レンブラントは今この場の状況をすっかり忘れ、思わず笑みを浮かべた。


 認められた、と思ったのだろう。

 ようやく父が認めてくれたのだと。


「我が家の跡取りはカイルを指名する。お前はもう、どこへなりとも好きなところへ行くといい」


「なっ……そんな、カイルはまだ幼い。それに」

「何も問題はない。元々お前が後継ぎとなった後、カイルには別の爵位を与えるつもりだった。カイルと婚約を結んでいる令嬢もそれを理解している。

 だが、こうなった以上カイルと婚約しているメリッサ嬢にも相応の教育をしなければならなくなるが……カイルもメリッサ嬢も、貴族としての義務を理解している。お前と違ってな」


 レンブラントの言葉を最後まで聞くつもりはないとばかりに遮って淡々と告げる。


「もしお前が貴族の義務を理解しているというのなら。今までお前は何をしていた?」

「それは……その、後を継ぐための勉強を」

「そんなものは当たり前の事でわざわざやったのだと声に出して言う程のものではない。

 お前はあれか? 生きていく上で何をしていた? と聞かれて呼吸をしていた、などとわざわざ答えるか? 普通は言わないだろう。そんな当たり前の事を言われたところで、意味がないのだから」


 これがまだ小さなこどもなら、そういう言い方をしたかもしれない。

 けれどもそれなりの年齢になってからそんな事を言われたところで。

 ふざけているとしか思われないだろう。


「マーサとやらを妻に迎え入れるのだとして。

 であれば、お前はもっと早い段階でそれこそ彼女を貴族として生きていけるよう教育しておくべきだった。妻になってから貴族の社交界に足を踏み入れさせるなど遅すぎる。

 そうするつもりであったなら、何故もっと早く、彼女がいつお前の妻になってもいいように貴族としての礼儀作法や必要な知識を教えなかった?

 認めてもらえるはずがないと諦めていたからか? ならば愛人として囲う事に決めて、おとなしくティルミントン伯爵家との婚約を受け入れておけばよかっただけの事。

 それすらしないで、お前はマーサと結婚するんだと駄々をこねるだけ。


 ……では、結婚すればいい。だが我が家の跡取りとなれるなどとは思うな。お前のせいで我がハルヴィナスとティルミントン家は事業提携に関する契約を見直す結果となった。結婚という形で結びついていれば、余計な横やりも入りにくかったというのに……それだけではない。我が家はティルミントン家に対してどれだけ詫びればいいのか……悔やんでも悔やみきれんよ。アーシャ嬢は素晴らしい人だったというのにな」



 ライオットの声は悔恨に満ちていた。

 だから、だろうか。

 少なくともケイトリンはライオットやセリーナに対してはそこまで怒りを覚えなかった。

 息子の教育どうなってるのよ!? と憤慨しそうになった事は何度だってあったけれど、それでもこの人たちは何度もレンブラントを叱りつけ、いかにこの婚約が大事なものであるかを伝え、レンブラントに貴族としての義務や必要な事を根気強く伝えていたようではあったし、それに、姉が死んだ時だってまだ婚約者という段階であるのに自分たちの娘が死んだかのように悲しんでくれたのだ。そして、その時にこの夫妻がレンブラントに対して怒りを募らせていたのもケイトリンは見ていた。


 今までの教育を全部無駄にさせた息子を見限ったのは恐らくこの時だったのだろう。


 ケイトリンはこの夫妻の教育が悪かったとは思っていない。

 あまり顔を合わせた事はないけれど、それでもレンブラントの弟でもあるカイルは真っ当だったからだ。

 彼もまた、姉の葬儀に駆けつけてくれた。将来の義姉になるはずだったアーシャの死を、とても悲しんでくれていたのだ。


 だからケイトリンは思うのだ。

 レンブラントはきっと生まれる家を間違えたのだと。彼だけがハルヴィナスの家で異端であり異物であったのだと。

 そう思わないと、とてもじゃないがやってられない。



 レンブラントはというと、父の言葉に何故か呆然としていた。


 まさかここで見捨てられるような事を言われるとは思ってもいなかったのだ。


 マーサと結婚したいと言った時、相手が平民であることを理由に断られた。父も母も認めてなんてくれなかった。そこですっかりへそを曲げてしまった、と言ってしまえばそれまでだ。

 何故って今まで跡取りとして厳しく育てられてきて、面倒な勉強だってこなしてきた。

 だから、それに対しての頑張りを認めてもらって少しくらい自分の好きにさせてもらったって罰はあたらないのではないか、と思っていたからだ。


 家のため家のため、そんな言葉を呪文のように囁かれたって、レンブラントの心には何一つ響かなかった。家のための跡取りとして育てられているのだから、その跡取りに対して一つくらい何か自由にさせてくれたっていいじゃあないか。

 レンブラントは本気でそう思っていたのだ。

 頑張っている自分へのご褒美が、夕飯のメニューに好物を頼むこと、くらいのささやかなものであったならライオットやセリーナもにこにこしながら叶えただろう。けれども結婚相手に平民を、となればそれは流石に受け入れがたい。家のためだと言っているのに、その結婚相手が家のためにならないのだから。



 ここで、先程ライオットが言ったようにマーサを貴族社会に入っても何もおかしくないくらいに育て上げれば、ライオットが了承した可能性は少しだけあった。アーシャとの婚約が結ばれる前までにそうしていたのであれば、可能性はゼロではなかったのだ。

 しかしレンブラントは、真実の愛だと言うくせに、それだけだった。

 仮に平民と結婚して彼女が貴族の世界に足を踏み入れたとしてもだ。

 貴族のルールを理解していない者がやって来たところで無駄に恥をかくだけなのは言うまでもないだろう。


 仮に学んでいたとしても、つたなさが出ているならばやはり周囲から笑いものになるのは明らかで。


 誰からも文句が出るはずもないくらいに、貴族としての違和感がないまでにマーサを教育していたのであれば。

 身分なんて案外どうとでもできるので、そうであったならライオットもレンブラントとマーサの結婚を許可した可能性はあった。


 けれどもレンブラントは何もしなかった。

 ただマーサの所に行って恋人ごっこに興じていただけだ。

 将来的にどう考えたところで妻になれそうにない状態を続けさせているのだから、恋人ごっこと思われるのも無理はないだろう。



「そうまでして真実の愛を貫きたいのなら、そうすればよろしい。

 どのみち貴方とアーシャ嬢の婚約などこの先どうあっても無理ですからね。

 そして、私は嫌ですよ。平民の何の礼儀も弁えられない女を我が家の、跡取りの妻に迎え入れるなど。

 けれども貴方はそれでもその女との結婚を望むのでしょう? なら、家を捨てどこへなりとも好きに生きていけばよろしい。

 我がハルヴィナスにレンブラントなどという息子は最初からいなかった。我が家の跡取りはまだ幼くはありますが、カイルただ一人。

 えぇ、そう。

 そうなのよ。だからね?」


 ライオット以上に冷ややかな声と眼差しをレンブラントへ向けていたセリーナが、ちらり、とケイトリンの両親へと視線を向けた。

 状況が状況だ。二人も察するしかなかったのだろう。


 ケイトリンの父が、この不審者をつまみ出せ、と近くに控えていた騎士へと告げる。


 言われて、ティルミントン家の警備を担っていた騎士はすぐさま行動にでた。レンブラントが言われた言葉を理解するよりも早く。


「まっ、待ってくれ! そんな、そしたら僕は、一体どうしたら」

「知らんよ。今まで散々言っただろう。けれどそれを全て無視し続けてきたのは誰だ?

 お前ももうこどもじゃないんだ。自分の言った事、やった事に対する責任はお前がとらなければならない。

 良かったじゃないか、追い出されるだけで済むんだ。

 ティルミントン夫妻やケイトリン嬢からすれば、お前など殺したって殺し足りないだろうに」


 甘やかして育てた事など一度もなかったはずなのに、一体どうしてこんな甘ったれた思想になってしまったのやら。

 こめかみのあたりを押さえながら、ライオットは深々と溜息を吐いた。


 騎士に強引に引きずられ、レンブラントは屋敷の外に放り出された。

 何を言ったところでもう屋敷の中に戻る事など不可能で。更に実家であるハルヴィナス家に戻ろうにもここには馬車でやって来た。そしてその馬車はまだティルミントン家の敷地内だ。

 レンブラントが戻るのであれば、徒歩か、町で出ている乗合馬車を使うかだ。

 しかしレンブラントにろくな持ち合わせがあるわけでもなかった。マーサの家から戻ってきたばかりのところを無理矢理捕まえられて馬車に押し込められたのだから。


 歩いて戻ったとして、この後ライオット夫妻が馬車で戻ったなら先に家に着くのは間違いなく両親だ。そうなれば自宅にだって入れてもらえないかもしれない。


 そこまで考えて、レンブラントは目の前が真っ暗になるのを感じた。完全な闇というわけではないが、まるで明るさを感じられない。

 差し込んでいた日の光が雲に覆われて急に暗くなった室内のような、そんな暗さだった。

 雲が移動すれば、また日は差し込むけれどしかしレンブラントのそれはそうではない。


 両親が自分に見切りをつけた。

 お前はいらないと言ったも同然だった。


 どうしよう、と今更ながらに思う。


 自分の我儘を一つくらい叶えてくれたっていいだろう、という気持ちで、今まで駄々をこねてきた。マーサと結婚したいのだと散々言っていた。

 けれども、その願いは許されたものの家を追い出されるなど思ってもみなかった。


 レンブラントにとっては、今まで努力し続けてきた褒美と思っていたのだから。跡取りになるにあたって、最愛の女性を妻にしたっていいだろう、という気持ちだったのだ。


 結婚が許されてから、改めてマーサには貴族としての常識やマナーを学んでもらえばいいと思っていた。

 けれどもライオットの言い分からすると、それではあまりにも遅すぎたのだ。


 結果、相応しくない者を家の中に入れようとしたレンブラントに、後継者たる資格なしと断じられた。


 なんとかして撤回してもらえないだろうか、と思うもまずは話をしない事にはどうにもならない。けれども屋敷の中には入れてもらえそうにない。

 なら、両親が帰る時になんとしてでも……とその場に立ち尽くしていたのだが。


 どれくらいそうしていただろうか。

 刻々と太陽が傾いて、既に空は茜色に染まっている。


 このままだと夜になるけれど、まだ話が終わらないのだろうか……


 そう思っていい加減不安になってきたところで。


「お前、まだいたのか」


 レンブラントをつまみ出した騎士が、呆れたように屋敷から出てきてそう言った。


「ハルヴィナス夫妻ならとっくに馬車で帰ったぞ。なんでいつまでもそこにいるんだ?

 あぁ、そう言えば裏門からだったな。あの二人が出て行ったのは」

「そんな……」


「言っておくが、屋敷の前で野宿だけはするんじゃないぞ。その場合町の警邏に通報するし、場合によっては詰め所行きだ」

 詰め所で事情を聞かれて、そのまま解放されればいいがそうでなければ牢屋にぶち込まれる。


 余計な事は考えるなよ、と言われて、騎士は再び屋敷の中へ戻っていった。



 余計な事、も何もという話だ。


 レンブラントはどうしてこんなことに……と考えるも、正直よくわからない。

 マーサと結婚したいと言い出した事がすべての発端であるのはそうなのかもしれないが、けれど今レンブラントがこうなった切っ掛け、引き金は何か、となれば。


 両家を結ぶ婚約がなかったことになったからだ。


 婚約者が生きているのであれば、よりを戻せば元に戻る、と考えたかもしれないが、しかしその婚約者が亡くなったという事実。

 ほとんど顔も合わせなかったから、レンブラントはアーシャの顔など思い出そうとしたところでとても朧げで。


 そんな事よりも思い出されるのは憎悪に満ちた眼差しで見るアーシャの妹ケイトリンだ。


 そうだ。

 自分が、君を愛することはない、なんて言ったから。


 だから彼女を怒らせた。


 そりゃあそうだろう。

 まるで自分に気があるみたいな言い方をされたのだ。好きでも何でもないどころか、死んでくれないかと思うような男から。


 もし、あの場であんなことを言わなければ。


 どうしてアーシャを蔑ろにし続けたのか、と聞かれただろうけれど、それでも落ち着いて話ができていたのなら。


 もしかしたらこんなことにはなっていなかったかもしれない。


 いつまでも屋敷の前にいたところで、両親は帰ったと言われてしまえばこうしているわけにもいかない。

 何としてでも帰らなければ。


 とはいえ、日が沈みかけた状況で、果たして無事に帰りつけるかは微妙なところであった。






 ――カチュアは怒り収まらぬといった様子のケイトリンをひたすらに宥めていた。


 大丈夫ですよお嬢様。どうせあの男はもうおしまいです。

 両親に見捨てられて、恐らく家から籍を抜かれるでしょう。

 一足先に馬車で戻った夫妻が、あの男が戻る前にマーサとやらに使いをやって事情を説明するでしょう。

 もし、その平民の女が本当にあの男を愛していたのなら、彼の帰りを待つかもしれません。


 けれど、貴族ですらなくなった、市井でマトモにやっていけるかもわからない男を受け入れられるかは……どうでしょうね。

 もし恩恵に与ろうと思って共にいたのであれば見捨てるでしょう。

 仮に本当に女が愛していたとして、待っていたとしても。

 きっと、そう簡単に幸せになんてなれやしません。


 どうしてそう思うか? ですか。

 そうですね、使いをやって事情を説明するのだから……というところでしょうか。

 えぇ、そうです。


 一体誰のせいであの家は跡取りを失う事になったのでしょうね?

 えぇ、えぇ。

 お嬢様や奥様、旦那様からすれば、あの男のせいでアーシャお嬢様を喪ったわけですが、でも、マーサという女がいなければ?

 勿論他の女に目移りしていた可能性はあります。ですが、マーサ以外の平民女に現を抜かしていたわけではないのでしょう?

 もしその出会いがなかったのなら。

 真実の愛だのと言い出す相手がいなかったのなら、あの男はもしかしたらアーシャお嬢様と真摯に向き合っていたかもしれません。

 えぇ、まぁ、今となってはお伽噺のようなものですね。どう足掻いたところでそうはならなかった。


 ですが、邪魔な女がいなければ、そうなっていたかもしれない、という希望はあったでしょう?


 それを台無しにしたのはだぁれ? そうですね、マーサという女です。

 あの女がいなければ。

 もしかしたらあの男とアーシャお嬢様は歩み寄って寄り添いあえる関係になっていたかもしれません。もしそうであったなら、もしかしたら……えぇ、死ななかったかもしれませんね。勿論、事故に巻き込まれるという部分は避けられない事だったかもしれませんが……



 私たちからすれば、あの男こそがアーシャお嬢様の代わりに死ねば良かったと思うけれど。


 ハルヴィナス夫妻からすれば、責任転嫁できる先、怒りの矛先は間違いなくマーサという平民の女です。

 もし本当にあの男の事をその女が愛していたとして、ハルヴィナス伯爵家が何もしないなんてこと、あると思いますか?

 その女のせいで跡取りを失う形になったのですよ?


 事情を説明して、彼が貴族ではなくなった、と伝えたとして。

 もし彼と一緒になったとしたって、幸せになんてさせてくれるはず、ないじゃないですか。


 えぇ、だって、今回の契約の結び直しによって、あの家は婚約を結んでいたとき以上に不利な条件を結ぶことになってしまったのですよ? 誰かさんのせいで。

 えぇ、慰謝料がわりと言ってしまえばそれまでですが。


 でも、その損失を埋める何かがあるわけじゃない。

 でも怒りの矛先があるのなら……ほら、ね?

 えぇそうですお嬢様。ですから大丈夫ですよ。

 あいつらがのうのうと幸せになるなんてこと、ないんですから。



 ――滔々と、寝物語を語るような柔らかな口調でカチュアが紡ぐ言葉に、ケイトリンもようやく落ち着きを取り戻しつつあった。


 そうよね、そう。

 あの男は家を追い出された。

 仮に無事に帰りつけたとしても、もう家の中になんて入れてもらえもしないでしょう。

 そうなれば。

 次に行くアテはどこだろう。

 友人の家? いいえ。既に醜聞が広まっている可能性があるのだから、下手にそんな所へ行けば今まで友人だと信じていた相手に追い返されて惨めな思いをするだけ。


 最愛の女性の家?

 えぇ、きっとそうなのでしょう。


 けれど、その頃には果たしてその女性の愛は、あの男にあるのかしら?


 本当に愛していたとして、彼さえいれば他には何もいらないの、と言えるだけの女性であるのなら、優しく迎え入れるのでしょう。


 けれども、ただ貴族だから。平民よりはお金を持っているから。結婚したいと言ってくる男が貴族であるなら、結婚した後は自分も貴族のように生活できる。

 そういった考えがある女性であるのなら。


 家を追い出された元貴族なんて、価値があるかも疑わしい。


 けれども、他に行くアテがないのであれば。きっと男は必死になってしがみつくのでしょう。身分も、財産も、住む家も何もない男だ。

 平民とはいえ自分が住む家がある女性に、きっと何としてでもと縋りつくだろう。


 マーサという女がその状況で住む家を捨ててでも逃げることができる女であるのなら。


 まぁ、きっと他の土地で生きてはいけるだろう。

 けれどもそうでなかったなら。


 あの男に転がり込まれて、追い出すに追い出せないような人物であったなら。


 貴族の跡取りとしての教育を受けこそすれど、平民たちと一緒になって平民と同じ仕事をできるか、となればきっとそれは難しいだろう。彼が受けていた教育は、自分の領地にいる民を導くためのものであって、上の立場として命令を出す事はできるだろうけれど、下だと思っている相手と一緒になって、というのは恐らく無理だ。

 最初の一度や二度は内心で我慢してどうにかやり過ごせるかもしれないけれど。

 それでもいつか、きっと貴族だった時の一面がどうしたって出てきてしまうに違いないのだ。


 そうなれば。もう貴族ですらないのに貴族として振舞う扱いが面倒な平民の出来上がりだ。


 仕事を見つけたとしても、早々に追い出されてしまうかもしれない。


 そうなれば。ロクな仕事もない男をマーサとやらは養わなければならない。

 それも最初のうちはどうにかなるかもしれないけれど。

 だが、それがずっと続けば。


 いくら愛している相手だと言っても、その関係はいずれ終わりを迎えるだろう。


 マーサがその状態であってもあの男を愛しているからと支えていこうと決めたとしても。

 ハルヴィナス伯爵家が裏で手を回して潰すだろうことは、カチュアの話から想像がついた。


 そうだ。

 自分があの家の人間だったなら、自分だってそうする。

 直接手を下すわけにもいかないが、けれど始末できる機会があるならそうするし、機会がなければ作るだけの話だ。


 だからこそ。


 そう遠くないうちにあの男も、マーサというケイトリンが見たことのない女性も。


 きっと死ぬ。それもロクでもない死に方をするのだろう。



 そう思う事でようやく、ケイトリンは留飲を下げる事ができた気がした。



 君を愛する事はない、だなんて。

 当然じゃない。

 馬鹿な男。


 本当に愛さなければならなかった人はもういない。

 ケイトリンは娯楽小説のいくつかを読んでいたので、似た話を知っていた。


 君を愛する事はない、なんて初夜の日に言って白い結婚を強いたくせに、後になってからそんな相手に惚れて、改めて女性と夫婦としてやっていこうと思ったのにそもそも最初から愛なんてなかったからあっさりと離縁される男の話はいくつかあった。

 離縁した後、男の立場はどんどん下がっていって、どうにかして上手くいってた頃に戻ろうとして、そこで妻と別れなければまたうまくいくのではないか、なんて浅はかにも思い込んで復縁を迫るのだ。


 けれどもその頃には妻だった女性にはもう他の相手がいて幸せに暮らしているだとか、一人であっても一人で生きていけるだけの地盤を築いていたりだとか。

 男の入る隙間なんてこれっぽっちもありはしないのだ。


 本当に大切にしなくてはいけなかったものを粗末に扱って、結果幸せを失うという結末の話。


 娯楽小説の中の男はまだいい。復縁を迫る事ができる相手がいるのだから。


 けれども。


 レンブラントはもう今更何をどうしたところでアーシャにやり直そうなんて言えるはずがない。

 だってアーシャは既にこの世にいないのだから。

 死んであの世で一緒になろう、なんて思うはずもない。死後の世界というものは、結局のところ確かなものではないので。


 だから、生きている相手に縋るしかない。


 もし、もしも。

 ケイトリンがあの時自分には婚約者がいると言っていなければ。

 まさかとは思うが自分と婚約を結べばいい、とか言い出した可能性はあるかもしれない。

 言われたところでお断りなのだが。

 姉を大切にしなかった相手がやり直そうと言い出してその妹と婚約したからとて、大切にできるはずがない。何より妹でもあるケイトリンは姉に対する扱いを知っている。最初から信頼関係も何もない、どころかマイナスからのスタートだ。

 決して絆される事のない相手との交流というものを、あの男が根気強く続けられるとも思えない。

 早々に自分に都合のいい言い訳をして他の女に逃げるか、一向に心を開こうとしない自分に責任転嫁するのではないだろうか。


 ケイトリンはレンブラントという人物について、そこまで詳しくはない。姉の婚約者だった男。不誠実極まりない男。あいつのせいで姉が死んでしまった。そういう思いしかない。


 だからこそ、もし、とてもおぞましくはあるが、もし、あの場で、自分と婚約を結び直せばいいなんて馬鹿なことを言い出されていたら、なんてもしもが想像できてしまったのだ。

 まともな相手だとわかっていたならそんな想像すら出なかっただろう。



 ケイトリンがあの男と関わった時間なんてほんのわずかなもののはずなのに。


 それでもとても疲れ果ててしまって。

 あの男がどこまでも不幸になりますように……と祈るようにして、ケイトリンは眠りに落ちた。




 ――その祈りが届いたかどうかは定かではない。

 どのみち祈らずとも不幸になるのが約束されたような男だ。



 だからこそ、ケイトリンがすっかりあんな男の事を忘れようとして事実忘れかけていた頃に。


 遠い町で死んだらしいという話を聞かされても。


 ケイトリンの心が喜びで震える事も、悲しむ事も怒る事も、何もなかったのである。

 ただ、姉が安らかであれと思うばかりだ。


 今日も空が青いけれど。

 それでもどこか色彩を欠いたように思えるのは。

 きっとまだ、気持ちの整理がついていないからだ。

 ただ、それだけの事。








 ――ティルミントン伯爵家とハルヴィナス伯爵、両家の行おうとしていた事業提携は、国内外に大々的に周知されるようなものではなかったけれど、それでも上手くいけば二つの領地間は経済面で潤うだろうことがハッキリしていた。大成功をおさめるかどうかはわからないが、それでも失敗しようがないものであった。つまりは、大成功をしなくとも成功は確実だったのである。

 レンブラントとアーシャの婚約が結ばれた時点で、既にそれなりに始動していたそれは、間違いなく二つの領地の者たちにも恩恵を与えるはずだった。


 けれども。


 実際生活が多少楽になったのはティルミントン伯爵領であり、ハルヴィナス伯爵領は今までとそこまで変わらなかった。悪化しなかっただけマシかもしれない。

 けれども、少しばかり夢を見せられた民が不満を抱くのは当然の事で。


 そこで、今回の顛末が民にも知られる形となったのである。


 契約を結び直す事になり、あちらに有利な状況で結ぶこととなった。

 だがそれは、こちらの不始末に対する詫びで。


 とはいえ、民からすれば伯爵様の家のバカ息子が仕出かした事、と若干他人事ではあったのだ。

 いや、そんなのが将来新しい伯爵様になるのなら、他人事どころではないのだが。

 けれどもそのバカ息子は家を追い出される事になったという。


 であれば、一応当面の生活に不安はない。上がどうであろうと下々の暮らしはそう変わらないように思えるが、やはり下々を慮ってくれる上と、そうでない上とであれば生活に差はどうしたって出てくる。

 そして当主交代した直後が、そういった不安が高まる瞬間であり、差が出るのはそこから徐々にである。


 けれども当分の間伯爵家の当主が変更される事はなさそうなので、ちょっと夢を見せられたものの生活そのものが一気に不便になっただとかではなかった領民たちは、不満を抱えつつもおおむねいつも通りの生活をしていた。


 だがしかし、そこから更に詳細な情報が噂話として流れた時に。

 元凶は伯爵家の息子というよりは、そいつの恋人だった女なのではないか、と周囲も思い始めた。


 伯爵家の坊ちゃんがきちんと向こうのお嬢さんと結婚してれば、今頃はうちだってちょっとはイイ生活ができていたかもしれない。それがたとえ、夕飯のおかずが一品増えるだけ、といったささやかなものであろうとも。


 その女が弁えていたなら。

 自分だけ今までさんざん貴族の坊ちゃんと楽しくやって、きっと贈り物だってされていたに違いない。

 あいつがいなきゃ、こうはならなかったんじゃあないか?


 そんな風に、レンブラントと恋仲であった自分たちと同じ平民の女に徐々にヘイトが向くようになったのである。



 レンブラントが真実の愛だと言っていたマーサは、どうしてこんなことに、と一体どこで間違えたのかを内心で問うたけれど、しかしその答えはわからないままだった。


 マーサの今までの人生は、きっとそこらの平民たちと大差ない。

 ただちょっと早めに両親を亡くして独り立ちするのが早まったけれど、それでも周囲の人たちの助けを借りつつどうにか生きてきた。

 悪事に手を染めた事もなく、真っ当に生きてきた。


 そしてそこで、レンブラントと出会ったのだ。


 レンブラントはその時点で運命だと思っていたようだけど、マーサはまだその時点で運命なんて思ってもいなかった。平民とは明らかに違うレンブラントに、自分は釣り合わないと思っていたし、だからこそ最初の内はあまり近くなりすぎないよう距離をとっていた。

 けれども、諦めずに何度も自分の想いを伝えてきたレンブラントに、遊びではなく、騙そうとしているのでもなく、本当に自分を愛してくれているのだ、と思ってしまえば。


 そこからはもう止まらなかった。


 今まで我慢して適切な距離をとろうとしていた分、思いが通じ合ったとなれば止まる理由がなかったとも言う。


 いつか自分を妻にしてくれる、という言葉も信じていた。


 相手は貴族だ。その妻に、となればそう簡単にいかないだろうけれど、それでもいつかは……

 そんな風に夢を見た。


 けれども、親が勝手に婚約を結んでしまったと言われて。

 あぁ、やはり彼のお嫁さんにはなれないのだと。わかっていたつもりだった。

 それでも、まだどうにかする道はあるはずだとレンブラントは諦めなかったので、マーサは不安に思いつつも彼を信じる事にしたのだ。


 マーサは平民であったので。

 ここで彼に自分にできる事はあるか? と聞いたとしても貴族について何ができるわけでもないだろうと思っていたからこそ、何も言わなかったし聞かなかった。

 貴族の妻となるのなら、きっと大変だろうとわかっていたはずなのに、今のうちにそういった何かを学ぼうとまではしていなかった。


 ただ、夢物語のようにキラキラした世界に憧れていただけだった。


 普通に生活をする分には地に足をつけてしっかりした考えを持っていたマーサだが、しかし恋愛に関しては好きになった相手が悪かった。変に夢を見せられていたせいで、現実を見据えた行動をとる、という考えが遠のいていた。彼が大丈夫だっていうのなら、きっとそう。

 そんな風に相手を信じて、自分はそのいつかを待つだけ。

 傍から見ればそれは何もしていないのも同然なのだが、マーサはすっかり夢物語に浮かされてしまったように、自分はただその時がくるのを健気に待ち続けているのだと信じて、信じて、信じ切って。


 夢の終わりが訪れたのは、そんな時だ。


 レンブラントの家の人間だと名乗る者がマーサの家にやってきて、レンブラントは後継ぎではなくなった事を伝えられた。

 彼はもう貴族ではないのだと言われて。

 だからこそ、後は好きにすればいいと。


 彼を待つのも、彼を捨てるのも、それは貴方の自由だと。


 何を言われたのか、まるで理解できなかった。


 恐らくは伯爵家で働く誰か、なのだろう。

 着ている物からして品があった。そこらの平民とは明らかに違う立ち居振る舞い。

 だから、わざわざマーサに手の込んだ嘘を言いにきた、とかではないと思う。

 とはいえ、その言葉を素直に全部信じられるか……と言えば。

 やはり直接レンブラントから話を聞くまでは信じ切れなかった。


 だからこそマーサはレンブラントがここへ来るのを待った。


 あの使いのような人が来るよりも先にどうして彼がこなかったのか……という疑問もあったけれど、きっと何かの事情があるに違いないと信じて。


 そうして彼を待ちながらいつものように生活をして。

 不穏な空気は間もなく訪れた。


 レンブラントが馬鹿な真似をせず婚約者を大事にしていれば。

 そうすれば、こんなことにはならなかっただろうに。

 ひそひそと囁かれる悪意。

 そしてそれは、マーサにも向くこととなった。


 大体、平民なんだから貴族様相手にどうして自分が妻になれると思うんだい。

 あたしらみたいな平民は、精々愛人がいいとこさね。


 仕方ないよ若いんだから、現実が見えてなかったんだ。


 いっそ遊ばれて捨てられてたならまだ同情のしようもあったんだけどねぇ……


 哀れむような声。けれどそこには憐憫の情というよりはもっと違う悪意が滲んでいた。

 あいつがさっさと立場を弁えて身を引いていれば。

 そうしたら、うちだってティルミントン領みたいにもっと暮らしが豊かになったかもしれないのに。


 実際に豊かになっている実例があって、そしてそれはここにも齎されるはずだった、と知っている者たちからすれば、そう簡単に諦められるものでもない。

 次の給料は弾んでやるぞ、と言われていたのにいざその次になった時、弾むどころか減額されていたようなものだ。期待をした分、ガッカリしたその落差は大きい。

 そういった不満を持つのが一人や二人ではなかったからこそ。

 やり場のない思いの向かう先、矛先は自然とマーサへと向けられるようになっていった。何故ならまだレンブラントはその場に姿を見せてすらいなかったので。


 マーサを含め、この町に住む者たちは未だにレンブラントが自分の領地に戻ってくるだけで苦労しているなどとは知る由もない。


 故に、直接的な元凶だろうレンブラントに向くはずだった悪意までもが、マーサへと向けられたと言っても過言ではなかった。


 あいつのせいで。

 あいつが悪いんだ。


 そう思うだけで直接暴力的な手段に出た者はいなかったけれど。

 それでもどこか、マーサを見る町の皆の目は、日を追うごとにどこか淀んだものへと変わっていった。


 そしてそれらが形となったのは、マーサからしてみれば突然の事だった。



 生活に必要な物を買いに出かけたマーサだったが、いつもはにこやかに声をかけてくれた店主の態度は冷ややかで。悪いが君に売る物は何もない、と言い出した。

 え? とマーサが疑問に思う間もなく、店主はさっさと出ていってくれとマーサを追い出してしまう。

 何が何だかわからないまま、マーサは店を追い出され、店の前でややしばらく呆然としてしまった。


 周囲でその様子を見ていた町の人たちは心配するでもなく、遠巻きにこちらを見てひそひそと何かを喋っていたようだけど。

 マーサにはそれが何を言っているのかまで聞き取る事ができず、ただ、なんていうか。


 とても、空気が重たかった事だけは確かだった。

 わけがわからないけれど、気を取り直して食べ物を買いに行こうとしたが、そこでも何も売ってくれなかった。

 どのお店に行ってもそうだった。


 暴力的な手段に訴えたわけではない。

 町の人たちは、マーサをいないものとして扱った。

 何が何だかわからないけど、次の日マーサが仕事に行けば、もう今日から来なくていいと言われてしまった。


 マーサが知らない場所で、町の人たちは不満を溜めに溜め込んで、それぞれがそれぞれのコミュニティで愚痴を言い合い、そうして元凶に等しいマーサの事を村八分にしてしまったのだ。


 たまたま同じタイミングに見えたけれど、実際は違っていた。

 いくつかの店はマーサが来る前から来た時点でお断りするつもりであったところもあれば、まだ商売をするつもりだったところもあった。

 ただ、マーサが休日に纏めて必要な物を買おうとして動き始めたところで。

 他の店で断られたらしいという話を聞いて、まだ売るつもりがあった店も、なんとなくで続いたに過ぎない。


 これには流石にマーサだって困り果てた。


 お金がないわけじゃない。

 けれど、生活に使う道具や食べ物を売ってくれないとなれば生活ができなくなる。

 金ならいくらでもある、とか言えるくらいにお金があればもしかしたら解決できたことかもしれないが、生憎マーサだってそこまでのお金持ちではない。

 レンブラントからもらった贈り物を売れば、もしかしたら多少手持ちは増えるかもしれないけれど。

 でもそれはイヤだった。そもそもそうしたからといって、この事態が解決するわけじゃない。


 買い物はまだ数日どうにか持ちこたえられる程度余裕はあるけれど。

 けれど仕事をクビになってしまったのは痛い。

 頼りになる誰かがいればいいけれど、マーサにとって頼もしいと言えたのはレンブラントで。しかしそのレンブラントはどこにいるかもわからない。

 困り果てて、さてどうしようか、となったところで、どうしてマーサがこんな目に遭っているかを近所のおばちゃんが教えてくれた。


 ひそひそしていた一人だけれど、それでもやはり以前は普通に接していた相手だ。

 手のひらを返したのは事実だけれど、それでも何が起きたのかしっかり理解できていないマーサを不憫に思ったのも確かだった。

 けどもう周囲が関わらないように、マーサという人間はここにはいないのだとばかりの態度なので大っぴらに話しかけるわけにもいかず、そっと人目を避けるようにして彼女はマーサに接触したのだ。



 どうしてこうなってしまったのか。


 納得できたわけじゃない。

 マーサからすれば、自分はただ好きな相手といただけ。いつか結ばれる事を信じていたけれど、それが上手くいかなかっただけ。

 レンブラントは既に貴族ではないらしいけれど、彼はきっといつかここに戻ってくるはずだ。


 マーサは知らなかったが、どうにもいくつかの噂からレンブラントはティルミントン伯爵領に置き去りにされていたらしく、それでここに戻るまでまだかかるかもしれない……との事だった。

 馬車ならそうでもないけれど、徒歩での移動となれば確かにそれだけ時間がかかるのかもしれない。

 彼は無事なんだろうか、と思った。

 途中、食事や休む場所はどうしているだろうか。

 まさか野宿だろうか。ここに戻る前に行き倒れたりしていないだろうか。

 不安や心配は尽きない。



 けれど、マーサにいくつかの情報を教えてくれたおばちゃんは、そんなマーサに人の心配している場合かい、と言われて。


 そうだ、今は自分の心配をしなくちゃいけない、と気が付いた。


 二つの領地での事業については、マーサもふんわりと伝え聞いてはいた。詳しい話は知らない。ただ、確かにそれらが上手くいけば生活が豊かになるかもしれない、とは噂で聞いていたけれど、まだまだ先の遠い話だとばかり思っていたから。


 とっくにそれらが始動していて、しかもこっちには恩恵がほとんどなくなってしまったなんて知らなかった。

 しかもその恩恵がなくなってしまったのは、レンブラントとティルミントン家のご令嬢との婚約がなくなってしまったから。

 それだけではないらしいけれど、婚約の邪魔をしていた相手がマーサ、という噂も流れているらしい。

 マーサ本人はレンブラントの婚約者だという令嬢がどんな人かもわからないのに。見た事だってないはずだ。けれども、いくらそれを訴えたところで、信じてくれる人よりも自分を悪く言う人の方が多いのだろう。


 事ここにきてようやくマーサは自分を取り巻く状況が危ういものだと気が付いた、というよりはおばちゃんに言われて理解した。


 恐らくどこか別のところで働こうにも、この町でマーサを雇ってくれる人はいないだろう。いたとして、相当に足元を見られるに違いない。

 生活に必要な道具も食べ物も、売ってくれない。仕事もない。となれば、今住んでいるところも家賃が払えなくなれば追い出されるか、下手をすれば難癖つけて追い出されるか。



「悪い事は言わないけどね、あんたはこの町を出てどっかよそで生活したほうがいい。ここじゃもうあんたの味方になってくれる人はいないよ。あんたが悪くなくてもね」


 おばちゃんの言うとおりなのだろう。


 レンブラントがいたならば皆きっと彼が悪いとなったのかもしれないけれど、今はこの町にいないから。

 だからマーサが悪いという事にされている。そうやって心の中で折り合いをつけているのだろう。


 彼を待つつもりではあるのだけれど。


 でも、まだティルミントン領からハルヴィナス領に向かっている途中らしい、という話を聞けば。

 彼が戻るまで、自分は果たしてここで生活できるだろうか?

 彼がもっと早く戻ってこれそうなら待ち続けたかもしれない。

 けれど、乗合馬車にも乗らず、どうやら徒歩で移動しているらしいと聞いて。

 ティルミントン領へ仕事で向かったこの町の人だって、乗合馬車を使うのに、そしてその時にどうやら目撃したらしいのだけれど。

 徒歩での移動でここまで、となれば今日明日に戻ってくる、とか到底無理な話だ。



 だからこそマーサは決めたのだ。


 こうしてこっそりと色々教えてくれたおばちゃんに、不躾な願いではあるけれど、もしレンブラントが戻ってきたら、自分はこの町を出たことを伝えてほしいと。

 自分はハルヴィナス領を出てもう一つ隣へ移動すると。


 ハルヴィナス領にいたままなら、ここじゃない町や村に行ったところで、また同じような噂が流れて同じような目に遭わないとも限らない。

 だから、ハルヴィナス領でもティルミントン領でもない、別の土地へ行くのだと。


 といっても、現状のマーサの懐事情や様々なものを考えたら、隣の領地へ行くのがやっとだ。

 それでももし、レンブラントが追いかけてきてくれるのであれば。

 自分はそこで彼を待つのだと、伝えてほしい。


 おばちゃんは複雑そうな顔をしていたけれど、それでも頷いてくれた。

 それだけで充分だった。




 急いで荷物を纏めて、今までずっと過ごしていた町を出て。

 隣の領地へと向かって比較的過ごしやすそうな所に腰を落ち着けて。


 隣の領地ではマーサの事を居ない人間扱いするような事はなくて、だからこそ、住む場所を見つけて仕事を探して、どうにか生活の基盤を整える事ができた。


 たった一人で馴染みのない土地へやってきたマーサに対して周囲は色々と心配してくれて、親切にもしてくれた。中でも特に親切にしてくれたのは、大工をしているという青年だった。

 二年前に病で妹を亡くし、その妹にマーサが似ているのだとか。

 だから、彼はちょくちょくと様子を見に来てくれて、困った時には助けてくれた。


 マーサは一人っ子だったけれど、親はもうとっくにいなかったから、妹の代わりであっても自分に親切にしてくれる青年を兄のように慕っていた。家族ってこんな感じだったな、なんてどこか懐かしく思いながら。

 マーサには恋人がいるが事情があって今一緒にいない事も、青年には話した。青年もまた、マーサの事は妹のようにしか見ていなかったので、じゃあここでその恋人が迎えにくるのを待つのか、早く会えるといいな、なんて言ってくれた。


 そう、レンブラントがどうにかしてハルヴィナス領の、マーサが過ごしていた町まで戻って来たならば。

 おばちゃんが伝言を伝えてくれるだろうから、きっといつか迎えに来てくれるのだと信じていた。

 いつになるかわからなくても、それでもずっと待ち続けるつもりだったのだ。




 待って、待って、待ち続けて。



 そうしてその日はやって来た。


 けれどもその日は決して喜ばしい日にはならなかった。


 マーサは仕事を終わらせて、家に帰る途中だった。

 食料も残りわずかだった事を思い出して、途中でいくつかの食材を買って、それから家に帰るところだった。途中で青年も仕事が終わったらしく、同じように食べ物を買いに来たようで、そこで少しだけ話をして。


 真っ暗になる前にと別れて、家に向かう途中で。


「さっきの男は誰だよ」


 と、声をかけられた。


 声のした方を見れば、そこには険しい目つきをした一人の男。

 誰だろう? マーサはすぐにそれが誰であるかをわからなかった。


 きょとん、とした様子のマーサに、男は堰を切ったように罵声を浴びせた。



 待ってるなんて言っておきながら結局お前は他に男を作ってるんじゃないか。

 この裏切り者! お前のせいで全てを失ったのに!

 この阿婆擦れ、お前がそんな女だったなら、お前を愛する事なんてなかったのに!


 突然見知らぬ男性に怒鳴られて、マーサは思わず委縮した。そうでなくとも暗くなりつつある状況だ。そこで、いきなりこんな事になれば怖がらないはずがない。

 最初、頭のおかしい人に絡まれたのかと思った。

 けれども言葉の合間合間でどうやらこの男はマーサの事を知っているらしいと気づく。


 何かを言おうにも男の怒気にあてられて、マーサはすっかり怯えてしまってロクに声が出せなかった。

 一体何のことを言っているのだろう? と思っても、相手は冷静ではないようで、何かこちらが下手なことを言えば、あっという間に距離を詰めて殴り掛かってくるのではないか……? と思えてしまったので。

 そうなるとますます声は喉のあたりに張り付いたようにして出てこない。


 怖い。


 マーサの中にある感情はただこれだけだ。


 怖いから、この場からどうにかして逃げ出したい。

 でもちょっとでも動けばこの男を刺激してしまうかもしれない。

 そうでなくとも背を向けた途端、殺されてしまうかもしれない。


 そういった恐怖は確かにあったのだ。


 だから、動けず、声も出せず、マーサはただその状況が変わるのをじっと耐えて待つだけだった。


「何とか言ったらどうなんだよ!?」


 男がそう叫んだ途端、思わず身体が跳ね上がった。あまりの恐怖に目に涙が浮かんでくる。


「マーサ!!」


 思わず自分を庇うように身を縮こませたマーサに、遠くから声がかけられた。

 それは女の声だった。けれども駆け寄ってくる足音は二つ。


「お前! マーサに何してるんだ!!」


 次に聞こえてきたのは、青年の声だった。


 あぁ、と気づく。では最初にマーサを呼んだのは、青年の妻だ。

 彼女は青年の妹の事も知っていたから、マーサを見た時あまりにも妹そっくりだと驚いていた。そうして、青年と同じようにマーサを妹のように可愛がってくれる、この町でマーサが頼りにしているお姉さんだ。


 駆け寄ってきた青年に、男は唸り声のような音をだして殴り掛かろうとした。

 青年はマーサに下がってて、と声をかけてどうにか男と応戦しはじめる。

 お互い武器になるような物は持っていなかったのが救いだったのかもしれない。

 けれど、どこか草臥れた様子の浮浪者のような男と、日々大工として力仕事をしている青年とでは、地力が違ったのだろう。


 殴り合い、もみ合っているうちに男が倒れる。

 倒れて、当たりどころが悪かったのだろうか、男はしばらく痙攣していたがやがて動かなくなった。


「し、死んだの……?」

 カッスカスな声でどうにか聞けば、どうも男が倒れた場所には少し大きな石があったらしく、それにぶつけた事で死んだようだと判明する。


 どうしよう、青年が人殺しになってしまった、と思ったのもほんの一瞬だった。

 確かに人を殺すのは犯罪だが、しかしこの領地での、この国の法に当てはめれば、今しがた死んだ男が貴族であったなら青年は罪を負う事になるが、同じ平民なら恐らく罪に問われる事はない。

 何故って男はマーサを襲おうとしていたし、青年はそれを助けに入っただけ。正当防衛と言われるだろう。青年の妻もこの場にいたし、殺そうとして殺したわけではないと証言はできる。

 身内の証言になるので全面的に信じられるかは微妙だがそれでも、この町で見かけた覚えのないどこからかやってきた流れ者に襲われかけたとなれば、この町で真っ当に働く青年が罪に問われる可能性は低い。


 だからといってこの男をそのままにしてはおけないので、青年の妻が急いで町の警邏を担当している者を呼び、事情を説明してその日はどうにか家に帰る事ができた。


 翌朝。

 改めて昨日のことを確認したいと言われたから。


 昨日襲ってきた相手の死体を確認する勇気はマーサにはなかったけれど、それでも昨日より明るい場所で見た彼は。


「……レンブラント……?」


 薄暗がりの中で見た時は、全体的に薄汚れたような、どこか草臥れたような、それこそ浮浪者と言われれば納得しそうな感じで、その上で視線の険しさだけがやけに印象に残っていた。


 今、その目は閉じられているが、しかしそうして改めて見れば。


 記憶にある彼とは変わって痩せこけた様子ではあったけれど、それでも。

 間違いなくマーサが待つと決めていたレンブラントその人だったのである。


 そしてようやく、昨日マーサが言われていた言葉を思い返してみれば。



 彼がどういう軌跡をたどったのかは知らない。

 けれど、彼はあのマーサが過ごしていた町へ戻ってきた。そしてマーサの元へ向かう途中か、向かった後かで伝言を頼んでいたおばちゃんに遭遇したのだろう。

 そしてマーサが町にいないと知って、きっと追いかけてきてくれた。

 隣の領、としか言ってなかったから、きっといくつかの場所を探してくれたに違いない。


 けれど、ようやくマーサを見つけたその時、きっとレンブラントはマーサが知らぬ男と親し気に話しているのを見て。


 とっくに自分の事など忘れて新しい男と幸せにやっていると思い込んでしまった。


 そのまま二人で一緒に帰るかと思いきや途中で別れたからこそ、レンブラントは真相を確かめようとしたのだろう。

 最初はきっと話し合おうとしたのかもしれない。

 けれど、暗くなりつつあったからというのがあっても、マーサはすぐにレンブラントだと気付けなかった。


 それが余計に、とっくに彼の事など忘れてしまったと思わせてしまったのかもしれない。


 信じていたはずだ。

 きっと待っていてくれるのだと。


 けれどそれが裏切られたと思ったから。



 今までの愛情が裏返った途端、憎しみに転じたのだろう。



 まるで自分のせいで全てを失ったかのように言われたけれど、きっと気が動転していたからだ。

 だってその理屈で言うのなら、マーサだってレンブラントのせいで故郷を追われる事になったのだから。

 マーサはレンブラントの事を恨んだりはしていなかったが、レンブラントはそうではなかった。


 そして心の赴くままに行動に出て、その結果――


 誤解がとけることもなく、彼は命を落とした。



 もし、あの時。

 助けに入ってくれる人がいなかったら、きっとマーサが死んでいたかもしれない。

 そしたら、後になって誤解がとけたなら、彼は後悔してくれただろうか……?


 マーサは恋人を待つとは言っていたけれど、その名を口にした事はなかった。

 だから、一緒に昨日の事を聞くために呼び出された青年もその妻も、死んだのがマーサの恋人だとは思っていない。

 マーサにとってそれが救いだった。だって、もし青年が知ったらきっと後悔する。深く傷つく。

 だから、待ち続けるつもりでいる恋人の名がレンブラントだという事は、マーサはもう誰にも言わない事に決めた。


 そうすれば、以前住んでいたところで顔と名前だけは知っていた人だと言えばこの一件はそれでおさまる。

 実際、彼はとっくに貴族ではなくなっていたから青年が罪を負う事もなかった。


 彼の死は、町の新聞の片隅にひっそりと記された程度で。

 その身体は町の外れの共同墓地へ。


 呆気ないくらいにあっさりと。


 マーサの恋は終わりを迎えた。

 愛する者の死という形で。


 この一件の後、時々共同墓地で誰とも知れぬ者たちが埋葬された墓には花が供えられるようになったけれど。

 数年後、一人の女性が亡くなった後はそれすらもなくなったという。

 破滅の呪文っていうとどうしてもバルスって言いたくなる病気に罹ってる日本人はきっとたくさんいるはず。バルス。


 次回短編予告

 転生した悪役令嬢が奮闘する話。人は死ぬ。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] まあ仮にマーサがゴミクズからの告白を断ったところで、その街の支配者の後継であるゴミクズから権力使って囲い込みもしくは逆恨みの嫌がらせを受けてただろうから、マーサには少し同情してる [一…
2024/08/01 20:08 退会済み
管理
[気になる点] 数年後1人の女性が亡くなったって、、 これ、レンブラントの身内が始末しましたか? レンブラントの身内からしたら この女が〜ってやつなのだろうし、 平民が身の程知らずとか思ってそう。 …
[気になる点] たられば、が多くて読みにくい
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