パンをくわえて走りなさい。さすれば救われるであろう
学園の中庭ベンチで、ルーシェは流行りの大衆小説を夢中で読んでいた。
発売日に三時間も並び、やっと手に入れた限定発売の最新刊。
楽しみにしていた小説が、ついに佳境を迎えるのだ。
『地に這いつくばり許しを請うとは、貴族の矜持を失くしたか?』
『言い訳は、それだけか? ……憐れだな、シャルロッテ』
権力を笠に着て悪行三昧だった令嬢が、今まさに断罪……という一番面白い場面で、ルーシェが読んでいた本を背後から忍び寄った何者かが取り上げた。
「何をするの返して!」
振り向くと、伯爵家の嫡男ハンフリーが、先程ルーシェが開いていたページを眺めて薄笑いを浮かべている。
「これは驚いた。ルーシェ嬢は大変な夢想家のようだ」
ハンフリーがおどけて言うと、取巻きの男子生徒たちがどっと声を上げて笑った。
「ちがっ、ただ面白いから読んでいるだけで、別に憧れているわけでは」
「愚か者ほど言い訳をする。素直に認めたらどうだ?」
愚か者呼ばわりされたことが悔しくて真っ赤な顔で俯くと、取巻き達はハンフリーに同意しまた笑う。
貴族の子女が通うこの学園は男女別クラスとなっており、授業を通して男子生徒と接触する機会はほとんどない。
さらにはのんびりと一人で過ごすのが大好きなルーシェ。
貴族令嬢の友人は片手で余る程度である。
このため、令嬢仲間を通じて男子生徒との交流の輪が広がるようなこともなく、特にそれを不満に感じたこともない。
にも拘わらず、だ。
廊下ですれ違うたび、中庭のベンチで読書をするたび、この腹立たしい一団は何かとルーシェにちょっかいを出してくるのだ。
特に、ハンフリーはその筆頭であった。
「返して! 私の本よ!」
「……おっと」
奪い返そうとしたルーシェを揶揄うように、背の高いハンフリーは本を持った腕をひょいと上げる。
小柄なルーシェでは到底届かず、それでも諦めずに飛び上がっていると、「まるで兎だな」とまたしても嘲笑の的にされた。
「こんな台詞、使う機会もないだろう? 刺繍のひとつでもして、学生の間に婚約者を探さないと行き遅れるぞ」
「なんて失礼な方なの!? 私に婚約者がいようがいまいが関係ないでしょう!」
「……ああ、違った。兎じゃなくて子犬だったな。キャンキャンと元気によく吠える」
「だったらもう二度と話しかけないでください!」
カッとなって反論するルーシェの頭上に、ぽん、と本を置き、ハンフリーと取巻き達が笑いながら去っていく。
(なによ! 何しに来たのよ!? どうして友人でもない人から、いつも酷いことを言われなければならないの!?)
頭上に乗せられた本を両手で掴み、怒りに震えながら、ルーシェは去っていくハンフリーの背中を睨みつけたのである。
***
「……許さない。許さないわ。泣いて詫びるまで、絶対に許さないんだからぁッ!」
入学して以来、何十回と揶揄われ、婚約者がいないことを馬鹿にされ……あげく嘲笑されてきたが、もう我慢の限界である。
百歩譲って婚約者がいないのは事実だから仕方ないが、それにしても言い方というものがある。
確かにちょっと妄想癖があるのは認めるが、こう見えて歴とした子爵令嬢。
しかも成績は常に上位を保っており、小馬鹿にされる謂れはない。
「足元にも及ばない素敵な婚約者を見せびらかして、後悔させてやるわ……!」
待たせておいた馬車へ護衛とともに乗り込み、走ること一時間弱。
王都の端、決して治安が良いとは言い難い路地裏は、瓦礫で道幅が狭くなっており、徒歩での迂回を余儀なくされる。
連日の悪天候で足場も悪く、四苦八苦しながら雑草の生い茂った道を進むと、粗末な小屋が一軒ポツンと建っているのが見えた。
最近仲良くなった令嬢によれば、占い館『マレルの森』には霊験あらたかな占い師がおり、引くほど当たると評判らしい。
かく言う令嬢自身もつい半年前、その占い師のおかげで素敵な婚約者を得たのだという。
小屋に着くと、木製の扉口に丸まっていた黒猫がルーシェを見上げ、『にゃあん』と一鳴きした。
ルーシェは赤錆びて年季の入ったドアノッカーを扉に打ち付け、中の様子をそっと伺う。
「あのぅ……どなたか、いらっしゃいますかぁ?」
異様な雰囲気に尻込みしながらも、勇気を出して声をかけると、トタタタッと軽快な足音が扉越しに近付いてきた。
「はいはーい、どちら様! ん、ご新規様? 誰の紹介かな?」
扉を開けてちょこんと顔を覗かせたのは、子供……背の低いルーシェが見下ろす程度の身長なので、10歳前後の子供だろうか。
フードを目深に被っているせいで顔全体を見ることは叶わないが、声を聞くに少女だろうと推測される。
紹介してくれた令嬢の名前をルーシェが出すと、心当たりがあるのだろう、「あぁ、はいはい!」と頷き、すぐに招き入れてくれた。
「はじめまして。私の名前はマレル。今日は日差しも強いので、とりあえず中へどうぞ~~!」
軽い調子で促され、護衛を連れて中に入ろうとすると、「気が乱れるのでお客様以外はご遠慮ください」と護衛の入室を拒否される。
怪しげな小屋の中へ護衛を連れずに入るのは躊躇われたが、友人の紹介ということもあり、護衛を扉口に待機させてルーシェは奥へと進んだ。
部屋の奥には至る所に液体の入った小瓶が置かれており、所在なく見回していると、古い木製スツールに腰掛けるよう指示される。
ルーシェがおずおずと腰掛けると、テーブルを挟んで真正面にまわったマレルが、嬉しそうに身を乗り出した。
「それで、今日はどうしたの? 占い? それとも呪い?」
とんでもない二択を気安く提示しながら、メニュー表をテーブルの上に広げる。
「まずはコレ。失せモノ探し、銀貨一枚。人でも物でもなんでもござれよ」
嬉しそうに小さな指で差し示し、「次はコレ」「その次のお勧めはコレ」と、ルーシェの反応を見ながら順番に説明をしていく。
「最近多いのはこれかな。恋占い。銀貨三枚」
指差したその先には、『素敵な出会いへと導きます!』と書かれている。
ピクリと反応したルーシェを目に留め、「分かった、これだね」とマレルは棚から大きな水晶玉を取り出した。
それを合図に、先程の黒猫がベルベットのような敷布を咥え、テーブルの中央へと広げていく。
「ありがとう」
マレルは黒猫を一撫ですると、小さなクッションを敷布の上に置き、更にその上に水晶玉を乗せて両手をかかげた。
軽く息を吹きかけ、水晶玉越しにルーシェを覗き込むようにして顔を近づけると、白い靄のようなものが内部に広がる。
「おおぉ……見える、見えるぞおぉぉ」
見えるのは結構なことだが、ルーシェの表情をチラチラと確認しながら、決め台詞のタイミングを計るのはいかがなものか。
先程の黒猫に、「どう、雰囲気出てる?」とこっそり質問をしているのも大概である。
そうこうしているうちに水晶玉の靄が濃くなっていき、ついには透明だった水晶が白一色に変わった。
突然強い光を発し始めたのを確認するや否や、マレルは水晶玉を手に取って立ち上がると、天に掲げ声高く叫んだ。
「整いましたァッ! 翌朝七時十五分、学園の裏門から噴水庭園に向かい、パンを咥えて走りなさい!」
「……はい?」
「だからパンを咥えて」
「……はいぃ?」
自信満々に語るマレルを、ルーシェは思わず二度見する。
恐るべき占い結果に、開いた口が塞がらない。
パンをくわえて、学園内を走る!?
貴族令嬢が口にパンを咥えて人前で走るなど、およそ正気の沙汰ではない。
重かったのか、腕をプルプル震わせながら水晶玉を下ろしたマレルは、怪訝そうに目を向けるルーシェを安心させるように、力強く頷いた。
「案ずるな。信じる者は救われる」
すっかり透明に戻った水晶玉を一拭きし、またしても黒猫に「どうだった? いまの演出」と声をかけているが、そういうのは客が帰ってからにしていただきたい。
「聞いていると思うけど、紹介者のご令嬢は満月の夜、占いに従ってフリアフォルから飛び降りたんだよ」
「!?」
「パンを咥えて走る程度、どうってことないでしょ」
いやいや存じませんでした。
というより、存じていたら、絶対にここへは来ませんでした!
『フリアフォル』は、学園から一時間程馬車で走った山道の途中にある崖である。
婚約者を得た上にピンピンして学園に通っているところを見ると、占いの信憑性は高いと信じても良いのか――?
いや実のところ、どこまでが本当か怪しさ満点なのだが、『フリアフォルからの即死ジャンプ>パンくわダッシュ』という公式がルーシェの脳内にインプットされ、まぁそれくらいなら許容範囲かな? という、ドアインザフェイスの法則に陥りつつあった。
ルーシェはゴクリと息を呑み、女は度胸! と、握りしめていた銀貨三枚をテーブルの上に置く。
「……やります!」
げに恐ろしきは若気の至り。
まいどありぃ! と歓喜するマレルと熱い握手を交わす。
ルーシェは扉口の護衛を回収し、意気揚々と『マレルの森』を後にしたのであった。
***
――そして翌朝。
一晩寝て我に返ったのはいいが、正直かなり後悔をしていた。
(あぁぁ、なんでやるって言っちゃったかな)
だが他に打開策もなく、一度やると言ったからには最後までやりとげる主義である。
ルーシェは緊張でパンが潰れるほど握りしめたまま、裏門の影に隠れた。
七時十五分まで、あと一分程度。
幸い早い時間のため、生徒は疎らでいないに等しい。
これなら誰にも目撃されず、噴水庭園まで走り切れるだろう。
少しでも小さくしてやろうと、もぐもぐとパンを齧りながら、運命の時を待つ。
その間も、時計の秒針は刻一刻と進んでいった。
さぁ、七時十五分。
心を無にして走るのだ。
ルーシェは残ったパンをガバリと口にくわえ、猛然と走り出した。
(大丈夫! この時間なら知り合いもいないし、私はやれる!)
あと数メートルで噴水庭園というところで角を曲がり、より加速しようとしたその時、正面から歩いてきた何かにぶつかった。
勢い余って草むらに突っ込むルーシェと、突然の衝撃に体勢を整える暇もなく、ふっとんで後方に倒れこむ男性。
「すっ、すすすすみませ……ッ! ……ッツ!?」
脳震盪でも起こしたのか、はたまたぶつけたのか、立ち上がることができない男性に駆け寄ったところで、その見覚えのある姿にルーシェはへなへなと膝から崩れ落ちた。
(なんでよりによって、ハンフリー!?)
一番見られたくない奴に、一番見られたくないタイミングで会ってしまった!
ルーシェがくわえていたパンは、ハンフリーの手が届く距離に落ちている。
貴族令嬢にあるまじき醜態を目撃され、ルーシェは絶望した。
ただでさえ絡まれるのに、これでは婚約者を得て黙らせるどころか、卒業するまで揶揄われてしまう!
先程までやる気に満ちていた心が一気にしぼみ、恥ずかしさのあまり、次から次に涙が零れる。
「ルーシェ・アミティエッ! お前、こんな朝っぱらから何をしているんだ!?」
尻もちをついたままハンフリーが怒鳴り出す。
しかも仲の良い友人でもないのに、怒りのあまり呼び捨てである。
「う、うわあぁぁぁんッ!」
もう恥も外聞もなく、絶望のうちに大声で泣きじゃくり始めたルーシェにハンフリーは一瞬怯むが、手元に落ちている食べかけのパンに気づき、更に声を荒げた。
「なんでパン!? お前は一体何がしたいんだッ!?」
そんなの私にも分かりません!
あの占い師に言ってくださいと主張したいのだが、しゃくりあげて言葉にならない。
二人の騒ぎを聞きつけ、通りすがりの男性が慌てて駆けてきた。
「これは……どういう状況だ?」
見目麗しい優しげな男性……教師だろうか、周囲を見回して首を捻る。
泣きじゃくる令嬢と、尻もちをついて怒鳴る男子生徒。
そして隣に転がる食べかけのパン。
落ちた拍子に、パンかすが飛び散ったのか、数羽の鳩がのんびりと啄んでいる。
「こいつが突然ぶつかってきたんだ!」
絶賛激怒中のハンフリーがなおも怒鳴ると、男性は状況を整理しようと腕を組んだ。
「うーん、ひとまず追及は後だな。……お嬢さん、お手をどうぞ」
わんわんと子供のように泣きじゃくるルーシェを見兼ね、男性が優しく手を伸ばす。
「……あ、ありがとうございます」
ルーシェを助け起こした後、そっとハンカチまで差し出してくれる。
この恥ずかしい姿を知らない人にまで見られてしまった……もうお嫁にいけないと、ルーシェは絶望のうちに涙をぬぐった。
「くだらない小説ばかり読んでいるから、訳の分からない人間になるんだ! 淑女らしく男に尽くせ!!」
「余計なお世話です! ぶつかったのは申し訳なかったですが、くだらない小説じゃないし、どうでもいい男性に尽くす気もございません!!」
転んだ拍子にカバンの蓋が開き、中身が足元に散乱している中、いつものごとく喧嘩を始めた二人を男性は呆れながら見守っている。
「だからいまだに婚約者すら出来ないんだ! お前みたいな女と結婚したいヤツがいたら、お目にかかりたいくらいだ!!」
「はぁぁ!? 自分だって婚約者どころか恋人すらいないくせに!! ……それに走ってくる令嬢を避けられもせず尻餅をつくなんて、随分とお粗末なのではなくって?」
「なんだと!?」
なおも怒鳴りつけるハンフリーを無視してルーシェが教科書を拾い集めると、先程の男性も手伝ってくれた。
限定発売でもう手に入らない、宝物の本が砂まみれ。
占いなど信じなければ良かった……本を傷つけないよう慎重に砂をはらうと、起き上がったハンフリーに力ずくで奪い取られた。
「こんなもの、ゴミ同然じゃないか!」
怒りに任せ、ハンフリーが両手に力を籠めると、ビリッと鈍い音を立てて表紙が千切れる。
「きゃあああああ! なんてことをするのですかッ!?」
ルーシェは奪い返そうと手を伸ばすが、本を持った腕をハンフリーが上げたため、飛び上がっても届かない。
「相変わらず可愛げのない、馬鹿な女だ」
「わた、私の宝物が……返して! 返してよぉぉぉッ!!」
なおも奪い取ろうと縋るルーシェの目の前で、本を持つハンフリーの腕を先程の男が掴んだ。
「……痛ッ」
ぐっと力を籠めると、ハンフリーの顔が痛みに歪む。
「どういう状況かは分からないが、御令嬢の宝物を粗末に扱うのはいただけないな」
厳しい口調で諭すと、男性はハンフリーから取り上げた本をルーシェにそっと手渡してくれた。
「ありがとうございます。でも、もう手に入らないのに……や、破れちゃった」
少し力を入れるだけで千切れ落ちてしまいそうな表紙。
怒りに任せてやりすぎたと思っているのだろうか、本を抱きしめてベソをかくルーシェを前に、ハンフリーは気まずそうに目を逸らした。
「新任早々、まったく……。ネクタイの色を見るに一年生か? 十五歳にもなって子供じみた真似をするな」
やはり新任の教師だったようで、呆れ交じりに告げられる。
プライドを傷つけられたハンフリーはカッとなり、男性に掴みかかるがその実力は歴然で、勝負にもならない。
あっさり投げられ、地面に腹を付ける形で押さえ込まれてしまった。
逃れようともがくが、それも叶わず、ついには顔まで地に押し付けられる。
「君には少しお仕置きが必要かもしれないな」
「そいつが悪いんだ! 毎回毎回俺をないがしろにして……!」
押さえ込まれ、もがくハンフリー。
興奮して怒鳴り散らす姿に、男性はふぅと短く息を吐く。
「悪いね、ゆっくり話を聞いてあげたいところだけど、のんびり遊んでもいられないんだ」
地に伏すハンフリーの頭上でパチンと指を鳴らすと、青白く光る枷が現れてもがく手足に絡みつき、鎖のように地につなぎ止められる。
「やめろ、なんなんだ! 離せ! ふざけるなよ、お前なんかすぐ学園をクビに……もがっ、モガモガ」
「あとで回収しにくるから、しばらく頭を冷やしておくことだな」
ハンフリーはなおも騒ぎ立てるが、口にまで枷がつけられ声が出せない上、地に縫い留められて動くことすらままならない。
完全に固定されたのを確認し、男性は押さえつけていた腕を離して伸びをすると、今度はルーシェへと向き直った。
「午後はずっと教員室にいるから、何かあったら気軽に遊びにおいで」
ルーシェの頭にポンを手を乗せ、優しく告げると、何事もなかったかのように去っていく。
「ありがとうございます……!」
涙も引っ込み、少し冷静になったルーシェは立ち去る男性にお礼を述べ、足元に転がるハンフリーを一瞥する。
そして良いことを思いついたとばかりに、笑みを浮かべた。
「……素敵よね。貴方とは大違い」
服についた土ぼこりを払い、乱れた横髪を耳に掛けると、芋虫のようにうごめくハンフリーの顔の近くへしゃがみこむ。
脂汗をにじませて目だけを動かし、何をされるのかとルーシェを凝視しながら、ハンフリーはなおも束縛から逃れようと無駄な抵抗を続けている。
いつも余裕綽綽で生意気なハンフリーが、みっともなく地に転がる姿にスカッとしながら、ルーシェはその耳元へと唇を寄せた。
『地に這いつくばり、許しを請うとは……貴族の矜持を失くしたか?』
吐息交じりに、そっとささやく。
今にも唇が触れそうな距離に、顔を赤らめたハンフリーの瞳が微かに潤んだ。
『言い訳は、それだけか?……憐れだな、ハンフリー』
——八時を知らせる始業ベルが鳴り響く。
人も増え、登校した生徒達が皆ハンフリーに目を遣り、クスクスと笑いながら通りすぎていく。
「恋占いが当たったかはわからないけど、忌々しいハンフリーに仕返しが出来たのは最高だわ!」
ルーシェは微笑みながら、ぎゅむっとハンフリーを踏み付けて踵を返す。
始業時間の近付く校舎へと、晴れやかな気持ちで向かったのである――。
***
「さっきの子、ルーシェ・アミティエというのか」
教員室に向かう道すがら、男性は楽しそうに何かを宙へと放り投げる。
パシッと受け止めたその手の中には、先程拾ったまま、うっかり返し忘れた生徒手帳。
「アミティエ子爵令嬢。十五歳、婚約者なし」
昨年、初めて開催した小説のサイン会で、顔を真っ赤にしながら俯きがちに色紙を差し出した少女の姿が今も頭に残っている。
一瞬で心を奪われ、名前を聞くべく声をかけようとした瞬間、色紙を抱えて逃げ出してしまったため、それきりになっていた。
眼鏡をかけて変装していたこともあり、先程のルーシェの様子を見るにまったく気付いていないらしい。
「大方ハンフリーとやらも気があるのだろうが、あんな子供じみた方法では堕ちるべくもない」
表紙を破られた本は売り切れとなり、手に入れるのは難しい代物だが、作者の手元にはまだ数冊予備が残っている。
そのうち生徒手帳が無いことに気付き、教員室へと来るだろう。
先ほどの伯爵令息がいらぬ真似をしてきたら、返り討ちにできるだけの身分もある。
職も決まり私生活も順調、さらにはずっと探していた可愛い嫁候補まで見つかった。
八時の始業ベルが鳴り、学園内に静寂が戻る。
「最高の一日だな!」
力いっぱい伸びをして、ご機嫌で授業に向かう。
やっと見つけたあの日の少女……ルーシェのことで頭がいっぱいになり、すっかり忘れ去られたハンフリー。
心配になり、昼休みに様子を見に来たルーシェに発見され、やっと拘束を解かれたのは実にこの四時間後。
助けを呼ぶべく教員室に向かいざま、ルーシェがトドメとばかりに、ぎゅむッともう一踏みしたのは、――ご愛敬である。
お読みいただき、ありがとうございました。
お気に召しましたら、ブクマや下部の評価(★)をぽちりと押して応援して頂けると嬉しいです!
他にも色々小説をアップしていますので、是非ご覧ください。