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両親のいない日は静かで、一人分の生活音しかしない家は静かで。
寂しくは無かったが、退屈だった。
「ユズ、早く来ないかな」
一人で過ごす時間が長いと独り言が増える、と言ったのは誰だっただろうか。私も例に漏れずその通りだ。
それでもこの退屈がまだましな方だったのは、夜になると起きてくる友人がいてくれたお陰だろう。
「…」
椅子にもたれ、鼻で溜息をついた。今日は珍しく一人で外出したから、普段の何倍も体が疲れてしまった。
……普段はあまり外に出ない。理由は単純で、人の目が気になるからだ。私には"不登校の引きこもり"というレッテルもあるわけで、元々神経質な性格だったこの体や頭には、不登校になったその日から他人の目がやけに体に突き刺さった。そして、怖くなった。
それでも外に出た理由は、ユズに贈りたい物があったから。目当ての物は手に入ったので、外に出た甲斐はあったということだ。
ちらりとクローゼットを見る。中には、隠しておいた紙袋が入っている。サプライズなんて大層なものではないが、少し驚かせたい気持ちもあったので隠しておいたのだ。
椅子から降りてベッドに向かう。今は十八時だから、ユズが起きるまであと二時間は余裕がある。
あまりにも眠いので仮眠を取ることに決め、毛布に包まって目を閉じた。
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隣から漂う心地よい冷気を背中に感じて目を開けると、私の隣に座って静かに本を読んでいたユズと目が合った。
「あ、おはようございます。よく眠ってましたね」
「……おはよ」
ぼんやりと起き上がるが、一向に頭が覚めなかった。
「寝ますか?」
「起き……んー……んん……寝る」
「ふふ、おやすみなさい」
睡魔に耐え切れずもう一度ベッドに横になる。ユズに「おやすみ」と返し、目を閉じる。うたた寝から睡眠に移ろうとしたタイミングで何か忘れていることに気が付き、やっと思い出した。
(渡したい物があるんだった)
ガバッと起き上がると、ユズは驚いて肩を揺らす。
「ど、どうしたんですか? 寝るんじゃ……」
「いや、起きる。顔洗ってくるね。ちょっと待ってて」
「? はい」
下に降りて顔を洗うと漸く目が覚めた。そうだ。あれをユズに渡さないと。折角買ってきたんだから。
自室に戻ると、クローゼットの中から紙袋を取り出した。ユズを呼ぶと、頭に疑問符を浮かべながらやってきた。
「何ですか?」
「これ、あげる」
「え? ……へ?」
急に手渡された紙袋と私を交互に見て、数秒の沈黙の後に「えー-?!」と瞳を輝かせた。
「何ですか?! これ何ですか?!」
「開けてからのお楽しみ」
「開けて良いんですか?!」
「どうぞ」
若干震えている手でゆっくりと紙袋の封を開ける。中に入っているものを両手に広げて、目を見開いた。
「ワンピース……」
ユズの両手に掲げられた白いワンピース。好みは分からなかったので、今着ているものと似せて、半袖で膝が少し出るくらいの長さの出来るだけシンプルなものを選んだ。
「私の服が着られるなら、他のも着られるかなって思って。……気に入ってもらえるか分からないけど、一応、ユズに似合いそうなものを選んだつもり」
「…」
緊張しながら前を見る。ユズはワンピースをぎゅっと抱きしめ、笑顔を見せた。無邪気の中に向日葵の様な明るさを混ぜた、華やかな笑顔だった。
「ありがとうございます! とっても嬉しいです!」
「! ……うん。喜んでもらえて、良かった」
思わず、その笑顔に見惚れた。
(……眩しいな。眩し過ぎて……駄目だな、私)
そっと飲み込み、笑顔に隠した。
「着替えて見せてよ。飲み物取ってくるから」
「分かりました!」
水を手に戻ってくると、ユズは新しいワンピースに着替え、嬉しそうにスカートを摘まんで眺めていた。
「可愛いね。似合ってる」
声を掛けると漸く気付いたようで、頬を少し赤らめて照れながら微笑んだ。
「大切にしますね」
「うん」
(プレゼントして良かった)
頭を撫でていると、ユズが前着ていたワンピースが見当たらないことに気が付いた。
「あれ? ユズ、ワンピースは?」
「畳んで私の引き出しにしまっておいてあります」
「洗濯はしないの?」
尋ねると、「それがですね!」といきなり怒り出した。急に頭が動いたので、手を止めた。
「着る前は良い香りだったのに、着た瞬間に無臭に戻ってしまって。なんていうか……元に戻った感じがしたんですよ。なので恐らく、あのワンピースは私の体の一部なんだと思います。雨に濡れたのもきっと、私が濡れたからなのかな? と」
「じゃあ、洗濯は本来必要無かったってこと?」
「そういうことです」
「良い香りだったのに……」と落ち込みながら呟いた。
「洗濯したいなら、したら良いよ」
「え? でも」
「着る瞬間までなら香りが保つんだよね? なら着るまでは香りもそのままなんだし、必要が無くてもユズの気分が上がるなら洗濯しようよ」
「ね?」ともう一度頭を撫でると、落ち込んでいた表情がみるみるうちに明るくなり、「はい!」と笑顔になる。
首に白くて細い腕が回ったと思ったら、ぎゅっと抱き付かれた。
「私、ハルのそういうところが大好きです。優しくて、大好きです」
「…」
背中に手を回そうとして止め、下ろした。
「私、そんなに優しいかな」
「優しいですよ。とっても」
「……ユズが、そう言ってくれるなら」
今度こそ背中に手を回そうとした時、ユズが急に体を離した。驚いて咄嗟にユズの背中を抱き締めると、両腕にユズの重みが乗っかった。想像以上の軽さに更に驚いた。
「えへへ」
最初から分かっていたような確信犯は私の目をじっと見つめる。
その目が、いや体全体が。また透けていた。
「ユズ!!」
焦ってユズが消えてしまわないように強く抱き寄せると、「だ、大丈夫ですよ」と後ろから声がする。
「消えませんから。ハル、手を緩めて」
「嫌だ」
「本当に大丈夫ですから。約束したじゃないですか」
「…」
仕方なく手を緩めると、私ともう一度目を合わせる。
「まだ大丈夫ですから。見ててください」
言われた通り、目を離さずに待っていると、透けていた体は徐々に元の状態に戻っていった。「ほら」と微笑む不透明な顔に漸く安心した。
「ユズ、まだってどういうこと?」
「分かるんです。まだ消えないってことが」
少し憂いを帯びた眼差しに、『ユズはいつか消えてしまう』という変えられない事実を思い出してしまった。最近は平和すぎて少し忘れていたのに。鼻の奥にツンとした刺激が走った。
「そんなの___」
「それよりも、です!」
ユズが珍しく強引に話を逸らした。言いたいことも聞きたいことも溜まったままだが、ユズが言いたくないのなら聞けない。今までだって、聞きたいことがあっても口を噤んできたのはユズも同じなのだから、相手が話したくなったタイミングを待つしかない。
私達はそうしてぬるま湯を保ってきたのだから。
「ハルは、もっと自信を持って良いと思います」
「それは……難しいこと言うね」
「だって、私はハルの良いところを沢山知っているんですよ?」
「そんなにあるの?」
「少なくとも、両手で収まらないくらいには!」
「…」
自信満々な笑顔を浮かべるユズを抱き上げる。やっぱり、というか想像以上に軽くて難なく持ち上がったのでちょっと安心する。ユズも流石に予想外だったようで驚いて声を上げた。
「ユズ、軽いね」
「し、心臓がドキドキしてます」
「え、動いてるの?」
「冗談です」
私を見下げる黄色の瞳が楽しそうに細まった。白い髪が顔に掛かってひんやりする。
「じゃあさ」
「?」
「私の良いところを教えてよ。自分じゃ、分からないから」
「! 良いですよ!」
「ありがとう。じゃあ、先に寝支度だけ済ませてこようかな」
ベッドに下ろす途中、「また抱っこしてくださいね」とお願いされた。
「楽しかった?」
「身長が高くなったみたいで楽しかったです」
「そっか。じゃあまた抱っこしてあげる」
その後、ユズは寝るまでの間ずっと私の良いところを教え続けてくれた。
「ハルはふとした仕草が大人っぽくてかっこいいんです! 髪を耳に掛ける時の目元とか、本を読む時に偶に足を組むところとか、何かで悩んだ時にペンを回すところとか、パソコンのキーボードを早く打つ指先とか!」
「一緒に何かを読んだり見たりした時に、私が何か言うとまず共感してくれるのも良いところです! 私の感想って「面白かった」とか「かっこよかった」とか簡単なことが多いのに、ハルはそれに付け足す感じで「確かにあの人のあのシーンかっこよかったよね」って言ってくれますよね」
「自分への行動はなかなかしないのに、誰かの為の行動は早いのも良いなぁって思います。……でも、自分の為にももう少し行動してあげてほしいとは思いますけど……。線香とか本とかこのワンピースとか、サプライズで買ってきてくれたことが今でも思い出すくらい嬉しかったんですよ」
ユズの口から溢れ出す金平糖のようなキラキラした褒め言葉には、噓偽りの一切混じってない純粋なものしか無い。おまけにあんなに嬉しそうに、まるで自分が褒められているかのように話してくれるもんだから、恥ずかしさよりも嬉しさが込み上げてくる。
いつまでも聞いていたい。そう思っていたはずなのに、いつの間にか寝てしまっていた。
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その日は珍しく、いつもと違う夢を見た。
学校の教室じゃなくて、自室の扉の前。
顔の無いクラスメイトじゃなくて、後ろ姿のユズ。
騒がしいノイズ交じりの悪口じゃなくて、鳥の囀り。
息が出来ない程窮屈な空間じゃなくて、私を優しく出迎えてくれる暖かな陽光。
開放されたんだと思った。だから部屋に入った。
声を掛けると、振り返って私の名前を呼んでくれるユズの笑顔に安心した。
なのに、届かない。いつまで経っても近付けない。手を伸ばす。伸ばし返してくれる、歩いて近付く。届かない。走る。届かない。腕を伸ばす。届かない。
名前を呼ぶ。ユズの名前を呼び続ける。動いていない。私しか動いていない。なのにどうして届かないんだろうか。分からない。分からないから、上げ続けて疲れてしまった手を下ろした。
……そうしたら、ユズが消えてしまった。
シャボン玉が割れるようにふっと。キャンドルの火が消えるようにぱっと。
一瞬で薄くなって消えてしまった。
名前を呼ぶ。返事が無い。手を伸ばす。取ってくれない。
そしたらユズとの思い出が消えて、ユズの声が消えて、あの子の顔が消えて、白い何かの_____
……何だっけ。
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「___っ!!!」
目が覚めて、咄嗟に何かを掴んだ。冷たい。ユズの手を握っていた。
明るい陽光に照らされて透ける白髪と、握り返してくれる白い小さな手が見えた。
「ユ、ズ」
昨日はユズにワンピースをあげた。白いワンピース。凄く喜んでくれて……そう、今も着ている。
声。鈴が鳴るみたいに可愛くて高い声。でも耳がキンキンするような甲高い声じゃなくて、落ち着いた柔らかい高音だ。
名前はユズ。整った顔で目が宝石みたいに綺麗な黄色で、頬や鼻は照れると少し赤くなる。
(覚えてる。大丈夫。覚えてる。……最悪だ。これなら、いつもの悪夢の方がましなのに)
「ハル」
疲れ果てて仰向けに寝がえりを打つと、頭上から声が聞こえた。
目を開くと、困った顔のユズがいた。そういえば、心なしか声も不安そうだったような…………ん?
重い体を起こした。
(いや、そんなまさか)
デジタル式の目覚まし時計を手に取って時間を確認すると、午前十一時を表示していた。
「……嘘」
徐に前を見ると、ユズと目が合った。
「ハル、私……ど、どうしたら」
「…」
不安を解消してあげたいが、正直私も驚きすぎてユズに掛ける言葉が見当たらない。
外から響く騒がしい蝉の鳴き声。カーテンを開けたらきっと、焼けるような日差しに襲われるのだろう。
知らない間に、夏がやってきていた。
評価をつけて頂きありがとうございます!
とても嬉しいです。驚きで若干震えています。
これからも頑張ります。




