21
母と一緒に色んな学校を探した。
専門分野に特化した学校。
珍しい部活がある学校。
制服が自由な学校。
建物が綺麗な学校。
寮や送迎バスがある学校。
少しでも興味を持った学校のパンフレットやホームページを見て、両親と相談を重ね、選択肢を絞り、今の学校とも円満に話をつけ、あとは私がどこを選ぶか次第になった。
「じゃあ、行ってくるね」
靴を履き、爪先をコンコンと鳴らして私は後ろを振り返る。ここ最近は実際に転校先候補の学校を見に行ったりもしていたので、外出にも以前よりは抵抗が無くなっていた。
「気をつけてね」
「うん」
母の見送りに手を振って、家を出た。
今日は候補の一つである学校に実際に行ってみる日。
雰囲気の良さやその学校のカリキュラムは確認済みなので、次は登校ルートを確認するのだ。
(まず駅まで歩くのに十五分。あと、電車で十分)
歩きながらスマホで電車の時間と運賃を確認する。
(学校の最寄駅で降りて、学校までは徒歩五分。……大体三十分か)
以前より長くなった通学時間に慣れるだろうか。若干の不安を覚えながらてくてくと歩いていく。
電車に乗り込み、行き先を確認してから、暫く外の景色をぼんやりと眺める。
こうして一人で電車に乗っていると、ユズと一緒に出掛けたあの日のことを思い出す。
スマホからユズの楽しげな声が聞こえてきて、同じ景色を共有して、こっそり会話して……あの時確かに、私達は一緒に電車に乗っていた。
(楽しかったな)
手の中のスマホを、親指で優しく撫でた。
学校の最寄り駅に着くと、私はナビアプリで目的地を確認しながらゆっくりと歩き出した。
大通りを抜け、閑静な住宅街を通る。途中で、柑橘系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
(……柚子?)
思わず香りの行方を探す。斜め前の一軒家に、柚子の木が立っていた。大きな柚子の実が木に沢山なっている。
「良い匂い」
スゥッと深く息を吸った。体に爽やかな香りが入り込み、知らない地へやってきてやや緊張していた気持ちがスッと落ち着いた気がした。
(よし、あと少しだ)
ちょっとした気分転換にもなり、足取りも軽くなる。
そうしていると、あっという間に目的地である学校に着いた。
大きくて綺麗な学校だ。庭もきちんと整備されていて、校庭で体育の授業中であろう生徒の顔も明るい。和気藹々とサッカーの試合をしている姿はとても楽しそうだった。
ゴールが決まると皆でハイタッチをして、汗が滲む額を手の甲で拭う様はキラキラして見える。
(サッカーって、あんなに楽しそうだったっけ)
運動神経があまり良く無い私だったが、少しだけ、あんな風にハイタッチ出来たらな、と思った。
ふと、その中の一人の女の子がこちらを見る。バチっと目が合った気がした。慌てて目を逸らし、その場から逃げるように立ち去る。
(ふ、不審者だと思われた……! 絶対、絶対思われた!)
かぁっと顔が赤くなる。早足で逃げ続け、気付けばさっき通った住宅街の辺りまで来ていた。
このまま帰ろう。そう思い、スマホで音楽でも聴こうと鞄の中からイヤフォンを探していると、前の方でズサッという物音と、女性のものらしき小さな悲鳴が上がった。
見ると、買い物袋から色んなものを撒き散らして地面に倒れている女性がいた。
「だっ、大丈夫ですか!」
慌てて駆け寄り、立ち上がろうとする女性を気遣いながら地面に散らばる果物や魚の入ったタッパー等の食料品を拾い上げる。
「痛た……あぁ、ごめんなさい。ありがとね」
やっと上半身を起こせた女性は、慌てて自身も落とした物を拾おうとする。それを静止し、女性の鞄にそれらを入れていく。
「大丈夫です。私拾うので……って、足! 血が出てます!」
膝丈のパンツを履いた女性の膝から、血が滲んでいた。
散らばった食品の最後の一つを入れ終わると、自分の鞄からハンカチを取り出し、女性に手渡した。
「これで抑えてください。一応、使ってなくて綺麗なやつなんで」
「ありがとう」
女性はハンカチを受け取ると、そっと傷口に当てた。じわり、と少し血が滲む。
その姿を見て痛みを想像してしまい、私は思わず、僅かに顔を顰めた。
すると女性はそれに気付いたのか、にっこりと微笑んで言った。
「もう大丈夫よ。荷物もありがとうね」
「でも……」
荷物を受け取ろうと手を伸ばす女性は、未だ地面に座ったままだ。恐らく、痛くて立たないのだろう。やっぱりこのままさよならなんて駄目だと、辺りを見回した。
「あの、お家はどの辺りですか?」
「え? えっと、あそこよ」
聞くと、女性はここから三軒先の家を指差した。
(近くで良かった)
私はそっと女性に手を差し出した。
「お家まで付き添います。立てそうですか?」
「ええ、そんな……申し訳ないわ」
「傷口を押さえながらだと歩くのも大変でしょうし、気にしないでください」
「……そう、ありがとう」
少し迷って、やがて折れてくれた女性が私に手を伸ばす。それを掴んで、ぐいっと持ち上げた。
フラフラと立ち上がった女性を支えながら歩く。女性の家まで着いていくと、私は驚いた。そこは、学校に向かう途中で見た、庭に柚子の木が立っていたあの家だった。
(! あの時の)
思わぬ偶然にじっと柚子の木を眺めていると、不意に女性に話しかけられた。
「良い香りでしょう?」
「はい。とっても」
「ふふ、ありがとう。……そうだ。もし良かったら、お茶していかない? 美味しいお菓子があるんだけど、主人と二人で食べる分には多くて」
「えっ、でも……」
そこまでしてもらう程じゃ、と躊躇い目を伏せると、視線の先にはこの家の表札があった。
私は、目を見開いた。
「『真白』……」
思わず声に出る。柚子の木に、『真白』の苗字。懐かしさを感じずにはいられず、涙が滲みそうになるのをぐっと堪えた。
「? えぇ」
突然苗字を読み上げられ、女性は戸惑いながら頷いた。
「あ、ごめんなさい。あの、私の……友達と同じ苗字で」
慌てて弁解をすると、「そう」と女性は微笑む。
「珍しい苗字なのに、偶然ね」
「はい。本当に、凄い偶然……」
「ふふ。ねぇ、美味しい紅茶もあるの。貴女のハンカチもお返ししたいから、洗っている間、休憩していって?」
「どうぞ」と迎え入れるように門を開けられる。
「じゃあ……お邪魔します」
私は女性の言葉に甘えて、家の中に入った。
リビングに通され、ソファに座るよう促される。
「準備してくるから、ゆっくりしていてね」
「あの、私も手伝います。……えっと」
私の言いたいことを察したのか、「あぁ」と女性は優しい目で微笑んだ。
「私の名前は仁美。貴女は?」
「氷上 陽と言います」
「陽さんね。座って待っていてね」
リビングに通されて、ふかふかなソファに無理やり座らされる。立ち上がった私をやんわりと静止して、女性__仁美さんはキッチンに向かった。
「…」
一人取り残され、取り敢えずソファに着席する。
(知らない人の匂いがする)
なんだか落ち着かない。そわそわと視線を動かしていると、ふと、リビングの一角に置かれた仏壇に目がいった。屈託の無い笑顔を浮かべる小さな女の子が写真が飾ってある。
「……え?」
その写真を凝視したまま固まった。遠くからでよく見えないが、その子の髪は白く、誰かに似ている気がした。
(……まさか)
足元からじわじわと体温が下がっていく感覚がして、僅かに身震いする。
冷や汗が額を滑り落ち、膝の上にぽたりと落ちた。
(そんなことあるわけない)
心の中では信じていなくても、体は勝手に動いた。
(でも、もしかして)
『真白』という苗字も、彼女を彷彿とさせる庭の柚子の木も。
____偶然じゃなかったとしたら?
仏壇に置かれた写真を手に取った。幼いながらにちゃんと、面影が残っていた。
「ユズ……?」
ふと、背後でカチャンと物音がした。バッと後ろを振り返ると、ティーセットを机に置いた仁美さんと目が合った。
「どうかした?」
「…」
仁美さんの視線が私の手元に移動して、「あぁ」と目を細めた。
「私の娘よ。柚花って言うの」
「柚花……」
写真をもう一度眺めた。見間違いじゃなかった。この女の子は、ユズだ。そう認識すると、途端にこの女の子がユズに見えて仕方なくなる。
屈託のない笑顔。辛かった、苦しかったと静かに語っていたユズも、小さい頃はこんな風に笑えていたのだ。
私の知らないユズだ。でも、私の隣にいたユズだ。
(……なんだ。めちゃくちゃ近くにいたんだ……)
じわり、視界が揺れる。
「えっ、陽さん?!」
仁美さんが、静かに泣き出した私の元へ慌てて駆け寄ってくる。
「どっ、どうしたの……? なんで……。もしかして、さっき言っていた友達って、柚花のこと?」
仁美さんは困惑と疑いの表情を私に向けながら、そっと優しく背中を摩る。
「…」
私は、否定も肯定も出来ずに俯いて黙ってしまった。
それを肯定と受け取った仁美さんは、「そうだったのね」と悲しみを交えた微笑で呟くと、私の背中を再度優しく摩った。
その温かさに少し落ち着いて、私はゆっくり息を整えた。
(ユズのこと……知りたい。もっと、全部知りたい)
私は俯いていた顔を上げる。
「……あのっ!」
「?」
「ユズ……かさんの部屋に入らせて貰えないでしょうか。……お願いします。どうか、お願いします」
深々と頭を下げた。すると、仁美さんはずっと背中を摩ってくれていた手を私の肩に置いた。ぱっと顔を上げると、仁美さんは不安で体を縮こませる私を優しく包み込むような笑顔で頷いてくれた。
「……えぇ、勿論。案内するわ」
「……ありがとうございます」
涙を拭い、二階へと続く階段を上がる仁美さんの後を付いていく。仁美さんは、階段を上った先にある長い廊下の一番奥、二階にある部屋の中で唯一の、白い扉の前で立ち止まった。
「ここよ」
「……失礼、します」
どうぞと促され、私は緊張で手汗が滲む手でドアノブを掴んで捻り、ユズの部屋へ入った。
ふわり、と爽やかな香りがした。
窓が開いている。庭の柚子の木の香りが、風と共に部屋に入り込んだのだろう。
「好きに見て良いから。下で待っているから、落ち着いたら降りてきてね」
仁美さんへ頭を下げた。扉が静かに閉められ、室内は遠くから聞こえる鳥の囀りと、温かな陽の光に包まれた。
ゆっくりと室内を見て回る。ふっと、机の上に目がいった。使いかけの文房具と、端に寄せて重ねられたノートや教科書、カチカチと時を刻む卓上時計に、ブックエンドに立て掛けられた数冊の参考書。
ユズが過ごしていた状態のまま置かれているらしいが、丁寧に掃除されているようでどれ一つとして埃を被っていなかった。
ノートを手に取った。中を開くと、小さくて綺麗な文字が行の途中で止まっていた。
(こういう字を書くんだね)
パラパラとページを捲ると、可愛いタッチで描かれたうさぎとくまの、結構大きめの落書きが現れた。
と、思ったら次のページにも、次のページにも、端っこにカエルや猫や可愛い女の子等の小さな落書きが転々と描かれていた。
「飽きるのが早過ぎだよ」
勉強よりも落書きのクオリティに拘っていそうなノートに、思わずクスクスと笑ってしまう。
椅子を引き、そこに座る。机に腕を乗せて重ね、その上に頭を横向きに下ろした。
この部屋でユズがどう過ごしていたのか、想像してみた。
「……分かんないなぁ」
私は死後のユズしか知らない。生前の柚花のことなんて、分かる訳がない。
ふと、ユズが生前の話をしてくれた時のことを思い出した。"存外呆気なく死んだ"と言った彼女の表情は暗く静かで、無に近いものだった。それは初めて見た顔であり、私はあの時一瞬だけ、ユズが知らない人に見えたのだ。
もしあの時のユズが、生前の柚花の一片だとしたら。
私と過ごしていたあの時間は、本当にユズにとって最大の幸福と言って間違いないのだろう。
(そう思いたい。……思って良いよね、ユズ)
「……会いたいな」
ぼそりと呟くと、不意に後ろで小さな物音がした。驚いてそちらを振り返ると、クローゼットの扉が僅かに開いていた。
「え? え、どうして」
クローゼットの扉が開くほどの風なんて吹いていないし、というか外開きのクローゼットが開くわけがない。
なんとなく、ゾクリと寒気に襲われた。それと同時に、遠慮して開けなかったクローゼットの中を見たくなった。
(見たい。見て……良いかな。ごめん、ユズ!)
恐る恐るクローゼットに近付き、半開きの扉に手を掛けて中を覗き込む。
掛かっている洋服は少なかった。元々持っている数が少なかったのか、仁美さんが片付けたのかは分からない。
そして驚くことに、黒色の洋服が多かった。というか、ほぼ黒しかない。
(自分のクローゼットを見てるみたい。あれ、でも……じゃあ)
ふと、ユズに贈った白いワンピースのことを思い出した。
(黒の方が良かったかな)
一瞬そう思ったが、すぐにそんな事ないと首を横に振った。
だって、あんなに喜んでくれたのだから。
洋服を眺めていてふと、目が止まった。黒色の洋服の中に、埋もれていても一際目立つ白色の制服があった。
思わず手に取る。この制服は、今日私が向かったあの学校のものだ。
(ユズも、あそこに通ってたんだ)
思わず制服を抱き締めた。思わぬところでユズとの共通点が見つかったのだ。
(……行きたい。私も、あの学校に)
なんだか、ユズに背中を押されたような気がした。
(ありがとう、ユズ)
決意を固め、クローゼットにそっと制服を戻した。
「またね」
最後にぐるっと部屋を見渡し、そこにいるかもしれないユズに声を掛けてから部屋を出た。
下に降りると、仁美さんは紅茶を飲みながら窓の外をぼんやりと眺めていた。
そして私に気が付くと、にこりと微笑んだ。
「柚花と話は出来た?」
「はい。ありがとうございました」
「それは良かった」
深々と頭を下げると、仁美さんに「座って」と手招きされる。
「これ、ありがとうね。お返しするわ」
椅子に座ると、まずすっかり乾いた私のハンカチを返された。その後に、湯気が立つ紅茶を置かれた。
「あのね。貴方に会って私、久しぶりに柚花のことを思い出せたの。……少しだけ、思い出話に付き合ってくれないかしら」
私が頷いて返すと、仁美さんは「ありがとう」と微笑み、目を伏せ、そっとティーカップの蓋を撫でた。
「あの子はね、凄く慎重な子なの。……いえ、私が慎重な子に育ててしまったんだわ。あの子がアルビノだと分かって、私が何としても守らなくちゃって思って。きっとそれがあの子にも伝わってしまったのね。最初は活発で、何も恐れずに走っていくような子だったのに、私が心配して制限をかけて、そのせいでいつの間にか、一人じゃ動けない子になってしまった」
仁美さんはちらりと棚に目をやった。私も釣られて目線をやると、棚の上には割れたサングラスと、あの高校の制服を着て、若干ぎこちないが精一杯の明るい笑顔でピースサインを作るユズの写真が置いてあった。
「でも、高校生になってあの子は変わった。以前のように明るくなって、笑顔も増えて。私も、それが凄く嬉しくて。……きっと、学校で良い出会いがあったんだわ」
そこまで言い切ると、仁美さんは顔を上げた。そして私と目を合わせて、少し目尻に涙を滲ませて笑った。
「貴女のお陰ね。ありがとう」
それを聞いた瞬間、体の内側から何かが溢れ出す気がした。実際、涙もまた溢れてきた。
……嬉しかった。でも、違う。仁美さんは勘違いをしている。
やっぱり話さないといけない。そう思った。
また泣き出した私に、仁美さんは再度「ありがとうね」と呟いてハンカチを差し出した。
「……ごめんなさい。違うんです」
「?」
「私、ユズの学校の友達じゃありません」
「……どういうこと?」
「死んでから。私は、ユズが死んだ後に出会ったんです」
途端に怪訝な顔になる仁美さんに、私は嗚咽混じりになりながらユズと出会った経緯を簡単に説明した。
仁美さんは依然疑いの目を私に向けたまま、それでも最後まで話を聞いてくれた。
そうして一通り話し終えると、仁美さんは黙って俯き、考え込んでしまった。
私はその沈黙が耐えられず、「ごめんなさい」と呟き去ろうとした。
「待って、陽さん」
「……っ」
はっきりと呼び止められ、足が止まる。体に固く力が入り、鞄の紐を強く握りしめた。
何を言われるだろうか。怖くて堪らなかった。
「とりあえず、座って?」
「…」
「一旦落ち着きましょう。そんな顔じゃ帰すに帰せないわ」
「……はい」
ズビズビと鼻を啜りながら、今すぐこの場から去りたいのを我慢して仁美さんが考え終わるのを待っていた。
ふぅっと大きく息を吐いたところで、微笑を浮かべた仁美さんに声を掛けられた。
「……落ち着いた?」
「……はい」
それは確認の意味もあったのだろう。そのまま、仁美さんはゆっくりと口を開いた。
「貴女が言ったことは、まだ完全に理解できていないんだけど……。でも、貴女の話す『ユズ』さんは、私が知る小さい頃の『柚花』に似ていて、驚いたわ。きっと貴女の傍にいるユズさんは、……幸せだったんでしょうね」
最後にそう呟いた仁美さんの声が落ち込んでいるように聞こえた。
私は思わず顔を上げる。仁美さんは寂しそうな顔からすぐに表情を微笑に戻し、私と視線を交わした。
「ごめんなさい。独り言よ」
仁美さんに、何か言わなければと思った。
ユズをまるで不幸せな子だと言っているようなその呟きに、胸の奥がキンと冷たくなるようなそんな感覚に襲われた。
「……幸せでした。私の方が、ユズに沢山幸せを貰いました」
何を言っても薄っぺらくなりそうで、私にはそれを言うので精一杯だった。
するとそれを聞いた仁美さんは、きっと何度もそうしてきたであろう愛想笑いを浮かべて、「ありがとう」と言った。
「……そろそろ、帰ります」
沈黙が訪れる気配を察知して、気まずくならないように帰宅を切り出した。
「ありがとうございました」と頭を下げ、踵を返す。
「陽さん。少し、玄関で待っていて」
「え?」
「すぐ戻るから」
そう言ってパタパタと急いで階段を上っていく仁美さんに首を傾げつつ、言われた通り玄関へ向かった。
ゆっくりめで靴を履き、立ち上がったところで二階から再び足音が聞こえてくる。
「ごめんなさいね、これを貴女に渡したくて。はい」
そう言って手渡された紙袋を覗き込むと、中にはユズの部屋のクローゼットに仕舞われていたあの白い制服が入っていた。
「?! う、受け取れません! こんなっ、大切な物……!」
ぐいっと突き返した手を、仁美さんはやんわりと、しかしそれなりに強い力で押し返した。
「お願い。貴女に着て欲しいの」
「着てって、言われても……」
言いながら、仁美さんの言葉に疑問を覚えた。
「……ごめんなさい。陽さんが柚花の部屋にいる時に、貴女の鞄が倒れて。その時に、中身が見えてしまったの」
気まずそうに髪を耳に掛かる仁美さんは、「でも」と続ける。
「貴女なら、譲っても良いと思った。サイズはそんなに変わらないと思うから、どうか貰って」
「……分かり、ました」
紙袋を持つ手を両手で覆われながらそう言われては、断るに断れない。それでも、形見と言っても申し分ないくらいの品を渡されたことに気が引けてしまう。
そんなことを思っていると、仁美さんは「そうだ」とキッチンから持ってきた袋を手に私より先に外に出てしまった。
慌てて追いかけると、仁美さんは園芸用の鋏を手に柚子の木の前に立っていた。綺麗そうな柚子の実を一つ選び、パチンと枝を切ってこちらに戻ってくる。
「良かったら、これも持っていって」
大きな柚子の実を袋に入れ、それも手渡された。
「柚花もこの木がお気に入りだったの。私と同じ名前、しかも綺麗で良い匂いって。私も柚花を思い出すから、好きなのよ」
「……ありがとうございます」
袋を受け取り、そっと匂いを嗅いだ。行きに風に乗って飛んできた時と違い、香りが鼻腔に直接染み込んでくる。
(強い香り)
「また来てね」
パッと顔を上げた。仁美さんは笑顔のままにこちらを見ていた。
「……はい。また来ます、絶対」
最後に深々と頭を下げ、ユズの家を出た。
帰りの電車に揺られながら、私はもう一度紙袋の中を覗き込む。もうすっかり柚子の香りが袋内に充満していた。帰る頃にはユズの制服にも匂いが移っていることだろう。
(……今日は、濃い一日だったな)
気持ちが落ち着いたら、今度はユズの仏壇に線香を立てに行こう。ユズの好きだった種類を全部持っていって、そして、ちゃんと『ありがとう』と『またね』を伝えよう。
前に進むんだ。私も。
ユズの制服を両手に抱き締め、電車を降りた。
階段を降りて、最寄駅の出口へ向かう。
(家に帰ったら、お母さんに話さないと)
そんな風にぼんやりと考えながら歩いていた。
____突然、体が真横に吹っ飛ばされた。
(え、っ)
重力が横になったかのような感覚と、一瞬消える意識と、体が勝手に地面をゴロゴロと転がる衝撃。
甲高い急ブレーキの音が止んで、やがて周りが控えめにざわざわと騒ぎ始める。
全身の鈍い痛みと共に、自分が車に轢かれたのだという事実に気付いたのは一番最後のことだった。
(なん……どう、して……)
体に力を込めてなんとか顔を上げるも、すぐに力尽きて倒れてしまう。ピチャッと水が顔に跳ね返ってきた。……いや、違う。赤い? 血だ。誰の?
(……わた、し?)
伏せったまま、手と地面を見る。どちらも真っ赤に濡れていて、地面にはどんどん血の水溜まりが広がっていく様が見えた。
今になって漸く、頭が熱く、重いことに気がついた。
自分がどうなっているのかさっぱり分からない。体も動かない。力が抜けていく。……大丈夫なのかな、これ。
運転手らしい人がこちらに駆け寄り、私を見てぐっと歯を噛み締めた。何か声を掛けてくれているらしいが、何も聞こえない。すると直ぐに携帯を取り出して、どこかに電話を掛けていた。
視線が私から外れた。不安が、体を覆っていく。
(わたし、どうなってるんですか)
口を開く。
(ねぇ、どうなって)
声が出ていない。それでも、ぱくぱくと口を動かす。
(わたし、どうなるの? しぬ? こわい。いやだ。だれか、だれか……ゆず……)
はっと思い出した。紙袋が無い。
目を動かして、紙袋から放り出されて地面に転がっている制服を頭上に見つけた。
縋るような思いで手を伸ばした。無理やり腕を動かして、指先だけでなんとかそれを掴んだ。
ユズが言っていたことを思い出した。
……怖いね。怖くて、堪らない。
視界に映る白い制服が滲んでいく。そのまま暗くなって、次に、真っ白になった。
____これは、幻覚なのかもしれない。
目の前にユズが立っている。そして、動けなかったはずの私も立てている。
ユズは声を上げて泣きじゃくっていた。両目を何度も何度も手で拭いながら、何かを呟いていた。
一歩近づくと、それは鮮明に聞こえてきた。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……。私、そんなつもりじゃなかったのに……だって……だって……」
誰に謝っているのだろうか。分からないけど、随分とおかしな幻覚だ。だってこれは、私が思い浮かべるユズじゃない。
「ユズ」
試しに、声を掛けてみた。ピタリとユズは動きを止めた。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「ハル……ごめんなさいぃ……!」
「?!」
ユズは私の顔を見た途端膝と片手を地面につき、そしてまた泣き出した。慌てて駆け寄り、しゃがんで、ユズの肩に触れた。
あれ、触れる。……幻覚じゃない?
いや、でも現実な訳がない。自由に動けている自分を見て考えを改めた。
これは幻覚か、はたまた走馬灯に近いものか。
もはやどっちだって良い。どうせ最期に見る夢なのだ。なら、ユズの笑顔が見たい。
ユズの肩から手を離し、代わりに涙を拭う手を掴んで顔から離す。
抵抗もせず延々と泣き続けるユズの唇に、自身のを重ねた。
「…」
ゆっくりと離す。しかし、ユズは泣き止まない。
鼻をスンスンと啜るユズの頬に手を当て、もう一度唇を重ねる。角度を変えて、更にもう一度。
ユズの口から吐息が漏れた。その拍子に、閉じたままのユズの目から涙が一滴滑り落ちる。
私はそれを頬に当てた手の指の腹で優しく拭って、瞼にもキスを落とす。その次は頬に、そしてまた唇に。
漸く、ユズの瞳に私が映った。
「……久しぶり、ユズ」
顔を離し、久しぶりに触るユズの頬の感触を確かめるように撫でながら声を掛ける。
しかし、ユズからの返答は無い。まだじんわりと目尻に涙を浮かべたまま、そっと目を伏せた。
私はそれを拭い、ユズを抱き寄せて腕の中に包む。
「会いたかった。ずっと」
そう伝えるとユズは腕の中で僅かに震え出し、また啜り泣く声が肩越しに聞こえてくる。
「……私に、会いたくなかった?」
ユズは首を横に振る。
「じゃあ、どうして泣いてるの」
赤ちゃんを寝かしつけるように優しく、ユズの背中をポンポンと優しく叩き、摩る。それが効いたのか、啜り泣く声が徐々に落ち着いてくる。
まだ完全に落ち着かない内に、漸くユズは口を開いた。
「……痛かった、ですよね」
「? あ、あぁ。……見てた?」
なんのことかと首を傾げ、やがて交通事故のことを思い出す。
「ごめんなさい」
「なんでユズが謝るの」
「……あれ、私なの」
「え?」
「私が、やったの……」
ピタリと、ユズの背中を摩る手が止まる。それをきっかけに、ユズの震えが強くなった。
「だって、嬉しくて……ハルが、まさか私の家まで来てくれるなんて。私、ずっとここから見てました。貴女が私を想う度、思い出す度、想い馳せる度、胸がぎゅっと締め付けられて、会いたくて、触れたくて、気付いて欲しくて……」
言いながら、ユズは私を押し倒した。私の胸に顔を埋めたまま、ユズは震え続けていた。
「…」
口を挟む隙も無かった。しかし、ユズが真っ黒になったあの時のことを思い出すとなんとなく理解出来てしまった為、今更聞く必要も無いと思った。
呼ばせてしまったのだ、私が。ユズが消えたあの時、連れて行ってと懇願した私をぐっと我慢をして拒絶したというのに。
「……ごめんね、我慢出来なくて」
ユズは首を横に振る。私は、そんなユズを再び、今度は少し強めに抱き締めた。そのまま横に倒れ、お互いに向き合いながら寝転がる。
「でもね、もう、良いよ」
「……へ」
少し冷たく聞こえてしまったのだろうか。不安な顔のユズと目が合った。
私は軽く笑って、ユズの額に自身の額を合わせて目を閉じる。
「私も、ユズがいない生活は辛かったから。死んだ時の痛みと孤独よりずっと、ここでユズに会えた嬉しさと安心感の方が大きかったよ」
額からユズの冷気が伝わってくる。その感覚を私がどれほど愛していたか、あの頃の私は知らなかった。
「だから、もう決めた。ねぇ、今度はちゃんと約束守ってよ。一緒にいようよ」
ユズも目を閉じる。震える声で、小さく呟いた。
「……良いの?」
「うん、良いよ」
私が目を開けると、同時にユズも目を開けた。
ぱちっと視線が噛み合う。一瞬、お互いに時が止まったように固まったことが少しおかしく思えてクスリと笑うと、釣られてユズも笑った。
そのまま少し笑い続けて、やがて私達は再び目を閉じた。
(神様、どうか)
こつんと額を合わせた。その時、初めて私は無意識に、ずっと信じてもいなかった神様に願っていた。
(どうか、お願いします)
真っ白い不思議な空間で心から愛している人と一緒にいられて、そんな何もかもが夢のようで、頭がふわふわと浮かされているのかもしれない。
(このままでいさせてください。転生とか、そんなもの無くていいです。私はきっと、ユズを見つけられないから。離れ離れになってしまうから。だから、このままで良いです。どうか、どうか)
もう離さまいと、ユズの手を強く握った。すると、ユズも握り返してくれた。
もう、大丈夫。漸くそう思えて、ハルは小さく笑みを浮かべたのだった。
最後まで読んで頂き本当にありがとうございました。そして、最終話を書き終えるまでにこれほど長く時間をかけてしまい申し訳ありませんでした。ブックマークを継続してくれていた皆様の優しさを勝手ながら支えにさせて頂き、なんとか書き切ることが出来ました。
蛇足になってしまうかもしれませんが、キャラクターについての解説や裏話などを少しだけ書きましたので、後程投稿しようと思っています。
ご興味があれば是非、ご覧下さい。




