15
「お邪魔します」と緊張しながら呟いた彼女は、脱いだ靴を揃えてから玄関に上がった。
「あっ。わ、私何も持ってきてない……」
「……別に良いよ。今は私だけだから」
「そっか。……陽ちゃんだけなんだ」
母親が映画を見に行ってくれてて良かったと思うと同時に、私もついて行けば良かったと後悔した。
彼女をリビングのダイニングテーブルの方へ案内し、「着替えてくるから少し待ってて」と二階へ上がる。
顔を洗い、簡単に着替え、髪を整える。憂鬱な気分でリビングへ行くと、不安そうにそわそわしていた彼女が顔を上げた。
「ご、ごめんね。急に来て」
「……ん」
冷蔵庫から取り出した麦茶を二つのコップに注ぐ。
「どうぞ」
「あっ、ありがとう! 喉乾いてて」
一気にコップの半分まで麦茶を飲み干し、嬉しそうな笑顔で私を見て、止まった。俯いている私の暗い瞳を見てそっと目を伏せた。
「……あのね、私……」
言葉に詰まるのか、そこで黙ってしまった。
「私、あの時……陽ちゃんの手を払っちゃったこと、ずっと謝りたいと思ってて。誤解も、解きたかった」
緊張で声を震わせながら、彼女はコップを持つ手に力を入れた。
「誤解……?」
「うん。あの時はその、まだ戸惑ってて。陽ちゃんが告白してくれたことが凄く嬉しかったのに、一人でぐるぐる考えちゃって……つい」
「ごめんなさい」と頭を下げられた。
「実はあの後、インフルエンザに罹っちゃったんだ。だから、学校に行けなかったから知らなかったんだけど、友達から陽ちゃんが不登校だって聞いて、『私の所為だ』って」
「…」
「私があんな態度のまま、告白の返事もしないで学校を休んだからだよね。ごめん、ずっと勇気が出なくて。でも私、ちゃんと返事するから。だから、そしたらまた、学校に来てくれる?」
「…………は?」
思わず耳を疑った。目の前に座っている人が、何を言っているのか信じられなかった。
「何……言ってんの」
「私ね、陽ちゃんのことが___」
「ちょっ……ちょっと、待ってよ」
「えっ?」
「何も、聞いてないの?」
私がされたこと。言われたこと。謂れの無い噂まで立てられて、どんな思いで今まで過ごしてきたのかを、まさか。まさか、この子は___
「……?」
彼女は、分からないというように首を傾げた。
「………は、」
喉の奥が糊でくっついたような感覚がして、閉じた喉からやっと出せた声は一音だけだった。しかもほぼ吐息みたいなものだ。何か悍ましいものと対峙しているかのように感じて、冷や汗が首を滑り落ちていった。
(あぁ、そうか。この子は、何も知らないのか)
素敵な友人に囲まれて、幸せな学校生活を送って。
守られて、遮られて。ヘラヘラと、能天気に。
(……ああ)
最悪な気分だ。
「……帰って」
「へっ? でもっ」
「帰って」
ピシャリと告げられた言葉に、彼女の肩がビクッと揺れる。
「は、陽ちゃん」
「あのさ、私達名前で呼び合うほど仲良くないよね」
「えぁ、でも、あの」
「それに、タメ口で話すほど仲良くもない。……プリントはもう良いよ。自分で勉強するから。それに、どうせ私、退学だろうし」
「でも、でも私、陽ちゃんと一緒に学校に通いたくて」
「っそもそも!」
夢物語を語る彼女に苛立ち、拳を机に振り下ろした。鈍い音が鳴り、また彼女は肩を揺らす。
「虐められてた場所にまた行ける程、私は蛮勇じゃない」
「! え……いじ、め?」
「…」
(いらいらする)
「……もう、良いよ。何も知らないんなら、知らないままでいれば良い。優しい友達に守られていれば良い。
ただ、私を巻き込まないで。そっちで勝手にやってて。私はあそこから追い出されたんだから、もう居場所なんて無い。あなたの傲慢な夢に付き合わせようとしないで」
「だから帰って」と突き放すように言い、前を見ると、彼女の目から涙がポロポロと落ちていてギョッとする。
「……っごめんなさい」
(……何、やめて、やめろよ)
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
(お前が泣いたら、私が……加害者になるだろ)
泣きながら頻りに謝罪の言葉を述べる彼女を見ていると、私が謝らなきゃいけないような感覚になる。私は悪く無いのに。先に泣いておけば良かった。そうしたら私が被害者になれたのに。
(なんで私が、こんな目に遭わないといけないんだよ)
じわりと目尻に涙が滲んだ。泣いたら負けだと思っていても、目の前の無慈悲な光景が涙腺を刺激してくる。
(お前が、悪いんだろ)
収まりきらなかった涙が下瞼を流れ落ちた時、部屋の中を異様な冷気が包んだ。
エアコンで調整された丁度良い温度が一変して、背筋が凍りそうになるような、ここにいてはいけないと体が警告するような、そんな冷気だった。
「……ユズ」
私はこの冷気を知っている。でも、いつもの冷気とは違う。
嫌な予感がした。彼女も泣き止み、寒さか恐怖か、はたまたどちらもかは分からないが、二の腕を摩りながら小刻みに震えていた。
『許さない』
ユズの呟きが聞こえてきた。それもいつもと違って、憎悪のこもった声だった。
「え? え?」と戸惑う彼女には目もくれず、後ろを振り返る。ユズの姿は見えない。不安が冷や汗となって額を伝って落ちていく。
嫌な予感がするのだ。多分、ユズは怒っている。
でも、何に怒っているのかが分からない。ただ、このままだと何かいけないことが起こる気がして猛烈に怖くなった。
「ヒッ……」
小さな悲鳴が聞こえてきた。声のした方を振り返ると、彼女の首を、白くて細い手が掴んでいた。
瞬きのために一瞬、目を閉じた。そして開くと、彼女が消えていた。
「……え? え? 花崎さん?」
何が起きたのか分からず困惑していると、二階から僅かに声が聞こえてきた。
慌てて階段を駆け上がる。発声源に近づくにつれ、それが彼女の呻き声だと分かった。そして発声源は、私の部屋だった。
「花崎さん!」
階段を駆け上がった勢いのまま扉を開ける。すると、部屋の中央で膝をつき、背中を丸め、頭を押さえながら呻く彼女がいた。
「?! 花崎さん! 花崎さん!!」
肩を揺すり、名前を呼ぶと、涙に濡れ、恐怖に満ちた目をした彼女はふっと意識を手放した。再度名前を呼ぶが、彼女はピクリとも動かない。急いで口元に手を当て、呼吸をしていることを確認すると、そっと床に寝かせた。
「……ユズ、なの?」
視界の端に、白い足が見えていた。しかし、目の前にいるユズは私の知っているユズじゃなかった。
墨汁に浸したように真っ暗な髪。サラサラで綺麗だったはずの髪はバサバサになっていて、宝石みたいに煌めいていた黄色の瞳も、血のようにドス黒い赤色に変わっていた。まるで別人のような風貌だった。
ユズは私の言葉には応答せず、床に倒れる彼女を睨みつける。彼女に近寄ろうとしたので、二人の間に割り込んだ。
「良いよ、ユズ。もう良い。充分だよ。だから、もうやめて」
「…」
ユズは私を見た。それから、床に倒れる彼女を見た。
「…」
そして、自分の手をじっと眺めた。
「そっか……」
顔を上げたユズは、泣きそうな顔を無理矢理笑顔に変えていた。黒い髪が白く、赤い瞳が黄色く、ユズは徐々に元の姿に戻っていった。
「私、悪霊になっちゃったんですね」
「……ユズ!!」
反射的にユズに手を伸ばした。力が抜けて膝をついたユズに覆い被さるように私も膝をついて、やるせない気持ちに押し潰されそうになりながら、まるでしがみつくように抱き締めた。
「……気付かなかったんです。いいえ、気付かないふりをしてた、だけかも。私じゃない何かのこと。今思えばきっと、これが未練だったんでしょうね」
諦めと、何かを悟った声。私は何も言えない。私の、まだまだ発展途上の脳では何て返すのが正解かなんて分からない。
「私、ハルのことが大好きです。それで、あの子のことが大嫌いです。私の大好きなハルを傷付けたから。許せないんです。どうしても、許せなくて」
ユズは、私の背中に腕を回した。服越しでもユズの手が震えているのが伝わってきた。
「……怖いんです。ハルのことを大好きな私が怖い。私ね、多分、あの子のことを呪い殺すことが出来るんです。心を壊して、死へ誘うことが出来るようになっちゃったんです。だから怖いんです。凄く怖い。いつかきっと、私はハルのことも___」
「そんな、ことっ……」
「あるんです!!」
「っ!」
「ハルのことを好きになる度に、自分じゃない何かに飲まれそうになる! きっと、きっとこれからも! 怖いっ……ハルが死んじゃう! 死んじゃう……! 私のせいで! ……私が!!」
ギリッと背中に爪が刺さる。針に刺されるような痛みに奥歯を噛み締めたが、態度には出さないように耐えた。
「……嫌だ………」
やがて脱力し、背中に突き立てていた爪が離れた。
「悪霊になんて、なりたくなかった……」
左肩が濡れていく。ユズの背中を撫でながら、己の無力さに私も泣きそうになった。
「ごめん……ユズ、ごめん」
思い返せば、私はいつも謝ってばかりだ。勿論、自分が悪いと思っている。だから先に謝る。でもきっと、心のどこかで謝れば済むと思っている。謝ればそれで話が終わるから、他に色々考えなくて良いなんて考えて……これじゃあ、彼女と同じじゃないか。
「……ごめん」
体を離して、ユズの顔を正面から見る。涙で濡れた頬を服の袖で拭って、また涙が落ちてくるから拭って。
「ハル」
ユズは、私の手を掴んだ。それを両手で大事に包み込んで、まるで許しを乞う祈りのように「好き」と呟いた。
「……あなたのことが好きです。大好き。大好き。受け入れてください。お願い、私を受け入れて」
私を見上げる目が、不安そうに揺れている。涙に濡れて、輝いた目に絡め取られる。
逃げられない、と本能的に思った。背筋が凍るほど美しい目の前の光景に、目が奪われて離れない。
「……私も。私も、ユズが好き」
ユズは冷静じゃない。きっと私も、冷静じゃない。
「部屋に一人でいると、話し相手を探すようになった。孤独を一層感じるようになった。夜が長く感じるようになった。……私もう、一人が耐えられなくなっちゃった。ユズの所為だよ」
ユズの涙を、空いている方の手で拭う。
「……嬉しい」
恍惚とした笑顔を浮かべ、ユズは私の首に抱き付いた。
「ハル、私のハル。もう離さないでください」
「……離れないよ」
優しく頭を撫でる。満足そうな声を聞いてから、床に寝かせたままの彼女に目をやった。
「ねぇユズ」
「何ですか?」
「あの子に何したの?」
「内緒です。知られたらきっと、ハルに嫌われちゃう」
「じゃあ、聞かない。代わりにお願い聞いて」
「何ですか?」
「あの子からその記憶を消してあげて。やれるのか分からないけれど」
「何で?」
「そのことは忘れてくれた方が、私にとっても助かるから」
「……なら、聞いてあげます」
「ありがとう」
やや不満げに鼻で溜息をついたユズを宥め、彼女に帰ってもらうために一旦隠れてもらう。
彼女の顔を覗き込むと、顔色が落ち着いていた。
「花崎さん、花崎さん」
肩を揺すって、声を掛ける。
やがてぼんやりと目が開き始め、私の顔を見るとわっと胸に飛び込んできた。
「陽ちゃん、陽ちゃん……! こわ、こ、怖い……怖いよ……!」
「花崎さん、落ち着いて。どうしたの?」
彼女は私を見上げ、私の冷静な目を見ると少し落ち着きを取り戻した。
「あ……えっ、と……何か、怖いことがあったの。……多分」
「怖い夢でも見たの?」
「夢……夢? 多分そう、なのかな。ごめんね、凄いリアルな夢だったから」
「良いよ。花崎さんが疲れた顔してたから一旦休んでもらおうと思ったんだけど、余計なことしたかな」
「ううん。ありがとう。それで、あの」
「じゃあ、帰った方が良いよ」
「え? でも、陽ちゃ」
「花崎さん。もう、帰った方が良いよ」
「あ……! ま、待って!」
彼女は、離れようとしていた私の手を掴んだ。
「お願い、最後に一つだけ。一つだけ、聞かせて……」
「……何?」
「……私のこと、もう嫌い?」
声を震わせながら、そう聞かれた。真剣な目だった。きっと、本当にこれで最後なのだろう。そう思わせる雰囲気があった。
だから、これが最後なら、真面目に答えるべきだと思った。
「…」
私は彼女と向き合って、きちんと目を合わせた。
「花崎さんのこと、今はもう嫌い。あなたのせいで散々な目に遭ったし、多分一生消えることがない傷を負わされたから」
「…」
「……でも、好きだったよ。あの頃は、花崎さんのことを一生幸せにするつもりで、本当に好きだった」
「……! そっか……」
彼女は目に涙を溜めながら、「そっかぁ」と呟いた。
涙が零れ落ち、彼女はそれを手で拭いながら「ごめんね」と小さな声で言った。私は肯定も否定もせず、彼女が落ち着くのを黙って見守った。
やがて彼女は強く目を擦り、擦って赤くなった目で笑みを浮かべた。
「……ありがとう。好きになってくれて」
私は目を伏せて、「うん」と答えた。
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「じゃあ私、帰るね。ごめんね、迷惑かけて」
彼女を落ち着かせてからリビングに戻ると、自分の荷物を取って直ぐに玄関に向かった。靴を履くと、ぎこちない笑顔で私を振り返り、「じゃあね」と扉を開けて出て行った。
「……さよなら」
扉が閉まるのと同時に呟いた。それからリビングに戻ると、机の上に分厚いプリントの束が置かれていた。
(置いてったのか)
試しにそれを手に取った。ずしんと両腕に重みが乗る。
(……こんな重いのを、わざわざ持ってきたんだ)
いじめについて、私はきっかけを作った彼女を許すことはない。
それでも、今日ここにやってきた彼女の善意については、素直に受け取ることにした。
【祝】とうとう二人が付き合いました。
花崎さん目線の話もいずれ書こうと思っているので、興味が湧いたら読んで頂けると嬉しいです。




