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※今回はハルの過去について書かれています。
掌にキスをされたあの日から、変わったことが三つある。
一つ目。ユズの目を見て話せなくなった。
二つ目。それに比例するようにユズのスキンシップが増えた。
そして三つ目。以前は何も感じなかったのに、ユズに気まずさを感じるようになった。
『早く、良くなると良いですね』
頭の中で事あるごとに再生されるあの言葉。光景。感触。
あの日のことが忘れられないのだ。友達が、友達じゃなくなってしまった日のことだから。
ユズのスキンシップに私への好意を感じる。視線にも、声にも、会話にも、表情にも。
それを私は、もう素直に受け取ることが出来なくなっていた。だから辛くて、ユズと同じ部屋にいるのが気まずくなって、逃げるように家を飛び出した。
家から遠ざかろうとひたすら走った。半年以上引きこもっていた体は直ぐに限界を迎えたが、それでも走った。
『気持ち悪い』
頭に声が響く。
『気持ち悪い』
汚物でも見るかのような目で言われた言葉。それから毎夜囁かれるようになった呪いの言葉。
『気持ち悪い』
私は異物で、異物は取り除かれてしまうものだから。だから、取り除かれてしまったんだろう。
「……うぇっ」
とうとう足が上がらなくなって、徐々に速度を落としながらやがて足を止めた。体内の酸素が足りないせいで吐き気まで催し、咳き込みながら息を整えた。胸が破裂するんじゃないかと思う程煩く響く心臓と、次から次に吹き出す汗が目に入りそうになる。
(……なんで私、こんな風になってるんだろ)
目元に落ちてきた汗を袖で拭い取った。
「!」
耳を劈くようなブレーキ音が響く。慌てて前を見ると、自転車から迷惑そうな顔でこちらを睨む男性が通り過ぎて行った。それを見送って、ふらつく足で近くの電柱に寄り、もたれかかった。
「なんで……」
(あの子が、好きだっただけなのに)
誰かを好きになるということは素晴らしいことだ。とりあえず祝福され、喜ばれ、応援される。
でもそれは、あくまでも異性を好きになった場合のみの話だ。
だから私は、祝福されなかった。
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いつからかはよく覚えていない。気付いたら目に入るようになって、やがて奪われた。
同じクラスだった彼女は、誰からも好かれる子だった。
悪口を言わず、差別をせず、偏見を持たず、誰に対しても優しさを含んだ丁寧な対応をしていた。人当たりの良さで言えば完璧な人だった。そんな彼女の事を嫌いな人はいなかったと思う。
背が低かった彼女は友達からまるで妹のように愛されていて、本人も嬉しそうだった。誰からも嫌われること無く、仲の良い友達に囲まれて、さぞ充実した学校生活を送っていたことだろう。
私だって、そんな彼女の事が好きだった。ただ違うのは、他の人の好意は親愛や友愛であって、私の好意は恋慕だったこと。
朝、眠そうな顔で登校する彼女が好きだった。授業中に居眠りをしていたのがバレて先生に当てられ、「分かりません」と赤くなって苦笑いを浮かべる彼女が好きだった。大きな口で昼食の菓子パンを頬張る姿も、友達に可愛いヘアアレンジをしてもらって喜ぶ姿も、帰りに友達に「またね」と振る小さい手も、全てが愛おしく思えた。
……今思えば、そこで抑えておくべきだった。
片想いは片想いのまま。多くを求めず、今あるものだけを。"あの頃の甘酸っぱい記憶"として、大切に仕舞っておくべきだったのだ。
なのに私は、彼女への想いをあわよくば実らせようとしてしまった。放課後の空き教室に呼び出すための手紙を書いて、彼女の机の中に入れた。
恐らく、彼女はとても困ってしまっただろう。女子校に通っているはずなのに、ラブレターが入っていたのだから。普通なら何かの冗談かドッキリかを疑うし、まず怪しすぎて行こうとは思わないだろう。
しかし彼女は優しかった。だから来てくれた。
緊張で強張る私の言葉を、最後までちゃんと聞いてくれた。それだけでも涙が出そうになるくらい嬉しかったのに、彼女は心から嬉しそうにお礼を言ってくれた。
それは間違いなく私の人生の中で一番嬉しかった出来事で、同時に、私はこの時の選択を今の今までずっと後悔している。
「返事はまた今度」と照れながら笑って言った彼女の様子が一変したのは、翌日のことだった。
廊下の曲がり角で彼女とぶつかった。床に尻餅をついた彼女に「大丈夫?」と差し伸べた手は、強く払われた。
彼女は呆気にとられて立ち尽くす私を見て顔を青くすると、震えながら今にも泣きそうな顔で一言謝罪し、走り去ってしまった。
その様子は、傍から見るとまるで彼女が私に怯えているようだった。私からもそう見えるくらいだ。第三者からはより顕著に見えたことだろう。……彼女の友達は、特に。
彼女がああなった原因がさっぱり分からず、後を追いかけようとした私の手を掴んで止めたのは彼女の友達だった。
掴んだ手に力を込めながら、彼女に何をしたのかと険しい顔で問いただされた。思い当たることはあったが、信じたく無い上に言えるわけが無いので口を閉ざした。そんな私に何かピンと来たのか、彼女の友達は「まさか彼女のことが好きなのか」と聞いてきた。
私はそれに動揺してしまった。それを目敏く見つけ、その言葉は発せられた。
『気持ち悪い』
それからは地獄のような日々だった。
彼女が次の日から学校を休んだために、「お前のせいだ」「彼女が可哀想だ」と責められた。私の恋慕は噂となって広がり、根も葉もない噂まで立てられ、気付けば数少ない友達からも距離を取られるようになった。
朝も昼も夕も、嫌悪や好奇心や差別に塗れたべったりと肌に纏わりつくような視線と、珍しいものを安全に見物出来るような十分に取られた距離の中で一人で過ごすことになり、早々に耐えられなくなった私は教室から逃げた。
そして毎日悪夢を見るようになった。寝ても疲れが取れなくなった。朝起き上がれなくなって、学校に行く気力も無くなって、それからずっと、学校に行っていない。
彼女にも会ってないし、恐らく会うことは無い。なんならもう会いたくない。
彼女を好きにならなければ良かった。告白もしなければ良かった。後悔はどんどん大きくなり、いつしか『同性同士の恋愛は"気持ち悪い"ものだ』と自分自身さえも思うようになってしまった。
私は、大切にしてきたはずの心を殺してしまった私のことが大嫌いになってしまった。
______もう少し早く、ユズに出会えてたら良かった。
ユズのことは好きだ。でも、私のそれは友愛に違いない。
それで満足だった。充分、幸せだった。……ユズとの関係を、壊したくなかった。
(無理だ。……無理だよ。どうしたら良いのか、分からない)
すっかり呼吸も落ち着いて、その場に腰を下ろして腕に顔を埋めた。
(いっそ、壊した方が楽なのかな)
いっそ一人になった方が、寂しさや悪夢と共に前と変わらないままで____
「ハル」
「!」
いつの間にか、ユズが目の前にいた。
「危ないですよ。こんな暗いところに一人でいたら」
「……帰るよ。ちゃんと帰るから、先に帰ってて」
顔を上げないで答えた。合わす顔が無かった。
しかし、ユズは私の前にしゃがんだ。
「ハルを置いていけませんよ。ね、一緒に帰りましょう」
「……良いから、帰って」
「駄目です」
「帰って」
「帰りません」
「……頼むから、放っておいてよ……」
「…」
今の私はまるで子供みたいだ。嫌なことから逃れたいのに逃れられず、仕方なく目を瞑って体を小さく丸めて、自分を守ろうとしている。
「ならせめて、隣に居させてください」
「…」
そんな子供に寄り添うように、ユズは私の隣に腰を下ろした。それからずっと、静かに座っていた。何も言わず、何もせず、ただ待っていた。
「……どうして、私の掌にキスしたの?」
長い根比べの後に、腕の中から目だけを出して尋ねた。
「ハルが好きだからです」
ユズはいつもの様に答えた。普段と変わらない口調で発せられたそれは本気かどうか見分けがつかなくて、私はこんなに悩まされているのにと腹が立った。
「……またそれ」
「本心ですよ」
「そんなに軽く言える本心なんて無いよ」
「軽くないです」
少し怒っている口調だった。滅多に聞かない声に驚いて隣を伺い見ると、ユズもこちらを見ていた。
ぱちっと目が合って、ユズは悲しげに笑った。
「……軽いわけないじゃないですか」
その表情に胸が痛くなった。一瞬、過去の自分と重なって見えて、可哀想に見えて涙が出た。
真っ直ぐに気持ちを伝えてくるユズが眩しくて、羨ましかった。
「……っ」
見たくなかった。可哀想な自分は見たくなくて、俯いたら涙が地面に落ちて滲んでいった。
「……ずるいよ」
「えっ? 何が__」
「ずるい」
隣に座るユズに顔を近づけ、唇を奪った。
ひんやりと柔らかい感触がした。死者との口付けで奪われたのは、重なった部分の体温だけだった。
そっと離れると、ユズが目が赤らむくらい真っ赤な顔で固まっているのが見えた。罪悪感と自暴自棄が混じって「……はは」と渇いた笑みが溢れた。
「いっそ死ねれば良かったのに」
それを聞いた時、ユズの表情が消えた。気付いた時には、ユズに伸し掛かられて地面に背中を打ち付けていた。背中は痛くなかったが、ユズの大胆な行動に驚いた。
両手を掴まれて地面に固定されたまま、振り払えるが特に抵抗もせずにユズを見上げる。すると、大きな目に決壊寸前の涙を溜めて私のことを強く睨みつけていた。
「ぅ………」
睨んでいた目がぐにゃりと歪む。とうとう決壊して涙がボロボロと溢れ出し、落ちてきた雫が私の頬に当たってそのまま滑り落ちていった。
「最低、です……! ハルの馬鹿……嫌い、大嫌い……!」
私の上に腰を下ろし、次から次に零れ落ちる涙を両手で拭いながら泣きじゃくった。
「…」
私が泣かせてしまった。謝るべきだ。そう思っているのに、口が渇いて言葉が出てこなかった。
「……ユ、ユズ」
体を起こし、ユズへの謝罪の言葉を考えていた時。
「ハルなんて、もう知らない」
今までで一番冷たく、暗く、蔑むような重さを含んだ声だった。冷気が消えたことに気付いてパッと顔を上げると、ユズがいなくなっていた。
「……えっ。ユズ?」
辺りを見回す。
「ユズ、ユズ?」
膝をついて、前傾姿勢になりながら暗闇に目を凝らした。嫌な汗が額を滑り落ち、まさかと疑いながらも信じられずに、虚空に向かって声を掛け続けた。
「ユズ!」
辺りはシンと静まり返り、虫の鳴き声だけが響いてくる。
私以外、誰もいない。存在を感じない。疑惑は確信に変わり、力が抜けて地面に尻餅をついた。
……ユズが、いなくなってしまった。
そこで私は漸く、とんでもないことをしてしまったのだと気付いたのだった。




