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この小説を開いて下さりありがとうございます。
ペンがノートの上でカリカリと心地良い音を立てている。
窓の外では梅雨の始まりを知らせるように雨がガラスを叩いており、ペンの音と掌外沿がノートを擦る音、時折頁を捲る音のみの静かな室内に、小さな欠伸の音が加わった。
欠伸で潤む目を擦り、鼻で溜息をつきながら机に肘をついて顎を乗せる。一瞬ぼんやりとしてしまったが、いかんと気付いて切れかけている集中力を取り戻そうと腕を大きく伸ばして伸びをするが、もはやノートも教科書もぼやけて読めなくなっていた。諦めてペンを机に放り投げると、途端に襲い来る眠気に抗うことなく、椅子から降りる。まだ勉強の途中だったが、日付が変わる少し前に手を出してしまった本が面白かったのが悪い。
そう言い訳をしてベッドを振り返ると、枕元に幽霊が立っていた。
幽霊物の映画では鉄板の白いワンピース。だが、腰まである長い髪は透き通るような白。そんな全身が真っ白な幽霊は俯いて長い髪を前に垂らし、ぼんやりと枕元に立っていた。
恐怖で息が止まる。腰が抜け、先程まで座っていた椅子に再び着席し、指先まで硬直したまま幽霊から目を離せないでいた。
____何時間経っただろうか。
とめどなく溢れ出る冷や汗で全身がびっちょりと濡れる。恐怖が極限まで高まり、気分まで悪くなってきた頃に漸く立てるようになって、その間微動だにしなかった幽霊を刺激しないようにそっと立ち上がった。
眠気など幽霊を見た瞬間に吹き飛んだ。とにかく今は、出来るだけ早くこの部屋から離れたい。その一心で勇気を振り絞り、自室から脱出した。
階段を駆け下りてリビングに到着すると、大きく息を吐き、その場にへたり込んだ。
自室に幽霊が出てしまった。どうしたらいなくなってくれるのか、皆目見当もつかない。
暫く自室に近付かないことにした私は、翌日から用がある時のみ自室に赴き、必要な物だけを素早く手に取って退出し、おはようからおやすみまでの時間をリビングで過ごすようになった。
明日にはいなくなっていますようにと願っては眠りにつき、今日はいなくなっているだろうかと期待しては絶望する日々。
そうして、三日が経った。
私はスマホを携え、呪われた自室の前に立っていた。扉を睨みつけている目の下には薄く隈が出来ており、首の骨をポキポキと鳴らす。
そう、寝不足だった。
リビングのソファで眠ると翌朝には全身が悲鳴を上げる。それが三日分。もう体も心も限界なのだ。
辛い日々を送る中で頭に思い浮かぶのは、いつも自室のベッドだった。ふかふかのマットレス。肌触りの良いシーツ。心地よい温もりを与えてくれる毛布。こだわりの低反発枕……!
あの快適だった日々を思い出してふと、何故自分は快適な寝床ではなくわざわざ寝心地の悪いリビングのソファで寝ているのだろうと考え、その原因である幽霊にいつしか怒りを覚えていた。
そして今に至る。現在時刻は二十一時。いい加減、今日はベッドで眠りたい。
意を決して室内に入り、依然枕元に立っている幽霊の前に立つ。そしてスマホの画面を見ながら口を開いた。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」
寝不足と首の痛みで働かない頭で何とか考えて出た結論が『お経唱えりゃ消えるんじゃね?』だった。
ネット文化が栄えた現代はそれこそ優秀なもので、調べたらお経は直ぐに出てきた。それを見てある程度読み方を練習し、いざ幽霊退治に向かった訳である。
「ゥ………ゥゥ……」
お経を唱えだすと、今まで反応が無かった幽霊が苦しそうに震え出した。効いている。これはいける。
「舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」
「ゥゥ……」
「是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」
「ゥウゥゥ……」
「無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽」
「ゥゥァァアアあああああ痒い痒い痒い痒い!!!!」
淡々とお経を唱える。すると、もう我慢出来ないと言わんばかりに体を掻きむしりだした。
「乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得」
「痒い痒いやめて、ねぇやめて!!」
「以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故」
「やめてってばぁあ痒いっ!」
「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」
「聞こえてるでしょ! ねぇ! やめて!」
「三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提」
「やめっ……痒い痒い痒い痒い! お、お願いだからぁ……!!」
「…」
膝から崩れ落ちたのを見てお経を唱えるのを一旦やめる。幽霊は呼吸で大きく肩を上下させながら、しきりに「すみませんでした……すみませんでした……」と呟いていた。
(……消えてない)
やはり素人のお経では効果が無いのだろうか。チッ、効いていると思ったのに。
両親には気付かれてしまうが、ちゃんとお坊さんを呼んでお祓いしてもらうんだったと後悔しつつ、もう一つの案を実行する。
「……?」
幽霊は何やら動き出した私を恐る恐る見上げ、手に塩が握られているのを見ると、更に何かが来ることに気付いて青白い顔をより一層青くする。
私は塩が入った袋の口を開ける。
「まっ……待って」
幽霊は後ずさる。
そんなの知るかと袋に手を突っ込み、塩をむんずと掴み取ると、幽霊に投げつけた。
「まっ…………痛い!!!」
更に投げつける。
「痛いっ!! ちょっ、やめ痛い! 刺さる! 塩が地味に刺さる!」
投げつける。
「痛い! 地味に痛い!」
床が塩塗れになったところで漸く手を止めた。
幽霊を見る。涙目になっている。まだいる。
床を見る。色んな所に塩が飛び散っている。掃除が面倒くさい。
(……こうなったら)
もうやけくそになったので、用意した除霊グッズを全て試すことにした。
一.ろうそくの火を近付けてみる。
「熱い! 火怖い!」
二.ファブリーズを振りかけてみる。
「あっ、口に入った! ぺっ、ぺっ!」
三.パワーストーンで殴ってみる。
「痛い! やめっ……暴力反対! 暴力反対!」
ネットで調べた除霊法を一通り試し尽くし、お互いにぜぇはぁと荒い呼吸をする。
幽霊は何をしても消えなかった。それどころか、以前より存在感が増しているような気がする。
「駄目だ……疲れた……」
万策尽きて椅子に座る。大きく溜息をつくと、びくりと肩を揺らした幽霊に話しかけた。
「ねえ、なんで私の部屋にいるの?」
「はぇっ……え、えっと……なんでだろう」
幽霊はくぐもった物言いで髪をいじる。
「私に敵意は?」
「ない……と言えば嘘になりますけど……」
「じゃあ呪い殺す?」
「やり方が分かんないです」
「…………そう。じゃあそこからどける?」
「あっ、はい」
ベッドの側から窓の方へどくよう指示すると、リビングから掃除道具を持ってきて汚れてしまった部屋の片付けを始めた。すると、「あっ、あの……私も手伝います」と申し訳なさそうに私の傍まで歩いて来た。
足があることや寄ってきたことに驚いたが、前より恐怖心は薄れていたので、どうせなら手伝ってもらうことにした。
「……ちりとり。持てる?」
「やってみます!」
白い手が持とうとしたちりとりはゴトンと床に落ちた。
早々に諦めて掃除に戻ると、後ろであっと嬉しそうな声がする。
「塩! 一粒ずつなら持てます!」
「……じゃあ、そこの袋に入れてって」
「はい!」
もはやつっこむことすらも疲れて出来なかった私と、一粒ずつ丁寧に塩を摘みごみ袋に運ぶ幽霊の二人体制で掃除は進められ、最後に仕上げの掃除機をかけ終わる頃には明け方になっていた。
「っはーーー……」
もう二度と除霊などするものか。
疲れ果て、三日ぶりのベッドに腰を下ろすと、幽霊がおずおずと近付いてきた。
「……何?」
不機嫌極まりないド低音で幽霊を見上げると、白髪の隙間から初めて見えた片目から涙が零れていた。
「ごめんなさいぃ……」
「……?! えっ、ちょっと」
思わず目を見開いた。
目を擦りわんわんと泣きじゃくる姿に少なからず動揺する。
「でもあの、消え方も分かんないし、他に行く当ても無くて……」
「…」
子供みたいに泣きじゃくる姿に、何だかこっちが悪いことをしている気分になってしまった。
私は今日何度目か分からない溜息をつく。
「もう良いよ。怒ってないから」
「……え?」
「害は無いみたいだし、私はいい加減ベッドで寝たいだけ。睡眠を邪魔しないでくれるのなら、ここにいても良いよ」
「ほっ、本当に? ありがとう……!」
幽霊は嬉しそうに笑うと、朝日と共にふっと姿を消した。
(朝に消えるタイプかよ……)
力が抜けてベッドに倒れこむと、三日ぶりの心地よさに包まれて直ぐに意識を手放した。
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目を覚ますと、部屋は暗闇に包まれていた。どうやら寝すぎてしまったようで、まだ半分眠りについたまま部屋を見回して気絶しそうになった。
「あ、おはようございます」
暗闇の中で白くぼんやりと光る幽霊がいた。
驚いてベッドから落ちる。バクバクと鳴る心臓を抑え、震える足で部屋の電気を点けた。
「だっ、大丈夫ですか?!」
「……大丈夫」
まだいたのか。いや、そういえば自分がいてもいいと言ったんだった。
カーテンを閉め、下に降りて水を取りに行く。戻ると、幽霊は落ち着かない様子で立っていた。
「いつ来たの?」
「く、暗くなってからです」
時計を見る。今は二十二時くらいなので、暗くなってからということは……二十時くらいだろうか?
憶測で考えたとしても、この子は二時間も暗闇の中で私が起きるのを待っていたことになる。
「電気、点けても良かったのに」
「睡眠の邪魔になるかと思って。それに、点けられませんでしたし」
私が下に降りている間に試してみたが無理だった、と残念そうに笑った。それを聞いて、そういえば昨日「睡眠の邪魔だけはするな」とか言っていたなとぼんやり思い出した。
「ごめんね。暇だったでしょ」
「いえ、暗闇は好きですから」
遠慮がちに笑う幽霊に「ベッドに座って良いよ」と言いながら自分も椅子に座る。
一口水を飲み、マグカップを勉強机に置いた。
「あなた、名前は?」
「えっと……ユズです」
「私はハル。太陽の"陽"で、陽」
「ハル……さん」
「なんでもいいよ。それでユズは、基本的に夜の間だけ出てくるの?」
「みたいです。今日も、気付いたらハルさんの部屋にいました」
ユズの感覚では、どうやら朝になると眠くなって夜になると目が覚めるらしい。
一応私に敵意はないか、呪う予定はあるのかもう一度聞くと、どちらも全く無いと答えたので安心する。なので、気になっていたことも聞いてみることにした。
「幽霊には触れるの?」
「えっ? うーん……試したことが無いので」
「じゃあ、触ってみても良い?」
「ど、どうぞ」
椅子から立ち上がり、ユズの目の前に立つ。やや恥ずかしそうにこちらを見上げるユズの頬に手を伸ばすと、慌てて目を閉じた。
そっと頬に触れる。
(冷たい。ひんやりしてる……?)
続いて髪に触れると、サラサラの髪もひんやりしている。
触れることに驚きつつ、瞼、耳、唇……と触っていると、「あ、の」と頬を赤くしたユズが口を開いた。
「も、もう良いですか」
相当恥ずかしいらしく、黄色の瞳がやや潤んでいた。
揺らぐ黄色に何とも言えぬ感情に襲われかけ、慌てて手を離す。
「……ごめん」
「いえ……」
気まずい空気が流れ、「軽く食べてくる」と逃げるように部屋を出た。
(……幽霊も、照れるんだ)
僅かに手に残るひんやりとした感覚は、あの幽霊が確かに目の前に存在していたことを表していた。




