翠緑蜂の巣
青白く透き通る肌に蠱惑的で豊満な肉体を誇り、異界の一つである氷の世界を総べる巨大な女神、ヘル。
胸元の大きく開いた白いタイトなワンピースドレスに身を包み、頭には氷で出来たティアラが輝いている。
その彼女の権能によって氷漬けとなったイグナシオを前にして、カノンはヘルを見送る。
「じゃ、また。次が何時になるか分からないけど、その時はよろしくね」
『うむ。そなたの力は妾よりも上ゆえ、妾なんぞで良ければいつでも力を貸そう。では、さらばだ』
召喚主へと別れを告げると、徐々に姿が薄くなっていく氷の女神ヘル。
召喚の目的を果たした為、氷の世界へと戻っていく。
しばらくそれを見ていたカノンはふと我に返ると、氷漬けのイグナシオの下へと近付く。
ヘルの権能ゆえか、さっきまで火口でボコボコと沸き立っていた溶岩も冷えてただの岩と化している為、近づくのも容易だ。
「ヘルを召喚したのは正解だったね。うん、ミシェルに鮮度が悪いとか怒られずに済むよ。さて……──〈ディメンションストレージ〉」
ミシェルに怒られずに済む事を喜ぶカノンは氷漬けイグナシオに触れると、直ぐに魔法を発動した。
カノンのオリジナル、異次元に創った倉庫へと収納する為の魔法だ。
異次元収納の魔法が発動すると、イグナシオの20mを誇る巨体が瞬時にその場から消え失せる。
イグナシオの巨体ゆえの質量を示す跡だけが、冷えて固まった溶岩の上に刻まれていた。
「次は翠緑蜂の巣だけど、濡れるの嫌だなぁ。うん、とにかく行くか。行ってから考えよう」
そう呟きながらも右手掌に生み出していた〈スフィア〉を握り締めたカノンの体は、次の瞬間には大海の上にあった。〈神出鬼没〉の魔法である。
大海の上空、水面からおよそ200m付近で宙に浮かぶカノン。
その眼下では、翠緑蜂の働き蜂達が引っ切り無しに水面付近にある巣の出入口からどこかへと飛んでいく姿があった。
翠緑蜂。
その姿はスズメバチに似ており、色はエメラルドグリーンを基調として腹部に蜜蜂やスズメバチと同様に黒の縞模様がある。
体長は働き蜂で1m程はあり、女王蜂と交尾をする雄蜂で2m程、そして女王蜂になると4m程もある。
当然、翠緑蜂は魔物である。
翠緑蜂の働き蜂は人間だろうが魔物だろうが獲物と見れば集団で襲い掛かり、その鋭き強靭な牙にて細かく砕いて飲み込んだ上で巣に運ぶ。
肉団子を作らずに体内に飲み込んだ分だけを巣に運ぶ所はスズメバチとは違っている。
そして巣の中で細かく砕いた肉片を吐き出し、女王蜂だけが出す事の出来る特殊な分泌液と混ぜ合わせてから保管庫で寝かせるのだ。
保管庫にて女王蜂の分泌液と混ぜ合わされた肉片は10年の月日をかけて熟成し、そしてエメラルドに輝く蜜へと変わる。
今回カノンが蜜を巣ごと採取しようとしている翠緑蜂だが、海の中に巣を作る希少種である。
餌として巣に運ぶのは専ら海藻や植物系の魔物であり、蜜の味もミネラルを多く含む為に美味となる。だからこそカノンは海を探っていたのだ。
……イグナシオにその油断を突かれて火炎ブレスを喰らいそうになったのは愛嬌だろう。
ともあれ、カノンはどうやって巣だけを持ち帰ろうかと頭を悩ます。
「働き蜂を巣から出すのは簡単だけど、問題は雄蜂や女王蜂だよなぁ。全滅させた上で巣ごと持ち帰るのは簡単だけど、それをやっちゃうと、最強かつ最高に美味しい蜜を作ってくれる翠緑蜂の希少種が誕生するまで千年単位で年月が必要になるからなぁ……」
何体かの働き蜂が巣へと戻って来ても、未だに首を傾げて悩むカノン。
カノンの言う様に、翠緑蜂を全滅させるのならば話は簡単だ。
イグナシオを衰弱させた様に、〈スフィア〉を数個巣の中へと送り込んで〈エーテルドレイン〉を発動させればいい。
そうすれば多少時間はかかるだろうが、翠緑蜂はあっさりと全滅させる事が出来る。
しかしそうすると、次にカノン達が食べられる事の出来る蜜を作る翠緑蜂の希少種が誕生するまで長い年月を待たなければならない。カノンも口にしているが、その期間は恐らく千年は固いだろう。
ならば前回の採取はどうしたのかと言うと、無理やり巣の中へとカノンが侵入し、半分の働き蜂を始末した上で蜜倉庫を運び出したのだ。
しかし翠緑蜂の抵抗も激しく、巣から脱出した時には蜜倉庫は割れており、その為半分程の蜜しか採取出来なかったのだ。
その為、前回の採取では50年しか持たなかった。
50年も持てば文句など無いと思うだろうが、如何せん……カノンはおろか、ミシェルまでもが悠久の時を生きる事を強いられているのだ。
それ程の時を生きる二人にとって、50年はあっという間に過ぎていく時間でしかないのである。
「うん、やっぱりこの手しか浮かばないや。第一、ボクと言ったら『スフィアマジック』が有名だろうし、それ以外の魔法は威力があり過ぎて今回の様な繊細な採取には使えないからね」
何やら腕を組みながらウンウンと頷くカノン。
どうやら採取の手段を思い付いた様だ。
「〈スフィア〉……うん、これくらいあれば大丈夫かな? 行け!」
両手の掌を開いて上に向けると、そこから銀色の粒子を放出して直径10cmの球体を10個創るカノン。
そして、それを翠緑蜂の巣へ向けてカノンは放った。
10個の〈スフィア〉はカノンの意思とリンクしている為、複雑な巣の中でも自由自在に動かす事が出来る。
一体の働き蜂が巣に戻る時を待って、その働き蜂の影に隠れるようにして10個の〈スフィア〉は侵入を果たした。
「うん、女王蜂に一つ。雄蜂達の部屋に四つ。その他働き蜂向けに通路に残りの五つの配置が完了だね。それじゃ……──〈マナドレイン〉」
翠緑蜂を無力化する為にカノンが発動したのは〈マナドレイン〉だ。
その効果は、対象の魔力を吸収するものである。
〈エーテルドレイン〉とどこが違うかと言うと、体力や魔力、それに魂でさえも削って吸収するのが〈エーテルドレイン〉ならば、〈マナドレイン〉は魔力だけを削って吸収するのだ。
人間に限らず、このヴェルド世界に生きる全ての者の体には魔力が流れている。
『魔力器官』と呼ばれる臓器が必ず備わっており、大小及び強弱はあれど、誰もが魔法の力を享受している。
魔物は魔力器官を持たないが、その代わり体内に『魔石』を宿す。
どちらにせよ、この世界に住む者には魔力が必ずあるのだ。
そして、魔法などで魔力を消費、またはカノンの〈マナドレイン〉などで体内の魔力が失われるとどうなるのか。
答えは、失神する。つまり、意識を失うのだ。
つまり今回カノンが発動した〈マナドレイン〉は翠緑蜂の意識を刈り取り無力化させるにはもってこいなのである。
「うん、かなり大きな巣だね。全部で1000体以上も翠緑蜂がいたみたい。……と、魔力が回復して意識を取り戻すまでに巣から翠緑蜂達を出して、巣を丸ごと採取しないと」
カノンの言う様に、今回カノンが見付けた翠緑蜂の巣はかなりの大きさだ。
前回の採取の時に生き残った翠緑蜂が頑張った結果の大きさだろう。カノンに襲われても対処出来る様にと作り上げたのだ。
……それでも今回も採取されてしまうが、命があるだけマシだと翠緑蜂も思うしかあるまい。
それはさておき、海の中に造られている為翠緑蜂の巣全体の視認は完全に出来ないが、それでも直径100mは下らないだろう。
巣の大きさはともあれ、カノンは〈スフィア〉を使って翠緑蜂達を巣の外へと連れ出し始める。
〈スフィア〉の形状は、翠緑蜂を掴む為に手の形となっている。大きさは1m程だ。〈ハンド・スフィア〉とでも言うべきか。
そうして、せっせと翠緑蜂達を運び出す事凡そ二時間あまり。最後となる女王蜂を他の翠緑蜂達と同様、近くの島へと運び終えたカノンはいよいよ巣自体の採取に取り掛かる。
「うーん……。まずは海底に固定されてる部分をどうにかしなきゃダメだよなぁ。こればっかりは〈スフィア〉任せじゃ無理だからボクがやんないとダメだよね。…………ふぅ。濡れるのは嫌だけど、ミシェルに巣ごと採取するって言っちゃったし仕方ないか。うん、さっさとやって、さっさと帰ろう! ────〈スフィア〉」
腕を組みながらブツブツと呟いていたカノンは一つ頷くと、〈スフィア〉を一つだけ創って自らの口に含んだ。
風属性の魔力で創った〈スフィア〉である為、口に含む事で酸素ボンベの代わりとしたのだ。
翠緑蜂の巣の出入口の脇辺りから海へと飛び込むカノン。
水中を素早く移動する為の魔法〈ドルフィン〉を飛び込むと同時に発動した事によって、カノンの体は一気に海底へと辿り着いた。
カノンの眼前では、濃いエメラルドグリーンの翠緑蜂の巣が強固な柱状の土台によって海底に固定されているのが見えている。
(魔力は翠緑蜂から吸い取った分で充分だね、うん。ボク自身の魔力を使うとこの世界の黄昏が進むから、翠緑蜂の魔力で足りて良かったよ。────〈次元斬〉)
翠緑蜂達から吸い取った魔力を右手に集め、カノンは事も無げに超絶魔法を放った。
カノンが軽く右手を水平に振り抜くと、その動きにあわせて水中に一筋の線が走る。
すると次の瞬間、しっかりと海底に固定されていた強固な土台ごと海水が切れた。
海底に固定されていた土台は、翠緑蜂の働き蜂達が強靭な顎で噛み砕いた鋼と働き蜂だけが出す特殊な凝固液によって造られており、ちょっとやそっとの魔法では切れないし、ましてや剣などでは切る事は不可能である。
もしも切る事が出来るとするならば、伝説級以上の剣か、もしくは魔導師数人掛りで発動する究極魔法によってしか切れないであろう。……普通であれば。
しかし、カノンは普通の人間ではない。
『神野 聖司』の転生体だという意味ではなく、正真正銘の超越者であるのだ。
この世界が滅びに向かう原因を作ったのもカノンだと言えば、その力の程が分かるだろう。
ともあれ、カノンは翠緑蜂の巣を海底から切り離すと直ぐに〈ディメンションストレージ〉へと収納した。
(うん、採取完了。じゃ、さっさと帰ろう。────〈神出鬼没〉)
海へと飛び込む前に自らの館へと放ってあった〈スフィア〉を基点として、転移魔法〈神出鬼没〉を発動するカノン。
一瞬にして、翠緑蜂の巣がある海域から数千キロ離れた魔境の山間に建つカノンの館へと帰宅を果たした。
「ただいま、ミシェル。約束通り、『古代竜』と『翠緑蜂の蜜』を巣ごと採ってきたよ。それと、お風呂に入るから用意もよろしくね」
館の扉を開いて中に入るなり、カノンは成果をミシェルへと報告する。ライトブラウンの外套の裾から水滴が落ちて床を濡らす。
扉を開けて直ぐの居間ではミシェルが甲斐甲斐しく掃除をしていた。
ミシェルの左手はハタキを持ち、右手には箒が握られている。
「……今回は巣ごとだから蜜倉庫は壊してませんよね? まぁ、師匠はやる時はしっかりやる人ですから大丈夫だとは思いますけど。あ、お風呂は既に用意してありますし、着替えもちゃんと用意して置いてありますからいつでも入れますよ? それと……お疲れ様でした、師匠」
「うん、ミシェルはやっぱり出来る弟子だね。お風呂から出たら食材は館の倉庫に移しておくからね」
「分かりました。あ、今夜のご飯は『千年猪』の生姜焼きと、『炎ほうれん草』の胡麻和え、それと『百年米』ですからね」
「やったぁ! うん、さっさとお風呂に入ってくるよ!」
ミシェルから聞いた今夜の献立に子供の様に喜ぶカノン。前世が日本人だからこそ、米という響きに喜びを覚える。
献立に喜ぶその姿は、悠久の時を生きる古の魔女というよりも13歳にしか見えないカノンの見た目そのものである。
ともあれ、カノンは見るからに上機嫌で風呂場へと向かっていくのであった。
☆☆☆
悠久の時を生きる古の魔女であるがゆえ、普段のカノンはスローライフを送っている。
毎日をゆっくりと過ごし、ミシェルの作る三度の食事に舌鼓を打つ。
時には魔女らしく魔法薬を作ったり、庭いじりをしてみたり。
ちなみに、師匠と弟子の関係ではあるがカノンがミシェルに魔法を教える事は既に無い。
師匠であるカノンには敵わないが、ミシェルも〈スフィアマジック〉を使って色々な事が出来る様になっている。
だからこそ、時おり魔道書を仕入れては二人で魔法の話に花を咲かせるのだ。
ともあれ、火竜王を狩り、翠緑蜂の蜜を巣ごと採取してから十年の月日が流れた。
カノンは新たな転生者を探し始める──
お読み下さりありがとうございます!(´▽`)