プロローグ
気が付けば、見知らぬ天井を見ていた。
(見知らぬ天井を見ているって事は、僕はまだ夢の中かな? ……なんてね。うん、夢だと考えられるって事は、僕はどうやら正常らしい)
天井を見つめながらもそんな事を考えるが、その天井には見慣れた蛍光灯は無く、やはり見慣れたライトブラウンを基調としたシックな壁紙も見えない。
見えるのは、丸太を組みあわせたログハウスの様な天井だけだ。
その天井を、仄かな、だが優しい光がゆらゆらと照らしている。
柔らかなオレンジ色の落ち着く光だ。
見慣れた蛍光灯とは違い、その暖かな光はどこか心を落ち着かせてくれるように感じられた。
そのまま、穏やかに時間が流れていく。
目覚めたばかりだと言うのに、再び目を閉じてしまいそうになる。
(あれ? そう言えば僕って……旅行なんてしてたっけかなぁ? まだ仕事中だった気がするけど……?)
再び目を閉じて微睡む中、ふと、疑問が湧いた。どうしてログハウスの様な場所で眠っていたのかと。
どうして眠っていたのかは分からないが、記憶を探れば仕事中だった気がする。
それとも仕事中だったのは夢で、実際は旅行にでも行っていたのだろうか。
ログハウスの様な天井も旅行の宿泊先だと言われれば納得出来る。
しかし、どれだけ記憶を掘り下げてもそんな記憶は無い。
第一、仕事を終えて帰宅したという記憶が無いのだ。それにも拘わらず、旅行はともあれベッドで眠っていた事に違和感を感じた。
そもそもの話、営業回りを終えて帰社したという記憶が無いのだから、早退でもしない限り帰宅は有り得ないだろう。旅行なんて尚更だ。
となると、もしかして……気を付けていたにも拘わらずコロナに罹ってしまったのだろうか。
それで呼吸困難に陥って、路上で意識を失って救急搬送。
……有り得るだけに、不安が胸に募る。
だが、ログハウスの様な病院など聞いた事がない。
ともあれ、生きているならばここがどこだろうと関係ない。むしろ、今まで社畜の様に働いていたのだ。たまにはゆっくりとしても許されるだろうとの考えに到る。
そんな事を考えつつ、ふと、頭を動かして横を見てみる。
さっきから気になっていた光源がそこにはあった。
ベッドの脇には小さな台が置かれており、その台の上では、小皿に立てられた真新しい蝋燭に火が灯されていた。
そう、柔らかな光で室内を照らしていたのは、とても大きな蝋燭の灯火であった。
(まぁいいか。それよりもお腹が空いたなぁ。うん、寝てても仕方ないし、起きて朝ご飯を作るか。……って、朝だよね?)
しばらく色々と考えながら蝋燭の灯火を見ていたが、空腹を覚えたので、【神野 聖司】は体を起こそうとする。
(あ、あれ? 起き上がれないぞ? よっぽど疲れてたのかな?)
いつもならば、腹筋の力だけで起き上がれるはずなのに、いくら腹に力を込めようとも起き上がれない。
ならば、体を横に向けて手を付き起き上がろうとするが、その体を横に向ける事さえも上手く出来なかった。
(何で!? 何で僕は動けないの!?)
そう思うも、どう頑張っても体は僅かに身動ぎするだけで思い通りにいかない。
しばらく頑張ってはみたが、身動き出来ない事に途方に暮れ、どうして力が入らないのかと視線を自らの手に向けるサトシ。
視線の先にあったのは、見慣れた成人男性のゴツゴツとした手ではなく、まるでマシュマロの様な、とても柔らかそうで可愛らしい手であった。
「おぎゃあ! ほぎゃぁあ! (助けて! 母さん!)」
(え!? 言葉が出ない!? って言うか、赤ちゃんの泣き声!?)
自らの体に起きている不可思議な出来事に恐怖を覚え、ここがどこかも分からないまま思わず一緒に暮らしている母に助けを求める。
──が、その声は赤子の泣き声にしか聞こえず、その事に更にパニックになるサトシ。
動きたくても動けず、声を出せばまるで赤ちゃんの泣き声だ。誰もが間違いなくパニックとなるだろう事態である。
まるで赤ちゃんに戻ってしまったかの様なこの事態に、サトシは更に恐怖する。
いったい自分はどうなってしまったのか、と。
『あらあら、カノンちゃん、どうしたの? オシメが気持ち悪いのかな? それともお腹が空いたのかな?』
パニックになりつつも、しばらく赤子の様な声を上げながら身動き出来ない体を何とか動かそうとしていると、扉を開ける音がサトシの耳に届く。
思わずビクリとしながらそちらを見れば、美しい銀髪をサイドテールにまとめた見目麗しき女性が扉を開けて入って来るのが見えた。
年の頃は十代後半だろうか。
着流しの様な茶色のワンピースに身を包み、腰に白い帯を巻いたその女性は、サトシの理解出来ない言葉を口にしながらベッドへと近付いて来る。
(──ッ!? きょ、巨人!? 僕は夢でも見てるっていうの!? いくらまだ十代って言っても、もうすぐ二十歳になるっていうのにこんな夢を見るなんて……!)
そうは思いつつも、次第に近付いてくる女性に目が釘付けになるサトシ。
ベッドの横に来た女性はおもむろに片胸を露出すると、サトシを恐るべき膂力で抱き上げて顕となった自らの胸へと押し付ける。
女性の着るワンピースの胸の部分は捲れる様になっていた。
抵抗しようにも思う様に体の動かないサトシは、女性のなすがままにされてしまう。
多少は抵抗するも、女性の胸から仄かに漂う甘い香りに意識が次第に朦朧となり、空腹も相まって、思わず女性の剥き出しの胸へと吸い付いてしまった。
途端に、サトシの口の中に広がる母乳の芳醇な香りと味わい。
天上の甘露とは正にこの事だと言わんばかりのその味に、サトシは無我夢中になっていた。
「ケプッ……ッ!」
『上手にゲップ出来ましたねぇ。じゃあ、オシメを取り替えてから寝んねしましょうね?』
満足いくまで銀髪の女性の母乳を飲んだサトシは女性の肩に頭を乗せられる様に抱っこされると、背中をトントンとリズム良く優しく叩かれる。
その途端に意図せずに出てくる可愛らしいゲップ。
女性はサトシのゲップを聞くと嬉しそうな表情を浮かべ、そして再びサトシをベッドに寝かせた。
鼻歌を歌いながら、サトシのオシメを女性は手際良く取り替えていく。
程なくして、サトシが恥ずかしがる暇も与えずにオシメの交換は終わった。
満腹となり、オシメも交換されて満足したからなのか、ベッドでふわぁと大きな欠伸をするサトシ。
そんな今にも眠りそうなサトシのベッドに、汚れたオシメを片付けた女性は戻って来るなり入って横になる。
すると、サトシの胸の辺りをリズム良く優しくトントンし始めた。
そのリズムのあまりの心地好さに、サトシは程なくして眠りへと落ちていくのであった。
(うん、やっぱり知らない天井だ。────さて、昨日はあまりの眠気に耐えられずに寝ちゃったけど、改めて状況を整理しよう)
一晩……恐らく一晩ぐっすりと寝た事でスッキリとした目覚めを迎えたサトシは、改めて現在の状況について考え始める。
まずは自分の体の事だ。
どう考えてみても、今のサトシは赤ちゃんとしか言い様がない。言葉は話せないし、自力で起き上がる事も出来ないからだ。
それに、サトシが赤ちゃんじゃなければ、銀髪の女性が巨人にしか見えない事の説明が付かない。
更に言えば、その女性の母乳をサトシは満足いくまで飲んだのだ。
サトシが赤ちゃんじゃなければ、女性の母乳を飲むなんて事は有り得ないだろう。
以上の事を踏まえて考えると、不思議としか言えないが、サトシは赤ちゃん……それも、銀髪の女性の赤ちゃんになってしまったとの答えに辿り着く。
(もしかして……生まれ変わったのかな、僕は? となると、僕は死んでしまった事になる……。死んだ瞬間を思い出せないのは良かったけど、母さんよりも先に死ぬなんて、僕はなんて親不孝者なんだろうか……。と、思っても、今さらだよね。それに、僕が死んでも兄さんが母さんの面倒を見てくれるでしょ。今まで僕に母さんを押し付けて好き勝手してたんだから、これからはしっかりと面倒見てよね、兄さん)
割とあっさりと生まれ変わりを受け入れるサトシ。
前世で、若くして営業回りを任されていたのは伊達ではないという事か。臨機応変に対応出来てこその営業だろう。
ともあれ、サトシは自らの状況を受け入れた上で次の問題を考え始める。
(生まれ変わったのは良いけど、どこの国に生まれたのかな? 銀髪の女性……うん、新しい母さんの言葉だけど、間違いなく英語じゃなかった。かと言って、フランス語でもイタリア語でもない。ロシア語や中国語、それに韓国語でもなかった。顔付きを見ればヨーロッパ系なのに、全く聞いた事の無い言葉を話すって事は…………もしかして、異世界転生ってヤツなのかな? ……そう言えば、光源が蝋燭の灯りだったよな。それだけで判断するのは早いけど、電気が無い時点で異世界転生の可能性がグッと高くなる。……アルプス山脈の山奥に住む女性の元に生まれ変わってる可能性もあるけどね)
結局、どうやら生まれ変わった事は事実だけど、異世界転生なのかどうかは不明なままとなった。
今のサトシは赤子である。
自ら移動して色々と調べる事が出来ない以上、異世界転生かどうかは保留するしかない。
ともあれ今のサトシは赤子なのだから、今は成長する事に全力を尽くすべきだろう。
現に、色々と考えたからか腹も減ってきた。
となれば、今のサトシに出来る事はただ一つ。
思いっ切り泣き声を上げて、母である銀髪の女性を呼ぶ事だけだ。
「ほぎゃぁあ! ほぎゃぁあ! ほぎゃぁあ!」
(お腹空いたよ! 母さん! 早くおっぱいちょうだい!)
……適応力が高いからこそ、前世のサトシは営業に抜擢されたのかもしれない。
お読み下さり、ありがとうございます!
m(*_ _)m