二度目の初詣にて(2/2)
電車を降りるとそこは雪国だった。嘘だ。普通に住宅街である。
佐々原さんと会話を交わしつつ、罰ゲーム気味に勉強を監視されることが確定しながらも電車は進み続けて目的の駅に着いた。改札を出ると小規模な駅前ロータリーにタクシーが数台止まっている。正月なのにご苦労様である。
「住宅街……って感じですね」
横にいた佐々原さんがそう溢したのに僕も「まあね」と頷く。
正月という期間を考慮しても輪に掛けて人が少ないのはこの駅周辺に何も無いからだった。本当に何もない。コンビニやファミレス、ちょっとした飲食店とかちっさなスーパーはあるがそれ以外に目に付くのと言えば特になく、悪く言うと画一的な街並み。敢えて挙げるなら今時軒下でタバコ売ってる商店に物珍しさを感じるくらいだろうか。
「まあ大きい神社ではないし、特に何がある訳でもないからな」
「でもこっちの方が落ち着きます。人が多いと眩暈がするので……」
そう言って佐々原さんは安堵の息を吐いた。
ところで、目的の神社は駅から大体20分ほど歩いた場所にある。正直言って中途半端に遠い距離だ。神社はバス通りに近い場所に位置していて、乗ろうと思えばバスで行くこともできる。
「佐々原さん。バスと歩き、どっちが良い?」
「バスでも行けるんですか?」
「うん。まあ場所自体はそんな遠くないから歩けるけど……そのブーツじゃ長い距離歩くのは大変でしょ?」
「大丈夫ですよ。それに今はちょっと歩きたい気分だから丁度良いです」
佐々原さんがそう言うならまあ、歩くか。
スマホの地図を片手に一応方角だけは確認して歩き始める。佐々原は僕の一歩後ろを付いてくる。やっぱ撫子なんだがこの子。
歩道の無い二車線道路の左側に入ると、横をバスが通り過ぎる。その刹那に佐々原さんが何かを言ったような気がしたが、ゴオッというバスの走行音によって消え去られた。
「ごめん。今、何か言った?良く聞こえなくて」
「は、はい!えっと、あの!一つ提案があるんですけど……!」
提案?佐々原さんがそういうことを言ってくるなんて珍しいな。
そのまま振り返らずに言葉を待つ。
「わたしのこと、名前で呼びませんか?」
「名前で?」
「良ければ……ですけど」
恥ずかしいのか、言葉の途中から声は窄んで行った。
名前で……と言うと、佐々原さんは僕に由樹と呼んで欲しいということだろうか。確かに仲も悪くないし、どちらかと言えばかなり良いとさえ思う。それに年の差はあれど先輩後輩の仲とも違ってフランクだ。唯一ネックなのは佐々原さんが女の子し過ぎてるから、第三者が僕とのやり取りを聞いて関係を勘繰る点だが……大丈夫なのかそれ。考えれば考えるほど佐々原さんにとって不都合な事実でしかない気がする。
「その、佐々原さんは良いの?多分、というか絶対女の子に見られると思うんだけど……より言うなれば僕の彼女なんて思われるかもしれないんだけど……」
「わたしは名前で呼ばれたいです……それに、そう思われてもしょうがないです。全部、わたしが紛らわしい恰好をしているの原因ですから。そのことは気にしないでくれると……」
「そう言うんなら、分かった。じゃあ───由樹」
「……はい!」
嬉しそうに返事を返す佐々原さんに僕は少し首を傾げる。なんか違う気がする。
「いや、由樹さん?由樹ちゃん?それとも由樹君?」
「え、ええ?」
「なんかピンと来ないんだよな。呼び捨てにするの」
違和感を前に僕は頭を悩ませる。何でかと脳内を洗い出せば黄ばんだ歯でニヤリと笑う細川の姿。そう言えば僕はアイツやクラスの友人を全て名字呼び捨てで呼んでいる。だからと言うか、そんな彼らと同系列で呼称してしまうことに忌避感のようなものを感じたのかもしれない。自分でも不思議だが。
ただそう考えてみてもパズルのピースが嵌った感覚は無く、思考は空を切る。
「わたしは呼び捨てされる方が……何と言うか……性に合うというか。菜崎さん、年上ですし」
「でも、うーん」
由樹、と心の中で呼ぶとやっぱりこれじゃない感が溢れ出す。
……それとも、もしかすると。
僕の脳内にあった些細な引っかかりが小さな穴を完全に破壊し、間欠泉みたいに吹き荒れた。
───これは、真剣な話だ。
僕は佐々原由樹のことを、限りなく美少女に近い存在だと考えている。だからこそ佐々原さんに対しては他の連中と違ってさん付けで呼ぶし、男子校連中を相手にするのと違って雑なあしらい方もしてない。限りなく、僕にあまり馴染みの無い性別である女の子に近いから繊細な扱いをしている。
しかし考えてみれば矛盾している。だって佐々原さんは男だ。どれだけ取り繕ったとしても身体も心も戸籍上だって男だ。
そして、男相手なら呼び捨てにすれば良かったのだ。佐々原、と何の気負いもなく名字で呼びかければ良かったのだ。いつもの僕ならば絶対にそうしていたし、年下なんだから敬称なんて付ける理由だってない。にもかかわらず僕はそれをしなかった。
つまり。辿り着くのはどうしようもなくしょうもない結論。
僕は未だに佐々原さんが男であることが信じ切れていない、なんて本当に馬鹿みたいな理由から、そんな小細工をしていたのだ。きっと僕は上辺で男だと理解はしていても、心の奥底、自分ですら分析するのに時間がかかる深層では納得していなかったのだ。
そう思って、結論と同じくして去来した温度の無い暗澹たる虚無感に身がピクリと震える。身体のあちこちを針で突かれたかのような、自責の念。
「どうかしましたか?」
「……いや、何でもない」
「そう……ですか」
一言も喋らない僕を心配して声を掛けてきた佐々原さんに、譫言の如くそう返して、再度思考の海に潜る。
確かに、ナンパをしてその後事実を告白されるまでは僕は佐々原さんのことは女の子だと思っていた。それまでは意識的に異性と認識していたし、思い返せば無意識に他の友人とは異なる扱いをしていた。
しかし男だと知った後でも無意識では未だ異性を相手取るように柔らかい言葉遣いをしている。
割り切れていない。そう僕は思う。
違和感の正体はまさにこれだ。結局僕はありもしない何かに期待してしまっていたのだ。
佐々原さんが女の子だったならこんなこと考える必要性は無かっただろう。きっと普通に好きになって、甘酸っぱい青春ラブコメの如く恋愛していたかもしれない。だが男だ。同性だ。同性と恋愛というのはハードルが非常に高い。僕には乗り越えられない程の巨大で強大な壁。万に一もない。
……絶たねばならないだろう。互いの為に。この感情を。
「分かった、由樹ってこれから呼ぶよ」
噛み締めるように唇を震わせる。元々僕の表層的な部分では男だと理解していたからか、思っているような衝動もなくすんなりと心に浸透する。
たださっき僕が躊躇ったからか由樹はポカンと口を開けて、目を見開く。
「え?良いんですか?」
「ああ。大丈夫だから。自己解決した」
そう言うと安心したように由樹は笑みを湛える。すると幾許の時も経たない内に表情を浮かない物へと変え、由樹は再び口籠りながらもじもじと手を合わせた。
「……あの、宜しければ、わたしも菜崎さんのこと名前で呼んでも良いですか?」
「別に良いけど……因みに覚えてる?」
「勿論覚えてます!天麻さんですよね!」
興味半分意地悪半分で訊ねてみると、鈴を鳴らしたかのような澄んだ声で返事が来た。最初の自己紹介以来僕の名前なんて聞いていないはずだが覚えていたみたいだ。
「天麻さん……。何というか名前で呼ぶと更に親しくなったみたいで、心がポカポカします!」
「んな大袈裟な。でも口が慣れてないから、少し緊張するのは確かかも」
普段妹の天夏を除けば人を名前で呼ぶことなんてしないからか、口にするたび声音が乱れて若干のノイズが走る。何だか年上として恥ずかしいが……まあ呼んでいる内に追々慣れていくはずだ。
「あはは……。そうかもしれないですね」
「ああ。そう言えばコンビニとかスルーしちゃったけど喉乾いてない?」
「はい、大丈夫ですよ。て、天麻さんはどうですか」
「僕も大丈夫。じゃあ普通に行こうか」
通り沿いのコンビニを見て、気兼ねなしに声を掛けてみたがどうやら問題ないようだ。まあまだ歩き始めて数分だしそれもそうかもしれない。
1月の寒さに身を震わせながらどれも同じようにしか見えない家々の狭間を抜ける。駅から少し離れただけで人通りはほぼ皆無となり、偶に通りかかると僕と由樹のことを珍しいものを見るかのように視線を向けてきた。見た目カップルのような二人組が元旦に何もない住宅街を歩いているのは浮いているのだろう。由樹もその時たま向けられる視線に気付いたみたいで、僕の袖を引っ張ると困ったように笑った。
ぽつぽつと会話している内に神社へはすぐに着いた。
「ここだね。あんまり大きくないけど……うん」
メジャーな神社と比べるとかなり小さい。境内の面積はサッカーコートくらいの大きさで、ただ幸いと言うべきか、正月だというのに人で賑わっている様子はなかった。由樹の要望通り、人混みの少ない神社に案内できたみたいでホッとする。
「静かで良い場所ですね……憩いの場って感じがします」
鳥居をくぐって境内を見回しながら由樹は言う。
一応作ったとばかりに適当に置かれた色が剥がれ欠けている木製のベンチや、脇に置かれた無人のおみくじ売り場。昔来たことはあるけど、その時から変わらずローカル感抜群の場所だな。
「取り敢えず参拝しとくか」
「そうですね」
初詣なんだから当然である。
小柄な社殿の前に立つと財布から五円玉を取り出す。本年二度目の神前、と畏ましく考えてみたが特にこれと言って思い浮かぶことは無い。自分でも罰当たりなほど神やら仏様への信仰なんて無いらしい。
「えーと、二礼一拍二礼でしたっけ?」
「ちょっと違う。二礼二拍一礼ね」
「あ、そうでした……!」
由樹は僕に訂正されハッとした表情を浮かべた。一年に一回しか機会もないし、うろ覚えになる気持ちは分かる。何なら僕も初詣行く前に毎年調べるくらいだ。全く分かないよ、何で二礼なのか何で二拍なのか、何で最後に一礼するのか。神社での作法ではあるが結局そんなの人間が定めた決まりでしかなく、それが何故最も神様を敬う行為になるんだろう。多分そんな疑問を持ってるから毎年決まって失念する。
五円玉を由樹と一緒に投げ入れて、けたたましいだけの鈴を鳴らし、冬の風に晒され乾いた手を叩いて、形だけの礼をする。
二秒ほど目を瞑って顔を上げると、少し遅れて由樹も顔を上げた。
「どんなことを願いました?」
「願いなぁ……ごめん、何も考えてなかった」
「あれ、そうなんですか?」
そういや礼をしている間に願い事を考えればそれが叶う、なんていうのもあったっけ。全然記憶になかったな。
「由樹はどんなことを願ったんだ?」
「わたしですか?えっと……言いたくないです」
顔を薔薇のように赤く染め、プイっと背けた。まあ中学生男子と言えば思春期だもんな~言いたくない願いの一つや二つはあるか。モテたいとか有名になりたいとか、色々と。うんうん分かるぞその気持ち。
「言いたくないならしょうがないな……お、そうだ。おみくじとかどう?」
「あ、良いですね」
好意的な返事も貰えたので早速おみくじをやることにする。
簡素な木箱の中に百円玉を投じて、おみくじを引いた。
「……中吉か……微妙すぎる」
金運期待するな。待ち人はまだ来ず。全体的にしょっぱい内容だ。
「わたし大吉です!」
「えっ凄い」
驚嘆の声を上げる由樹の手元を覗くと、確かにくじには大吉と印字されている。別に羨ましいとかは思わないけど何と言うか、少しだけのその運勢分けて欲しい。
「これって結べばいいんですか?」
「確か、悪い運勢だったら結んだ方がいいけど良い運勢ならお守り代わりに持ってても良かったはず」
「なら持っておきます。て、天麻さんとの初めての初詣ですから……」
しんみりと言って由樹は大事そうにそっと握り締めた。友人がいないと本人も言っていたし、家族以外とこうやって来るのは初めてなのかもしれない……だからってそんな宝石でも触るみたいに慎重に扱わなくても良いと思うんだけども。
「さて……この神社で出来る初詣って言うとこのくらいなんだけど。これからどこか行きたい場所とかある?」
まだ時間は昼下がり。暗くなるには十分時間はある。
ただ何気なく聞いてみたけどやっぱり時期は正月、営業してる店は少ない。
「ええと、ゲームセンターとか……」
「やってないって」
本気で言っていたのか、由樹は残念そうに肩を落とした。どんだけゲーム大好きなのか……いや、親しい人とゲームをしたいだけなのかもな。そう考えると健気に感じるような感じないような……。まあ元旦にやってるゲームセンターなんてこの辺りには無いんだけども。
「あっ!そうですよね……元旦ですもんね……残念です。すっごい残念です……」
「そんな無念そうに言わなくても。また今度行こう、な?」
「行ってくれるんですか?絶対ですよ?約束破ったら針食べてくださいね?」
「えっ?」
「あ、え、あ!安心してください!わたしがチョコで針作るので」
「いや可愛いかよ」
完全な冗談に僕が面食らってしまって呆けたから由樹は慌てたのだろう。フォローの仕方が滅茶苦茶可愛らしい。そしてまた頬を上気させる姿で可愛いが二連鎖してる、可愛いのぷよぷよだ。その内意図的に六連鎖くらいして僕の理性をバタンキューさせてくるのかもしれないな……頑張れ僕の無意識! これは男だ……!
拳を握って内心に活を入れていた僕を由樹は不思議そうに見つめて恬淡と首を傾げると、何故か頷いた。
「あの。もう一つ、行きたいところがあるんですけど……」
「えーと、どこ?」
「銭湯に行きたいです」
「戦闘ゲーム?」
「銭湯!」
えっと。
…………えっ?
─── ─── ───
銭湯といえば裸の社交場だ。互いに恥部を曝け出して同性の友人と文字通り裸でやり取りすることによって親交を深める場所だ。
そう、同性の友人。重要なのはその点。
ここで僕の中にロジックエラーが生じたのだ。果たして佐々原由樹は男なのだろうかと。
本人の言葉を信じていなかった訳でもないし、或いは無意識ではともかく意識的に女の子と思っていたわけでもない。それでも男だとは1ミリもどころか38万キロくらい、月と地球は実は科学的に同じ大きさなんですよ?と偉い物理学者に言われているくらい信じられないほど由樹には女の子要素がある。ありすぎる。顔付きは女子、身体だって男らしく角ばってないし二の腕は処女雪みたく白くてぷにぷに。変声期を迎えてないとはいえ男を魅了する、いわゆる萌え声に分類されそうな声帯。ますらおぶりというよりたおやめぶり。僕じゃなくても女の子と勘違いする人間を量産して玉砕させる思春期男子絶対殺すボーイライクガール。それが僕の知る佐々原由樹と言う存在だ。
そんな彼を銭湯に連れ込んでしまっていいものだろうかと悩む。
だってそれは明確にセクハラだ。それを超えてセクシャルテロだ。由樹自身も心配だし、それ以前にもし小さな子供とかいたら確実に教育に悪い。性癖が歪む。僕でも危ういのに僕以上の若人がこの空気に耐えられるかと言えば否。絶対に性癖に追従して思想とか趣味嗜好まで歪む。それは由樹の友人である僕としても非常に忍びない。
「だからさ、振袖着てたのに銭湯なんてどうかなぁって思うんだけど」
「でももう銭湯の脱衣所に来ちゃいましたし……途中でレンタル屋さんに返してきましたし……」
「それにほら、由樹って肌白いしさ。38度のお湯になんか浸かって大丈夫?火傷しない?アイスみたいにドロドロ溶けたりしない?」
「わたしどんな心配されてるんですか!?」
だがしかし、どうやら僕はいよいよ覚悟を決めなくてはならないみたいだった。
振袖で銭湯は着替えが無いから無理だと言えば、それはレンタルした店に返すから大丈夫と言って本当に返しに行っちゃった上に「えーと……彼氏さんですか?その、私情ですけど私、世間的には難しいかもしれませんけど応援しちゃいますから!」と要らぬ鼓舞を受けてしまった。銭湯は正月だからほら、開いてないんじゃないか?と言えば由樹のスマホのグーグル先生曰く営業中で、行ってみればホントに開いてるもんだから肩を落とした。その他に理由をつらつらと並べてみても由樹の意思は強いみたいで最後には「わたしと同じお湯に入るの……もしかして嫌でした?」とちょっと泣きそうになりながら言うもんだからお手上げだった。
それでも抵抗を諦められずに無理筋の言い訳をしていたが、もう限界である。水際でじたばたしても意味なんて無い。由樹相手には僕も強く出たくないし、というか男が男風呂に入るのは当然なんだ。大丈夫。大丈夫……だよな?
「わたし、銭湯って初めてなんですけど……ちょっと恥ずかしいですね」
「えーと、脱ぐの?」
「脱ぎますよ?」
自分から言っといて何だが変な会話だと思う。でも僕の懸念は当然の物であると声を大にして言いたい。
振袖を脱いで私服に戻った由樹のそれは女性用のものではなかった。かと言って男性的な服と言う訳でもなく、敢えて言うなれば中性的なそれだ。どちらの性別の人が着てもそれなりには似合う、そんな簡素なデザインな服。つまり初めて会った時の女装ではなかったということである。それでも依然として美少女っぷりが輝いているのは由樹クオリティーなのかもしれない……ホント、良く番台さんはこの子通したよな。もうひよこ鑑定士になれば良いのに、と思わず内心で皮肉が飛び出す。
コートを早々に丁寧に折りたたんでカゴへ入れると、由樹は自分の服を掴んで両手を天井へと上げ、そのままシャツを脱ぎ去った。今由樹の身を守るものは白い下着のシャツと、黒いチノパンだけ。当然だがブラとかはしてないみたいで……なんて、そんなことについてばかり堂々巡りしている自分の思考回路が嫌になってきた。ここに来てから酷く俗的な事ばかり考えている気がする。
そんなことを思っている間にも僕の身体は勝手に動いてたみたいで、完全に生まれたままの姿へと相成る。我ながら中肉中背、自慢も出来ない普通の帰宅部の身体だ。貧相と言っても良い……こうして人の目のある場所で脱ぐと少しネガティブになるんだよな。鍛えようかな、マジで。
「あの、変じゃないですか……?」
と、自分の身体をライザップするかどうか考えていると意識的に見ないようにしていた由樹から声が掛かる。僕の首は錆びついた百年物の歯車みたいにガチガチとそちらへと動いた。
裸で変とか無いだろ……ましてや由樹に限って!!
強く思いながら、僕は想像通りの光景を目にする。
染み一つないしなやかな肢体は余分な筋肉を削ぎ落したかと思わせ、しかし男である証左を示すように胸筋は僅かにある。ただ何と言うか、全体が女性的な身体っぽいせいであまり目立たず、加えてツンと立っている乳首は淡い桜色なのもあって真剣に女性にしか見えない。と言うか目に毒だ。下半身に男の証が付いてなければ誰もが認める貧乳系女子だっただろう。
「……うん、ああ、掛けるべき言葉が見つからない。と言う訳で僕は先に浴場に行くとするよ」
どれだけ女の子っぽくても女の子かどうかは俺が決める事にするよ。
最強語録で精神をカスタマイズした僕は無敵になったので由樹を無視して先に浴場への扉を潜る。由樹も「ま、待って下さい……! 何です今の言葉!」と何かを言いたげに僕の直ぐ後をぺたぺたと歩く。
地元の銭湯だからか、浴場はあまり広くは無かったから大して労力をかけず全貌を把握できた。
シャワーが十個ちょっとあって、大きめの浴槽が一つ。それだけだった。正月だからか他の客はいない……ふぅ、マジで良かった。これなら公衆への影響はない。
「誰も居ないですね……あっ、という事はわたしと天麻さんの貸切ですよ!」
「そういうこと言うなよ! 何だかいけないことしてる気分になるだろ!?」
「いけないこと……ですか?」
やべ。完璧に失言だった。
幸運なことに由樹には想像の及ばない発言だったのか、反芻したきり特に表情を変えない。軽蔑されてもおかしくない言葉だった。反省しよう。今度は心の中で言う。
会話を打ち切ると、椅子に座って身体を洗う。その間は互いに無言だった。多分僕から何も話を切り出さなかったからだ。由樹は基本的には物静かな方で、自分から話題を振ることは多くないし、振る時も少し無理をして感じがした。シャワーを浴びてリラックスしてるんだと思う。
さっさと洗い終えると無骨な石で作られた風呂へ足先から入って、お湯の暖かさで思わずほっと心が緩む音がした。そのまま上半身まで浸かって、自然と身体から余分な力が抜ける。最高だ。正月の寒波で冷え切った内臓に熱が戻る感覚。今、最高に入浴してるって感じがする……!
「あの、お隣、お邪魔します……」
30秒くらいそのまま蕩けていると、洗い終わった由樹が波を立てて僕の隣へとちょこんと座る。
濡れて滴る髪に熱湯を浴びて上気した頬、身体に纏わりついた水分は照明の光を反射している。ちょい待って欲しい。艶やかすぎる。やっぱこれは女の子……! と思考が大分おかしくなり始めたので反射的に由樹の下半身に目を向ける。
「あの、どこ見て……!!」
由樹はさっと手を動かしてその部位に隠したが、その前に僕の目は獲物を捉える。
うん、男だな。安心した。心底安心した。安心した代わりに何か大事なものを失った気がするけど気にしちゃならないと僕は思う。
でもこのままだと僕がさながら年下の友人の下半身をウォッチングするだけの変質者に思われそうなので弁明はする。
「違うんだ由樹。ちょっとした好奇心だったんだ。一物が好きな訳じゃないんだ」
「……変態ですか?」
「違う。違うって。本当に違うんだって。だからそんな性犯罪者を見るような目をするのは勘弁して、僕は心が辛い」
ジト目で顔を逸らさずに視線を合わせてくる由樹に思わず目を閉じる。ダメらしい。
次に目を開けると、由樹は口籠って言いにくそうなことを口にする直前だった。
「え、ええと……。嫌だったわけじゃないんですけど……。嬉しいというか、怖いというか、悲しいというか……ううっ。上手く言葉が纏まらない……」
「え?嬉しかったの?」
「それはまあ……あの……ええと……」
どういうことなのか……。
バグったみたいに感動詞を連発する由樹に「大丈夫、僕は気にしてないから由樹も気にしなくていいからな」と言えば「はい……」と恥ずかし気に手で顔を覆いながら答える。よし、上手く誤魔化せたみたいだ。我ながら最低なカバーだな。
とはいえ。
気にしてないとは言ったものの、それは気になるという好奇心と別の感情だ。
嬉しいとか悲しいとか怖いとか、どうしてそんなことを思ったのだろう。少なくとも僕は見られて嬉しくはならないし、怖いとも思わない。
……いや、一つ気になったことがある。
「由樹ってどんな女の子が好きなんだ?」
「女の子ですか?その、好きって言うのは」
「勿論恋愛的な意味で。ほら、ここには僕たちしかいないしボーイズトーク出来るだろ?ちょっと気になったんだ、由樹って女装してもしなくてもあまりにも男に見えないから」
そう言ってみれば、固く口を噤んだ。
考えたことが無いのか、悩んでいるのか、由樹は10秒以上沈黙を作る。僕も尊重して無言を守った。湯がタイルを打つ音だけが響き渡る。
そして返ってきた言葉はインパクトはあるが、腑に落ちるものだった。
「わたし、まだ可愛いと思える女の子に出会ったことが無いんです。こう言うとナルシストみたいになるんですけど……えっと、わたしって本物の女の子とも戦えるほど可愛いと思います。天麻さんと出会ってから確信しました。だから、その、女の子に恋愛的にも友愛的にも好きだと感じたことはありません……!」
物凄いカミングアウトだ。でも由樹が言うとホント、説得力がある。
ただもうちょっと聞いてみたい。
「じゃあ好きなタイプとかは?」
「……清楚で小顔で身体が小さくて可愛い系の女の子です……恥ずかしい」
それ、自分のことなんじゃ……というぶしつけな言葉は飲み込んだ。確かに僕もそのカテゴリで由樹より可愛い女の子がいたら見てみたい。
「あ、あの! 天麻さんはどんな方が好きですか?」
考えていると、意を決したように由樹は唇を戦慄かせる。思春期だからな直接的に異性の話をするのは恥ずかしいのか、いや、それとも……。
「僕はまあ、敢えて挙げるなら性格が良い人かな。因みに由樹も今度から親しくない人にこういう事を聞かれたら覚えておいた方が良いよ。性格って言っとけば大抵お茶を濁せるから」
「性格ですか……」
「まあ僕の場合嘘でもないんだけどさ。下世話な話、容姿は良いほど良いし、性格も同じ。でもどっちともそこまで大事な要素じゃないんだ。結局、人っていうのは好きになった人が好きなんだと思ってる」
というのは全部持論だし、誰かに押し付ける気も無い。それに自分でも思う、これは完全にロマンチストの意見だと。
容姿が良いから好きになるかもしれないし、性格が良いから好きになるかもしれない。或いは好きになってくれたから好きになるなんてのもあるだろう。社会には互酬性の性質があって、個人間でもそれは当然適応される。
だから結局は好きという感情は自分では管理できないのだと思う。きっと気付いたらそうなってるんだ。
「あの……もしかして既に経験が……?」
「いや?僕は男子校だよ。機会なんて無いって」
「そうですか……凄い見識を持っているのでもう恋愛経験とかあるのかと」
あ、それも無い。そう言いかけて口を慌てて閉じる。……経験って言われて童貞の方を考えてしまった。どう考えても短くない男子校生活での経験が僕の常識を殺そうとしている。なんせ朝からスマホでAVを集団鑑賞する生徒たちがいる教室なのだ。確実に社会悪である。消えるべし男子校。
「なるほど……そういう考え方をあるんですね。タメになります」
「飽くまで僕の考え方だから全面的に信用しないでね。こういうのはきっと十人十色に感性が違ってくるからさ」
一応そう言い含めておく。由樹の雰囲気から全部丸っと僕の考えをコピーしてしまいそうな危うさがあった。
まあそれは良いかもしれない。今、僕の中で危惧しているのはそれじゃない。
───由樹は僕に。恋愛感情を持っているのかもしれない。
そんなことを今日一緒にいて、思ってしまったのだ。
そして、その考えは季節を一つは挟んで見事に当たる。
明くる春の日、僕は由樹に告白された。