二度目の初詣にて(1/2)
佐々原さんと出会って一ヶ月が経った。年は明け、街並みはすっかりクリスマスなど忘れて門松が立ち並び、琴の音が町内スピーカーから流れている。
佐々原さんとはアレ以来一度も会っていない。年末には定期試験があって互いに忙しかったし機会が無かったのだ。まあ僕は勉強なんてほぼしてないんだけどな、勉強するフリをしてゲームで遊ぶのは学生に許された特権だ。なのでテスト結果に関してはノーコメント。
ただ会う代わりと言うか、頻繁に携帯で連絡は取ったりする。主に佐々原さんからメッセージが来る。「今日何してましたか?」とか「暇な日があればお昼でも一緒にどうでしょう?(可愛い絵文字)」とか送られてくる。……あのさ、本当に男の子なんですよね?文面は完全に女の子して送られてくる度にハラハラするんだけど。絶対生まれるべき性別、間違ってるって。
佐々原さんと会いたいと思っても年末年始は流石に我が家も暇じゃない。1月1日は言わずもがな、3日以降ともなれば親族一同集まって年始の挨拶を交わす場が設けられて、必然的に菜崎家の長男として僕も出席しなくてはならない。場所はここから500km以上離れた親の実家になるから新幹線での2泊3日の帰郷になる。ぶっちゃけお年玉が無かったら非常に面倒でしかない行事の一つだったりする。
しかし今日、1月2日は微妙に暇な日だった。明日から泊まりということでキャリーバッグに荷物を詰め、早々に手持ち無沙汰になるとリビングのソファーでスマホを眺めていた。
一応友人ということになっている細川に『おい、王が暇だが?』とダル絡みしてみるが反応は無い。あんな阿呆とは言え残念ながら奴も人の子、親族関連のイベントを前に席を外しているのかもしれない。たくっ、肝心な時に使えねえな、と内心舌打ちしているとドタドタと床を走ってくる足音。
「お兄ちゃん、どうどう?和風の服装と書きまして和服だよじゃ〜ん!」
明日の親族集会を前に、妹の天夏が深い藍色で染められた和服に身を纏わせてソファで寝そべる僕の前に躍り出た。和服と聞いて振袖かと思って見れば浴衣……完全に時期が間違っている。丁寧に自己管理されてる肩まで伸びた黒い髪は最近切ったのか、年末の時より短い気がする。何か気合入ってるな、年始だからテンションが上がってるのか。
……うん、まあいいんじゃないか。
とか正直な感想を言うのは癪だったので、僕は穿った見解を述べることにした。
「顔可愛いし胸ちっさいから似合ってるな」
「折角前半部分で上がった好感度がセクハラ発言で相殺されちゃったよお兄ちゃん。そんなんだから彼女の一人も出来ないんだよ」
意外と相殺で済んだらしい。良かった月並みとはいえ褒めといて。これが深夜アニメなら「ば、馬鹿変態クズ!?」とか言われつつ殴られてた。
「男子校だからな。出会いなんて普通欠片も無いんだよ」
「それ、大学生になっても「高校時代に女子いなかったから距離感バリ分かんね〜わ、世界で一番モテて〜ぜ!」とか言っちゃうパターンだから気を付けてね」
「言わねえよ!」
ジト目で見返す。何だその少年誌で主人公の友人にいそうな性欲忠実キャラは。いつからこの妹はこんな残念な思考回路に染まったんだ……。
そもそも、それを言うなら天夏だってそうだろ。中学生とは言え、彼氏の一人どころか男友達の影も無い。
「大体お前も男友達いないじゃん。一々僕を少女趣味のグッズばっか売ってるショップに引っ張り出そうとしやがって……」
「だって一人で行きたくな〜いもん!」
「もんじゃないから。友達と行けばいいだろ」
「友達にそういう私の一面見せたくないんです!」
「面倒くさい妹だよなお前って」
「妹は古今東西至極当然貝砂利水魚に面倒くさい生き物なんですー」
ぷくーと膨らませた頬が雪見だいふくみたいだった。
面倒って自覚はあるんだな。それは良いことだ、何せお前って本当に面倒だし。構ってムーブをスルーすると数日不機嫌になるし、良く分からない刹那的な衝動で行動する時あるし、偶に本当に意味不明に機嫌損ねるし。僕が兄貴で良かったな天夏、じゃなかったら愛想尽かされてたぞ?
自画自賛していると、相変わらずソファでダラダラする僕に天夏は首を傾げる。
「てかお兄ちゃん、補習大丈夫だったの?去年はそれで課題の山だったよね」
「思い出させるなよ……」
「あ、これ分かった。駄目だったパターンだ。また赤点職人な結果に終わったんだ。なんて残念なお兄ちゃん……」
人を赤ペン先生みたいに言うな。
うるせえ、と小声で返すが天夏は「私は成績オール5なので効きませ〜ん」とドヤ顔でリターンエース。小娘が調子に乗りやがって……!
「全く……私を見習ってよお兄ちゃん。私なんか通知表に「天夏さんは破天荒ですが基本的には大変真面目で勉学に対する姿勢も素晴らしいです」って書かれてるんだよ?」
「うっせ。てか破天荒って言われちゃってることに兄としては疑問を持ってほしい」
「細かいことは気にしな〜い」
ここまできっぱり開き直れるのは最早才能なのかもしれない。これは将来こいつと付き合う男が非常に苦労しそうだな……一応兄として応援はしておこう。南無阿弥陀仏。
すると、天夏との会話で視線の外に外れていたスマホがブルブルと震え始めた。細川からか?と思ってディスプレイを見たら違う。佐々原さんだった。
「え、お兄ちゃん誰から?」
「……友達だよ、ちょっと外すな」
ソファから起き上がるとリビングの端へと移動する。佐々原さんは女の子ではないとは言え、変に勘違いされても手間である。見た目も女の子なのに声もそうなんだからなぁ……最早女の子以上に女の子しているのかもしれない。
『あ、え、ええっと……もしもし?』
通話ボタンを押すと緊張したように強張った佐々原さんの声が聞こえてきた。僕との電話自体はもう何度もしているんだが、未だ上手く慣れないみたいだ。
「もしもし。佐々原さん、こうして話すのは年末ぶりだよな」
『は、はい』
「あ、そうそう。明けましておめでとう、今年も宜しくお願いします」
『よ、宜しくお願いします!』
早口で言う様に脳裏で佐々原さんが言葉に合わせて頭を下げている光景が思い浮んで、つい苦笑してしまう。何だか本当にやってそうだ。
「それでどうかしたの?佐々原さん、大晦日から実家って聞いたけど」
年末にした電話で佐々原さんが大晦日から元旦まで茨城の実家で過ごすことは聞いていた。
おずおずと言った口調で佐々原さんは話す。
『あ……もしかしてお忙しかったりしましたか?』
「いや、僕は丁度暇を妹で潰していたところだから大丈夫だけどな。佐々原さん、親の実家に帰省するって聞いてたからその間は忙しいんじゃないかなぁ、と思ってたんだよ」
『そのことなんですけど……実は父が風邪を引いてしまって、実家に帰省するのは中止になったんです。それでその……時間が空いたから一緒に初詣とか、どうでしょう、と思って……』
滔々と、恥ずかしげに言葉を区切りながら佐々原さんはそう言った。
初詣の誘い。僕はもう「お兄ちゃん行こうよ〜行こう行こう行かなきゃ損だし勿体ないんだから!」とせがまれてなし崩し的に妹と昨日行っちゃった訳ではあるが、折角佐々原さんが勇気を出して誘ってくれたんだ。男としてそれは答えなきゃならないだろ。神様だって一度より二度来てくれた方が信心深く見えて嬉しいはずだ。
「今日、今からなら良いけど……」
『本当ですか……!?』
「うん。明日は早いから夜までいるのは無理だけどそれまでくらいなら」
『是非、行きましょう! わたし、新しく導入された筐体で面白いゲーム見つけたんです!』
ウキウキが声音で溢れ出す佐々原さんに僕は苦笑いになった。初詣の話だよな?何でゲームセンターの話になったんだ。ゲーム大好き佐々原さんじゃん。
それから佐々原さんと待ち合わせ場所について話すと、電話を切って一息つく。すると、ちょこんとソファーから此方を覗くようにじろじろと観察する妹の姿が。
「……何だ?」
「い、いや~。お兄ちゃんがね~……いつ知り合ったの?てか彼女?」
「聞いてたのか?」
「バッチシ。可愛い女の子の声だったね。な~にが男子校だからうんぬんかんぬんなの、やることはやってるじゃん!」
「やってねえ!彼女じゃないし、それ以前に今のは相手は男だって」
「ちっちっち。照れくさいからって嘘はダメだよお兄ちゃん。特に妹に嘘を吐いたら偽証罪で懲役100年+一ヶ月間おやつ抜きって憲法で決まってるんだから!」
「前者が後者に対して重すぎるだろ。どこの国の憲法の話だよ?」
「菜崎家に決まってんじゃん」
「ウチは独立国家か何かか?」
私興味あります!と言った双眸を隠さずに天夏は詰め寄ってきた。恋に恋する思春期ど真ん中の女子中学生はこういう時厄介だ。美味しい餌を見た瞬間に水を得た魚みたいに根掘り葉掘りと聞き出そうとしてくる。そういうのは友達同士間でやっていて欲しいと真に思う。
「私にも遂にお姉ちゃんが候補か~。あ、今から行くんでしょ。その人……私からすれば先輩?まーいいや、天夏が宜しく言ってたって伝えといてね」
「知り合いでも何でもないだろお前……まあいいけどな」
伝えるだけ伝えておこう。多分「……はい?」みたいな反応が返ってくるだろうけど。
天夏の会話を打ち切って外に行く準備をする。と言っても所詮は近場、持っていくものなんて精々が財布と携帯くらいだった。
普段着に厚めのキャメルのコートを羽織ったラフな格好で僕は外に出た。
────────
待ち合わせ場所に選ばれた駅前は当然と言うべきか人の姿は疎らでほとんどいない。正月独特の空気感だ。1月2日だとまだほとんどの店はやっていないし、車の通りも普段の半分未満。まるで世界が少数の人間を除いて不完全に止まってしまったような、小説の主人公を思わせる中二病チックな気分に浸ってしまって、でもそれは年頃の高校生ならしょうがないだろ、と自分に言い訳しつつ寒さで悴む両手を擦り合わせた。
駅の切符売り場の前に着くと、僕は柱に寄り掛かってスマホを取り出した。ざっと確認してみたが佐々原さんはまだ来ていないみたいだ。僕の他に待ち合わせしている人はおらず、寂しく一人で立ち尽くす。
そうして寒さに震えながら5分ほど経っただろうか。
暇を持て余した僕はスマホでニュースを見ていると「お、遅れてごめんなさい……!」という綺麗な鈴のような声音が耳を打った。
「いや、そこまで待ってな……」
言いながら視線を上げて、僕は言葉を途中で切らした。そこにいたのは美少女だったのだ。
相も変わらず澱みの無い銀髪に人を魅了する瑰麗な相貌。加えて何より服装がこの前とは違う。花柄の模様が入った赤色の振袖だ。恥じらうように振袖と同じ色に赤らめた顔を若干斜め下に向けながら、御猪口みたいに小さく口を開く。
「どうですか……思い切って着てみたんですけど……」
「ええと……掛け値なしで可愛いと思う」
「ほ、本当ですか……!?わたし、自信無くって……でもそう言ってくれたなら着た価値がありました!」
依然として頬は紅潮しつつも、佐々原さんは嬉しそうにはにかんだ。……ちょっと待て、僕まで直視できないんだけど……!何この正統派美少女っぷり!本当に男性なんですかね!?マジで一歩間違えたら性別の壁をひとっ飛びしそうな自分がいて怖いんだけど!
中二病みたいにヤケに疼く左腕を右腕で抑えつつ、にやついて気持ち悪い表情になりかけるのを根性で笑顔へと歪ませる。
「じゃあ、早速だけど行こうか」
「はい!」
佐々原さんは気合の入った返事───格好も気合入ってるが───をすると、左手を僕へと差し出した。ええと……どういう?
握手かと思って取り敢えず握ってみる。スベスベとしてて温かくて柔和な感触……って完全に男に抱く感想じゃないぞこれ。でも多分僕の感覚が正常で、佐々原さんがおかしいんだ。
にしても何の反応も無い。次ににぎにぎとしてみると「あっ……は、はずかしい……」と羞恥に濡れた声を出されて「わ、悪い!」と慌てて離した。安易に行動した僕が悪いけど佐々原さんの艶やかな声もどうかと声を大にして言いたい!
「あ、あの……握手じゃなくて手を……」
「繋ぎたかったの?」
小さく首を縦に動かした。再三言ってるがもう一度言おう。何この可愛い生物。本当に僕と同性か?
久しぶりに会ったからか、佐々原さんが一層可愛く見える。男なのに。さっきは佐々原さんがおかしいと思ったがもしかしたら僕も相当ヤバいのかもしれない。何故ならたった今この瞬間にも佐々原さん以上に容姿に秀でている女の子なんて殆どこの世にいないと思い始めている。違った。男の子だった。
「その……嫌でしたら……」
「いやいや、分かった。ならエスコートは任せて欲しい」
僕は佐々原さんの手を取る。普通なら野郎の手なんざ嬉しくないだろうに、佐々原さんは僕の右手に掴まれた瞬間ヒマワリのような笑顔を顔に作った。マジで勘違いする一歩手前です、誰か僕の頬を全力でぶん殴ってくれ。
「えーと、やっぱり混んでない神社が良いよな?」
「そうですね……この格好をクラスメイトに見られるのは少し」
「分かった。じゃあ電車で行こうか」
確かに、クラスメイトにその姿を見られるのは憚られるよな。
この辺の地理を脳内でブラウジングして目的地は直ぐに決まる。五駅先にある神社だ。そこならこの駅周辺の学区に住んでいるはずのクラスメイトに見られることもなく、人もさして多くないだろう。何せマイナーな神社だ。ご利益も金運恋愛成就健康仕事厄除け学業、その他諸々何でもござれ!といった何処かの激安の殿堂みたいに大量に仕入れてる神社だから外れも無い。チープ感は否めないが。
交通系ICカードを改札に翳して、タイミング良く止まっていた電車に乗り込む。始発駅というのは便利だ、普通なら30秒ほどしか猶予が無いが始発駅なら5分以上は停車しているから電車に乗り込みやすいし人も少ないから座席にも座りやすい。
「あの……どうでした、会ってない間の一ヶ月」
「うーん、そうだね。控え目に最悪だった」
佐々原さんは座ると、気を遣ったように唇を動かす。
12月の半分は憂鬱なテスト期間で潰れ、クリスマスも当然完スルー。敢えて言うなればイブから聖夜まで夜通し友人と徹夜麻雀をしただけだ。今回もまた勝った奴の命令を一つビリが聞くという賭けをして、運の収束か何とか一位になることが出来た。お誂え向きにビリは細川、当然下す命令は決まっていた。聖夜の街頭でナンパである。僕は前回の雪辱を果たした。
ただそれを除けば赤点補修がほぼ決まってしまい春休みが消失してしまったので全体的には太平洋も真っ青なほど気持ちはブルーだ。それに、成績が悪いということで大学への付属校推薦も危うい。このままだと基準に満たない可能性が高いとか担任にも言われる始末で、ガチでヤバい。でも今年度はもうあと一回しかテストが無いから来年度から本気を出すつもりだ。我ながらガチ屑ムーブである。
「最悪……嫌なことを思い出させてしまったらごめんなさい……!」
「いや、万事僕が悪いから気にしないで。佐々原さんはどうだった?」
頭を下げる佐々原さんにいやいやと手を振る。右手は依然佐々原さんと繋がったままだ……これ、もしかしなくとも恋人と思われるんじゃ?今更過ぎるけど。
「わたしも……学校では友人がいないので……。あ、でもこの前の模試の成績が良かったのは嬉しかったです!」
「へー……勉強熱心なんだな」
「そういう訳ではないんですけど」
あれ、違うのか。凄い勢いで梯子を外された気分だ。
「ただ……あの……進学校に行きたくて」
「そっか、来年受験なんだっけ。えっと進学校?」
「……菜崎さんの学校って難しいですよね?」
「僕の学校って長谷場のこと?付属高校だから進学校じゃないし、てか男子校だから無理なんじゃ……あ。ごめん」
「い、いえ!勘違いされるのは当然というか、してもらいたいというか……」
ナチュナルに女の子扱いしてしまった。いや、どれだけ意識してもこの子を男としてみるのは無理があるって。
気を取り直して、今の言葉の意味を考えてみる。
進学校に行きたい。それには色々な動機があるだろう。同級生を見返したい、進むべき進路が見えた、大学進学に有利な位置につきたい。因みに中学時代の僕は三つ目の理由だった……今じゃ推薦すら怪しいのだが。
佐々原さんの動機は、僕の勘違いじゃないなら僕の通う学校に進みたいという風に聞こえる。
「もしかしてだけど、長谷場狙ってたり?」
「……はい。菜崎さんと一緒に通えないのは残念ですけど、大学に行けば一年間一緒に居られると思えば頑張れます」
「大学な……」
慕われてるのに悪い気はしないが、その言葉は今の僕にとって致命傷だった。僕の語尾が明らかに下がったのが不自然だったのだろう、佐々原さんと目が合った。
「どうかしました?」
「実は僕、クソ馬鹿だからさ。ウチを狙ってるってことは付属大学への推薦制度も知ってるのかもしれないけど……端的に内申がマズい」
「内申……ですか?」
「付属に上がるには4つ関門がある。外部の国語、英語、数学のテストで基準点を超すこと。加えて内申を平均3.0以上取る。最初の3つはクリアしたけど内申が全然足らないんだ」
「因みにどれくらいですか?」
「12月の中間試験前の時点で5点中の2.6点。担任からもヤバいって言われてる」
ウチの学校は付属の中では推薦条件がそこまで厳しい方ではないらしいが、それでも毎年1割弱ほどは脱落する。成績不振や関門試験で振るいに掛けられ、やらかすのだ。そして僕もその中の1割になりかけている。
「そんな……!でも今からでも頑張れば」
「僕も内申を3.0にするにはって考えたことはあるけどな。計算したらこれから全ての定期試験で3.8───つまり平均4を取らなきゃ相殺出来ないんだ」
僕はそう結論付けて、空笑いをする。
大半の生徒を上の系列大学に進学させる付属高校とは言え、考え無しを大学に進ませるほど優しくは無い。僕は浮かれすぎていた、大学へのフリーパスが手に入ったと思って凄まじく気を緩めていたのだ。その結果がこの有様なのだから笑えない。
その時、手から温かみが消える。見れば佐々原さんと繋いでいた手が解かれ、視線をスライドさせると佐々原さんはそれまで浮かべていた笑みは失せて、代わりにあるのは咎めるような痛い視線。
「何で、笑っているんですか。諦めてるんですか?」
「諦める……そうかもな。僕の学力はお世辞にも高くないし、同級生の下位10%にも入ると思う。だから無理だ。内申4ってことは全てのテストで少なくとも8割以上は取れってことなんだよ?普通、諦めて別の道を探る」
「わたしは諦めたくありません……!憧れてるんです!折角来年合格しても菜崎さんと違う道に進むなんて考えるのは……考えたくないです!」
その佐々原さんの執着心は一言で、普通じゃないと思った。
自意識過剰かもしれないが依存の一歩手前というのはこんな感じなのだろうと思う。成績に関しては本当に口答えの出来る立場ではないけど佐々原さんの言動は常軌を逸している。まるでお気に入りのおもちゃを取られそうになっている子供だ。
「僕だって佐々原のことは好意的に思ってるけど、そもそもさ。自分の進むべき道っていうのは自分で決めるからこそ意味があると思うんだ。それに仮に一緒の大学に行ったとしても学部によってキャンパスは違う……興味の無い学部に進んでまで一緒にいたいなんて、それこそ自分に対する欺瞞だ」
「そんなことは」
「あるんだよ。僕は僕の道、佐々原さんには佐々原さんの道がある。二つの道は交わることもあれば違えることだってある、でもそれが人生だ」
分かったような口を利くが、僕も人生について語れるほどの経験はあまり無い。それでも佐々原さんよりは3つ上、今日くらい先輩面しても良いだろうと自分を納得させる。
「それじゃ、わたしは……どうすれば」
「……まあ、ああは言ったけど佐々原さんが僕の高校を目指すのは良いんじゃないか」
「へ?」
「言っちゃなんだけど系列の大学はそこそこのレベルで、就職の実績も苦労しない程度にはあるしな。僕の後追いなんかじゃなくて、佐々原さんが選んでいくんだ」
ただ男子校だから異性と知り合うのは三年間無理だけどな、と茶化すように口を挟む。
「僕のことを憧れって言ってくれたよな?嬉しかったよ。それと同時に佐々原さんにも人に憧れられる人間になってほしいと思った」
「そんな、わたしなんて身体は男なのに弱い人間で……」
「別に力が弱くても良い。無法地帯とかならともかく、現代社会において力だけについて行く人間なんていない。揺るぎない自分の意思、それが一番大事なものだと思う」
「意志の力……」
佐々原さんは噛み締めるように反芻する。
僕の言葉に力は無い。経験に基づかれた思想でもければ、空想上の人物からの借りものもある。僕自身なんて成績でポカをしている身だ。薄氷の如く中身は無い。それでも僕は恥ずかし気も無く人に語ってしまうほどは、この綺麗事を信じていた。
数秒、佐々原さんは考えるように俯いた。それから面を上げた佐々原さんの目は、槍のように鋭い。
「……その通りかもしれません。菜崎さんに言われた通り、わたしの進路はわたしが決めなきゃならないと。わたしが間違っていました。でもそれと菜崎さんの成績不振は別だと思います」
「うっ。それを言われると痛いな」
「だから、一緒にやりませんか?結果的には交じわらないかもしれません。でもわたしの将来も、菜崎さんの将来も、一緒に考えることくらいは出来ると思うんです」
───だから、新学期からは一緒に勉強しましょう?私が菜崎さんのことを監視してあげます。
佐々原さんの歪に絡まったものが解れたような顔付きをみて自然と僕も嬉しくなって、それから何だか違くね?と思った。何で一緒に勉強することになってるんだ、僕たち。
笑顔でそう言った佐々原さんに「あれ。もしかして僕はとんでもなく何か間違ったか?」と首を傾げながらも笑顔を浮かべる他なかった。