先生の彼女。
土曜の夜の、いささか混み合った国道を、仲村さんの運転する車に揺られて走っていく。
仲村さんの車は、黒の国産の軽自動車で、松山先生の四駆車に乗ったことがあるせいか、やたら地面が近く感じた。
後部座席はMDやCDのケースが散乱していて、いつもクリニックで着ている作業着が脱ぎ捨ててある。
松山先生の車に乗った時と同じで、静かに洋楽が流れていた。
窓の外を眺める私に、仲村さんが話しかける。
「なあ、高校生、腹減ってない?」
「・・・」
「なんか、食いに行く?」
「・・・そうですね」
「そんな暗い顔すんなよ〜、何食いたい?」
「なんでもいいです」
「なんでもいいって・・・じゃあ、ファミレスにでも寄るか?なんでもあるぞ〜」
「・・・はい」
仲村さんがこんなに気を遣ってくれているのに、どうしてもそのテンションに合わせられない。
気分が、晴れない。
「で、今日は、本当は松山先生とデートだったわけ?」
「・・・いえ、いつもの、勉強だったんですけど・・・」
「・・・けど?」
「・・・」
「ん?」
「・・・今日、誕生日なんです。」
「はあ!?」
驚いた顔で、仲村さんは一瞬私を見た。
「・・・」
「マジかよ・・・」
「・・・」
「え、じゃあ、なに、あの人、誕生日なのにすっぽかし?」
「あ、いえ違うんです。」
「は?」
「松山先生は、私の誕生日だってこと知らないんです。」
「なんで?」
「・・・いつも、先生にはいろんなことしてもらってるから、今日は自分でお店とか予約して、誕生日を理由に、先生に一緒に過ごしてもらおうと・・・思って」
「はあああ〜?」
呆れたような反応に、ため息が混じっている。
「・・・まさか、今日に限って、会議になっちゃうなんて思ってなくて」
「あー・・・まあ、今日はちょっと急だったからね。あ、それで、会議終わるの待ってたわけか」
「・・・はい」
苦笑いで答えてみる。
「そっかあー・・・、あの人も飲み会なんか行かなきゃいいのになあ」
「・・・こういうこともあるのに、ちょっと、計画性が足りなかったです。」
「いや、君の思惑を聞いてると、気持ちはわからなくもないけど・・・」
信号停車して、仲村さんはハンドルに顎を乗せ、おもむろに上目になる。
「・・・誕生日かあ・・・。」
「・・・」
〜Lost and insecure, you found me・・・♪
停車で車の音が小さくなり、洋楽の音がはっきりと耳に聴こえてくる。
あれ・・・、この曲・・・
松山先生の車でも同じ曲が流れてたような・・・
「・・・この曲・・・」
「ん?」
仲村さんが横目で私を見る。
「これ、なんていう曲ですか?」
「あ、これ?『The FRAY』の、you found me。知ってるの?」
「あ・・・、確か、松山先生の車でも流れてた気がして・・・」
「おおー。さすがだねえ。これ、あの人のCDだもん。」
「え?」
「借りてんの。」
「あ、そうだったんですか。」
「気に入ったなら貸そうか?」
再び車を走らせながら、ボリュームを上げてくれる。
「でもこれ、先生の・・・」
「うん、だからさ、君から返しといてよ。君に貸したって俺から言っとくからさ」
「い、いいんですか・・・」
そんなことして
「いいっていいって。君、もうあの人の彼女なんだからさあ。あの人のもんは君のもんだ。」
ええーっ
「それより、どうする?今から先生んとこ連れて行ってやろうか?どこで飲んでるか知ってるし。」
「い、いえそんな、いいんです」
「なんで?だって誕生日だろ?今・・・9時半過ぎだし、まだ間に合うよ」
デジタル時計を確認しながら仲村さんは言う。
「会いたいなら、遠慮せずに会えばいいんだって。」
「・・・」
「何をそんなに迷ってんの?君、彼女じゃん。」
「・・・」
今日は会えないと言われたのに、押しかけて行くなんて
迷惑じゃないだろうか
〜The early morning, the city ・・・
And I’ve been ・・・・for years and years and ・・・
And you never left me no messages
You never sent ・・・no letters
You got some ・・・nerve taking all I want・・・♪
バラードのクライマックスが、私に決断を迫っているように聞こえる。
「せっかくの誕生日を知らなかった挙句、会えなかったってわかったら、松山先生だって残念だと思うけどね」
そう言って、仲村さんが微笑んだ。
その表情に、勇気をもらえた気がした。
先生に・・・会いたい。
「・・・はい。じゃあ・・・行きます。」
「おっ!よく言った!よし!任せとけ」
仲村さんは少しスピードを上げて、私の家路とは逆方向にハンドルを切った。
「あ、でも、近くまででいいです。付き合ってること、他の人たちに知られるとマズイから・・・」
「わーかってるわーかってるって〜」
〜Lost and insecure, you found ・・, you found ・・・
Lying on the floor, surrounded, ・・・
Why’d you have to wait?
Where were you? Where ・・・
Just a little late, you found ・・, you found me・・・
Why’d you have to wait, to found ・・・, to found me?・・・
フェードアウトしていくピアノの音に、先生を想う。
先生に、会えるんだ・・・
「あれ?なんでこんなとこで止まるんですか?」
仲村さんは、市街地から数分離れたタワーマンションの前に車を止めた。
「到着。松山宅よ。」
「はっ!?」
「あの人の住むマンション。」
ええっ
「ちょっ、なんでですかっ?飲んでるお店の近くに行くんじゃ・・・」
「だって、それだと他のドクターとか助手に見られちゃうかもしんないだろ?」
「だけど・・・」
「いいからいいから。待ってな。電話してきてやる。」
「あっ、ちょっ・・・」
仲村さんはポケットから携帯電話を取り出して、運転席を出た。
車の背後で電話を掛けているが、声は届いてこない。
「はあ・・・」
助手席に座ったまま、ため息をつく。
暗い夜空に、無数の部屋の光を放ちながらそびえ立つタワーマンション。
高級感溢れるエントランス。
松山先生って、やっぱりお金持ちなんだ・・・。
なんか・・・、改めて思うと、すごい人と付き合うことになっちゃったのかも。
仲村さんが運転席に戻ってきた。
「松山先生、今からタクシーで帰って来るってさ。良かったね。」
「・・・ホントですか」
「うん。誕生日で、クリニックの前で君が待ってたって話しといたから。」
「・・・すみません、何から何まで・・・。」
結局また、お世話になってしまった。
「多分、15分ぐらいだと思うよ。」
「はい・・・」
「あ、そうだそうだ」
仲村さんは、後部座席に手を回し、何やらごそごそと取り出す。
「えーと・・・あ、はい、これ。」
手渡されたのは、ジャケットに『The FRAY』と書かれたCDアルバム。
「あ、本当にいいんですか?」
「うん。でもま、今から本人に聞けばいい話じゃん。」
「あ、そっか」
オーディオからCDディスクを取り出しながら、仲村さんは言う。
「水嶋さんさ、もっとわがままになってもいいんじゃない?」
「え?」
「君はまだ高校生だし、無理して大人のあの人に合わせることなんかないんだって。」
「・・・」
「そりゃあ好きな人なんだし、その人のためにしてあげたい、その人に合わせていきたいって気持ちはわかるけど、年の差だってあるし、生活スタイルも全く違うわけで・・・」
「・・・」
「つまりさ、無理するべきは、松山先生の方なんだってこと。」
「そんな、無理なんてしてほしくないです。」
「いや、そうじゃなくて、松山先生は大人だから、無理するにもちゃんと限度がわかってるわけよ。」
「限度・・・」
「うん。君と付き合っていくって決めた以上、多少のリスクとかもちゃんと踏まえてのことだろうし、君のわがまま聞くぐらいの余裕は充分あるはずだよ。」
「・・・」
「自分は無理してでも、君には無理してほしくないと思ってると思うよ。」
「・・・」
「だから、もっと会いに行けばいいんだって〜、な?」
「・・・はい」
仲村さんは本当に、松山先生のことをよくわかってるんだな・・・
「あのう・・・」
「ん?」
「仲村さんは彼女いないんですか?」
素朴な疑問だった、前から。
「彼女いたら、毎週毎週君たち二人に付き合ってられると思う?」
「あ・・・」
確かに
「半年ぐらい前に別れてね〜、最近は一人を楽しんでるってとこかな。」
「そうですか」
“年下は好きじゃない”と言ってはいたけど、女の子に対する気遣いとか、女の子の気持ちを理解しているようなところがあって、決してモテないタイプではないと思う。
「どんな人と付き合ってたんですか?」
興味本位で聞いてみる。
「ん〜?どんなってまあ・・・君よりは大人で美人だったかな」
横目で見ながらにやりと笑う。
多少ムッときたが、いかにも年下を好まない言い草には慣れつつあった。
「そーですか」
「あ、ムカついた?」
「別に」
からかうように続ける。
「水嶋さんもさ、俺みたいなタイプはダメだろ?松山先生とは正反対だもんねぇ」
「べ、別にダメとか・・・」
何て答えたらいいのかわからない。
「ん?だって、水嶋さんから見た俺と松山先生の共通点って言ったら、年上ってことぐらいのもんだろ?」
「はあ・・・」
「ハハッ。はあって。正直だねえ。」
「・・・」
「ー・・でもさ、最近、君と接してることが多くなって思ったけど、君みたいなタイプの世話をするのは、意外と嫌じゃないなーって」
「え?」
仲村さんは、さっきとは違う雰囲気の笑顔を見せながら話す。
「君と会うまではさ、俺にとって年下なんて、面倒くさい以外のなにものでもなかったんだけど、なんとなく、放っとけない衝動に駆られるっていうかね。」
「・・・」
なぜだか、動揺してしまう。
仲村さんの、どことなく優しさを秘めたような、そういう台詞には慣れていない。
「妹ができたみたいなかんじなのかな、俺、一人っ子だし」
そう言って、ニッと笑った。
「あ、私も一人っ子」
反射的に、微笑み返す。
「おっ!マジ?」
「ハイ」
「共通点、発見だねえ」
「松山先生は・・・やっぱり長男なんですかね」
“真一”だし。
「あの人、三男だよ。」
「えっ!?」
「君、あの人のこと全然知らないねえ」
「うそ、だって、“真一”ですよね?長男っぽい」
「三兄弟の末っ子。兄弟みんな、名前に“一”が付くらしいよ。」
「へえ・・・」
意外な真実。
「しかも、親も兄弟もみーんなドクター。お医者さん一家だよ。」
「ええ、すごい・・・」
「医者の間じゃあんまり珍しくもないけど、あの人だけは、歯科医なんだってさ。」
「だけは?」
「うん。父親も兄貴も大学病院で働く外科医。それが嫌で、自分は歯科医になったって言ってた。」
「へえ・・・」
「まあー、いろいろあるんだよ。しかもその兄貴の一人が・・・」
「・・・」
「ー・・・いや、なんでもない」
仲村さんは一瞬考えて、言うのを止めた。
「はっ?」
「悪い、なんでもなかった」
「えっ!?ちょっ、気になりますっ」
「いやいや、忘れて」
「ええーっ」
声を上げた瞬間、コンコンと助手席の窓をノックする人影。
振り向くと、黒いコートを着た松山先生が覗いていた。
目が合う。
松山先生が、私に微笑む。
「先生・・・」
ドアを開けて外に出る。
暖かい車内から、冷える外へ出たせいで、急激にメガネが曇る。
「きいちゃん」
優しい笑顔で、私の頭をそっと撫でた。
そのまま私を手前に引き、車内に顔を覗かせた。
「悪かったな、仲村」
『いえいえ』
車内で籠った声が聞こえてくる。
『どうしますか?俺、少し時間潰してきましょうか?』
「大丈夫か?」
『いいっすよ。彼女、俺が送りますよ。』
「ああ、じゃあ、30分だけ頼む。」
『了解でーす』
松山先生が助手席のドアを閉めると、仲村さんの車はゆっくりと走って行った。
車が見えなくなると、先生が私の方を振り向いた。
どうしよう
思わず、俯いてしまう。
慌ててメガネを外して、袖でレンズを拭く。
先生が、ゆっくりと近づいてくる。
「会うのは久しぶりだね、きいちゃん」
メガネを掛けて見上げると、黒いコートの襟の上に、優しい眼差しで私を見下ろす先生の顔。
「・・・先生」
松山先生は、持っていたビジネス鞄を地面に置いた。
微笑みながら、両腕を開いて差出し、“おいで”と合図した。
もう、限界だった。
会いたかった気持ちが一気に込み上げる。
躊躇いもなく、先生の胸に飛び込んだ。
我ながら大胆だと思った。
周りに人がいなかったから良かったものの。
先生は、私の背中に腕を回し、幾分きつめに抱きしめてくれる。
そして耳元で囁く。
「お誕生日おめでとう」
嬉しくて、涙が出る。
先生のコートを汚さないように、少し、顔を離す。
右の頬に、先生の手が触れる。
先生は少し屈んで、俯いた私の顔を掬い上げるように
そっとキスをした。
アルコールの香りが混じる先生の吐息に酔うかのように
静かに目を閉じる。
頭の中には、車内で聴いた you found me が反復されていた。
タワーマンションのエントランス前。
いつ、誰が来てもおかしくない状況なのに、初めてのキスの時より、少しだけ長く、先生の唇と重なっていた。
先生の、高い鼻が頬に当たる。
先生のアヒルみたいな唇は、温かくて、柔らかい。
このままずっと、時間が止まればいいのに。
先生に促されるままマンションのエントランスに入ると、中はまるでホテルのロビーのような造りになっていて、フロントこそないものの、待合用のソファーがいくつも並べてあった。
端の方に二人で座る。
先生は膝に腕をついて、前屈みに座る。
少し俯き加減で、先生は言った。
「本当は、部屋まで連れて行きたいんだけど・・・何もないまま帰す自信がないから。」
「・・・え」
ドキン・・・
それっ・・・て・・・
意味を理解すると同時に、みるみる顔が熱くなっていくのがわかる。
「あ、それと」
先生は、ビジネス鞄からミニブーケを取り出した。
「はい、これ」
鞄の中で、少し押しつぶされたような、やや形の悪いブーケ。
「あ・・・ありがとうございます」
「ちょっと・・・潰れちゃったね。仲村から電話もらって、24時間営業のスーパーで買ったんだ。花屋さんはもう、どこも閉まっててね。」
苦笑いを浮かべる先生。
咲いたばかりのピンクの薔薇が、かすみ草と一緒に20cmほどにアレンジしてある。
「・・・言ってくれたら良かったのに・・・誕生日。」
先生は、優しく笑う。
「・・・はい・・・」
こんなことなら、素直に言えば良かったと後悔していた。
「僕のために、レストランを予約してくれてたんだって?」
「・・・はい」
「ススッ・・・是非行きたかったなあ」
「・・・」
「ありがとうね、きいちゃん」
優しい、笑顔。
「いえ、こちらこそ・・・ありがとうございました」
「いや、僕はまだ何もしてないよ。それより、明日、予定あるかな?」
「え?」
「明日、日曜日だし、ちゃんとデートしよう。」
「・・・」
デート・・・
「ご両親にも、ご挨拶に行くよ。」
真っ直ぐに、私を見つめる先生。
「誕生日も、ちゃんと祝おう。」
先生・・・
「・・・はい」
胸がジン・・ときて、涙声になる。
先生が腕を伸ばし、私の頭を自分の肩に寄せた。
当たり前になった、先生のとなり。
私は、松山先生の彼女なんだ。
「お店、もう一度予約しておいてくれる?」
「・・・はい」
「うん」
翌日、松山先生は、スーツにネクタイ姿で私の家にやって来た。
昨日の夜、事前に両親に先生のことを話した時は、二人ともかなり驚いていた。
(特にお父さんが)
でも、松山先生本人に会って、先生の人柄、立派な歯科医であることを知った両親はえらく喜んで、『娘をよろしくお願いします』なんて言っていた。
これで松山先生は正式に、私の彼になった。
まだ、大っぴらには言えないけど。
すごく、幸せな気分。
これからずっと、先生と一緒にいられる。
これからずっと。
こんな幸せがずっと続くと、思ってた。