会えない先生。
「−3a^2−4ab−8<0だから、3a^2+4ab・・・これが、aに関わらず常に成り立つ・・・aに関する二次方程式が解を・・・」
「・・・だから、方程式の・・・(4ab)^2−4・・・」
今日は、白衣にネクタイ姿のまま、勉強を教える先生。
先生の説明を耳で聞きながら、先生が持つペンシルの先を目で追う。
いつもと変わらない、先生との勉強。
ついさっきまで、その腕に抱きしめられていたことが、まだ信じられない。
コンコン♪
ノック音がして、仲村さんが入って来た。
『うぃっーす』
「あー、お疲れ。遅かったな」
先生がミーティングルームの壁時計を見てから、仲村さんに言った。
『なんか知らないけど、ATM混んでたんすよ。』
「そーか。」
先生は、開いたテキストに目を向けたまま答えた。
『うぃっす』
仲村さんは私にも声をかけた。
「こんにちは。」
『久しぶりに来たね。』
「はい、あの、この前は、ありがとうございました。」
『ん?』
「あの、問題集・・・届けてもらって」
『ああ〜、いいえいいえ〜』
そう言うと、仲村さんは持っていた缶コーヒーとミルクティーを机の真ん中に置いた。
そしてそのまま、私と先生を交互に見る。
『で。どうなったんすか??』
え?
仲村さんはニヤニヤしている。
先生はペンシルを止め、仲村さんを見上げる。
「・・・知りたい?」
無表情で、先生が言う。
『はいっ』
満面の笑みで、仲村さんは答える。
二人の会話を、ただ黙って見ている私。
先生が、そのアヒル口で笑顔を作る。
「付き合っていこうと思う。」
仲村さんが、笑ったまま目を見開いた。
『マジっすか!?』
「うん。ね、きいちゃん。」
先生が、優しく微笑む。
「・・・へっ?」
『あっはははっ!まだ動揺してんじゃんっ高校生っ!』
仲村さんが指を差して笑う。
「あ・・・、だって」
これが動揺せずにいられますかって・・・
『まあ、はっきり言って俺のおかげだよなあ〜』
顔が熱くなっていく。
「仲村」
ガタンッ
先生が立ち上がり、仲村さんに詰め寄る。
183cmの松山先生は、仲村さんよりも、頭一つ分背が高い。
仲村さんはニヤニヤしながら後ずさる。
『な、なんすかっ』
「絶っっ対、しゃべるなよ?」
『わーかってますよお〜』
うわぁ・・・松山先生って、こういう一面もあるんだ・・・
すごい威圧感だなー・・・
『じゃ〜失礼しま〜す。ご・ゆっくりい〜』
パタン
仲村さんは、ニヤニヤしたまま出て行った。
ハタと、先生と目が合う。
「あ・・・は、ハハハハハハ・・」
とりあえず笑ってみる。
松山先生も微笑んでくれる。
先生が、向いの椅子に座り直す。
「きいちゃん」
ペンシルを両手で遊びながら、先生が私を見る。
「・・・はい」
「きいちゃんと付き合っていく以上、どうしてもこれだけはやっておきたいんだけど・・・」
「はい?」
「きいちゃんのご両親に、きちんとご挨拶したいんだ。」
えっ
「えっ?」
「あー・・ハハッ、驚くよね、やっぱり」
先生は、うんうんと頷きながら続ける。
「でもね、僕と付き合うっていうのは、きいちゃんが同い年ぐらいの男と付き合うのとは、ちょっと事情が違うから・・・、それは、わかるよね?」
先生・・・
「・・・はい」
「うん・・・。何も話さずに、年の離れた僕と付き合っていると知ったら、ご両親も心配なさると思うんだ。」
「・・・・」
「きいちゃんを、大切にするっていう意味でも、ご両親にはきちんと、ご挨拶しておきたいと思う。」
私のために、そこまで・・・
「・・・いいかな?」
「はい・・・わかりました。」
「うん」
「あ、」
「ん?」
「・・・ありがとうございます」
「ススッ・・・うん」
鼻をススッと鳴らして笑う。
その優しい笑顔が好き。
「じゃあ、続けよっか」
「あ、ハイ」
「えーとどこまで言ったっけな・・・」
この先生のそばにいたい。
いつまでも
ずっと一緒にいたい。
『やったあ〜!!きい!おめでとーう!!』
電話越しに、せんちゃんが喜びの声を上げた。
「うん・・・、ありがと」
クリニックからの帰り道、最寄駅を出てすぐに、せんちゃんに電話した。
『やっぱりね〜。松山センセ、きいに惚れてたんじゃない』
「あ・・・、そう・・かな、へへ」
『フフッ、なあ〜に照れてんのよ〜っ、ムカつく。』
「えっ」
『ははっウソウソ、ホントによかったじゃない、きい』
「うん・・・」
『で、どうだった?』
「なにが?」
『初めてのキス』
「ちょっ、もうっ」
『なによ、どうだったの?』
「ど、どうだったって・・・なんか突然で、よく覚えてなくて・・・」
『あー、まあ、そんなもんよ。これから回を重ねてさあ』
「はっ?回を重ねるっ??」
『そりゃそうでしょ。付き合っていくんなら』
「ええー・・・っ」
『なに情けない声出してんの。大丈夫よ、相手は大人だから。あんたが心配しなくても』
「うっ・・・」
『それよりよかったね、誕生日』
「え?」
『あんた来月、誕生日じゃない。』
「うん?」
『先生と二人で過ごすのよ!デート!』
「デート?」
『当たり前でしょ〜恋人なんだし。ちょっと待ってよ、12月14日は・・・おっ!今年は土曜日だよ!』
「うそっ?」
『ホント!土曜日はいつも勉強の日でしょ?デートできるチャンスよ〜』
「ええーっ、そうかなあ〜へへ」
『ああーいいなあ、楽しそう。』
「・・・せんちゃんのおかげだよ」
『・・・ふふ、そーね。私のおかげね』
ん?聞いたことあるセリフだ
「・・・ありがとう、せんちゃん」
『ふふん、いいのよ。私も嬉しい。』
「・・・あ、じゃあ、今度、誕生日の相談乗ってくれる?」
『わかった。考えとくね。』
せんちゃんがいたから、松山先生への想いを大事にできた。
せんちゃんが背中を押してくれた。
感謝してるよ、せんちゃん。
本当だよ。
週明けの月曜日、放課後の教室で、早速せんちゃんと誕生日について相談していた。
「センセは、きいの誕生日のこと知ってるのかしらね?」
パックのオレンジジュースを飲みながら、せんちゃんが言った。
「知らないと思う。」
「でもさ、カルテとかに、生年月日って載ってるんじゃないの?」
「カルテって、先生に患者として診てもらったのは9月だよ。」
「あ、そっか。それもそうね。」
「見たとしても、覚えてないんじゃないかな。」
「じゃあ、誕生日ですって言わなきゃね。」
「んー・・・」
「何?」
「私・・・、先生にいつも、何かとしてもらってばっかりなんだよね。」
「それが?ダメなの?」
「ううん、嬉しいけど、今回は、私の方から先生に何かしたいなって思って」
「は?だってあんたの誕生日なんだよ?」
「そうなんだけど、誕生日はデートの口実で、ギリギリまで内緒にしようかなって」
「それでどうすんの?それじゃプレゼントもらえないじゃない」
「いいの、プレゼントとかはどうでも。ただ、先生と一緒にいれたらいい・・・っていうか」
「ふふふう〜ん」
せんちゃんが目を細める。
「・・・ダメかな」
「いいんじゃない、それも。私ら、社会人と違ってお金があるわけじゃないから、何かしようと思っても、なかなかね。」
「うん。でも、やっぱりご飯くらい食べに行きたいから、私のお小遣いの許容範囲でどこかのお店を予約して・・・」
ニコニコしながら、せんちゃんが頷いている。
「ん?」
「私に相談するまでもないじゃない。きい、なんだか急に大人になったね。」
「え、そ、そうかな・・・」
「うん。そういうことなら、お店、いくつか知ってるから紹介しようか?」
「ホントに!?」
「もちろん。誕生日だし、やっぱり洋食が素敵よね・・・」
せんちゃんは、携帯を開いてお店検索を始める。
「ありがと、せんちゃん。」
「いいえ〜。あ、ここなんかどう?駅から10分のビストロ・アンジェっていう・・・」
せんちゃんに教えてもらったお店に、12月14日の20時に予約を入れた。
リーズナブルなフレンチレストランで、私のお小遣いでもなんとかいけそうだった。
自分でお店の予約をしたのなんて初めてで、ちょっと緊張した。
先生、喜んでくれるかなー・・・
駅までの帰り道は、もうすっかり暗くなっていた。
「12月ともなると、暗くなるのが早くて、なんか焦るわよね。」
「うん、しかも最近、朝晩寒くなったよねー」
「今週も、土曜日は先生のところ行くの?」
「ううん、今度の土曜日は忙しいんだって。」
「そうなの?ってことは、次会えるのは誕生日当日ってこと?」
「うん」
「えー。せっかく付き合うことになったのに、2週間近くも会えないんだー。なんか寂しくない?」
「んー、でも、松山先生は仕事してるし、忙しいから」
「はあ〜、聞き分けがいいんだから。年離れてるんだから、思いっきり甘えたらいいのに」
「んー・・・へへ、いいのいいの」
それから2週間は、入試に向けて、またひたすら頑張った。
松山先生と付き合うことになっても、やっぱり私は受験生。勉強を疎かにはできないし、先生に、怠けていると思われたくない。
絶対に合格して、いつか先生と一緒に働くんだ。
好きな人ができると、いろんな目標ができたり、楽しみができる。
恋するって、いいな。
会えなくても、松山先生はメールをくれる。
『きいちゃん、元気かな?』
『寒くなっってきたけど、風邪引いてないかな?』
『勉強でわからないことがあったら、いつでも電話しておいで』
当たり前のように送られてくるメールが、ただ嬉しい。
頑張ろうって思える。
「クリニックは帰り道にあるんだから、会えばいいじゃない!」
せんちゃんは、なかなか会おうとしない私たちに、ちょっとイライラしている。
「私なら我慢できない。絶対乗り込むのにっ」
「ダメだよ〜、先生は仕事中だし」
「はああ〜?」
「ふふっ、いいのいいの〜」
12月14日。
私は18歳になった。
初めての、“彼氏”と過ごす誕生日。
昨日の夜は、ワクワクして眠れなかった。
先生から届いた寝る前のメールを、何度も読み返した。
『きいちゃん、明日は久しぶりに会えるね。楽しみにしてるよ。18時半に待ってる。』
いつもなら、クリニックには制服で出掛けるけれど、今日はおしゃれをした。
せんちゃんみたいにセンスは良くないけど、私なりの精一杯のおしゃれ。
ブラウスにスカート、カーディガン、グレーのコートを着た。
髪も、下ろしてみた。
先生、どんな顔するかなぁ・・・
最寄駅を18時に出発する電車に乗った。
10分ほど経った頃、先生からのメールの着信。
『きいちゃん、今どこ?ごめん、今からクリニックで急なミーティングが入って、今日は一緒に勉強出来そうもないんだ。本当にごめん。また連絡するからね。』
え・・・うそ・・・
今日は中止・・・?
もう、電車に乗っちゃったし・・・
今日は私の・・・
あ・・・、そっか、先生は知らないんだった・・・
どうしよう・・・
どうしたらいいのかわからず、クリニックのあるビルの前へ来てしまった。
クリニックのある階を見上げると、ブラインド越しのミーティングルームの光が見える。
先生、会議中かあ・・・
お店も予約してあるし・・・
待ってみようかな・・・
ビルの入口に立って、待つことにした。
何もない日なら、帰っていたかもしれない。
でも、今日は誕生日。
松山先生に、会いたい。
駅の方に体を向けて、ビルの壁に背中をつけて待つ。
駅前の飲食店のネオンが輝き、お店の窓には楽しそうに食事する人たちが見える。
12月の夜の風は冷たい。
体が徐々に冷えてくる。
寒いなー・・・
やっぱり・・・誕生日って・・・言えばが良かったかな・・・
1時間。ミーティングルームの明かりは消えない。
もうすぐ終わるかもと期待を弾ませ、2時間が経つ。
携帯電話で時間を見ようとすると、突然、着信音が鳴った。
知らない番号・・・
「はい、もしもし」
『あ、もしもし、水嶋様でいらっしゃいますでしょうか?』
あっ!
そうだっ、お店の予約のキャンセルしてなかったぁ・・・
「あ、はい、すみません、水嶋です」
『ビストロ・アンジェでございますが・・・』
「はい、本当にすみませんっ、実は・・・」
結局、お店もキャンセル・・・。
はああー・・・
何やってるんだろう私・・・
寒いー・・・
携帯電話で時間を見ると、20時半を回っていた。
ビルを見上げると、ミーティングルームの明かりは消えている。
あれ、終わったのかな・・・
すると、ビルから見覚えのある女性が出てきた。
ピュアホワイトのロングコート、ヒールの高い綺麗な靴。
コートに合わせたおしゃれなマフラー。
うっ、上原先生っ・・・
思わず、顔を背けた。
「あら、あなた・・・」
遅かった。
恐る恐る振り向いてみる。
「あ、やっぱり!真一の患者さん!」
相変わらず“真一”って呼んでるんだ・・・
今は患者じゃないし
「・・・こんばんは」
「どうなさったの?こんなところで。受付はとっくの昔に終わってるけど?」
高飛車な笑顔で話しかけてくる。
嫌だな・・・この人
「いえ・・・別に」
「松山先生にご用かしら?」
「・・・」
「残念だけど、真一ならもう出たわよ?」
「え?」
「急な会議だったんだけど、そのあとみんなで飲みに行こうってことになって。ビルの裏でタクシー拾って」
ビルの裏・・・
「私もこれから向かうところなの。よかったら何か伝えましょうか?」
勝ち誇ったような、上から目線。
「・・・いいえ」
「あらそう。それじゃあ。もう遅いから、気をつけてお帰りになってね。」
「・・・・」
上原先生は、ヒールをコツコツ鳴らして、大通りの方へ歩いて行った。
「はあ・・・」
暗くなればなるほど、吐く息が白くなっていく。
先生に、会いたかった。
誕生日だし。
2週間くらい、会ってないし。
誕生日じゃなくてもやっぱり、会いたかった。
素直に言えばよかったな。
何やってんだろ・・・
なんか、ばかみたい・・・
帰ろう・・・
「お?水嶋さん?」
振り返ると、ブルゾンにジーンズを履いた仲村さんが立っていた。
「あ・・・」
「え?なにやってんの、君?」
松山先生以外の人には、よく会うなあ・・・
「あ、こんばんは」
「いや、こんばんはって・・・」
「じゃあ」
お辞儀をして帰ろうとする。
「え、いや、ちょっ、待てって」
仲村さんが駆け寄って、私の腕を掴んだ。
「・・・」
「どうしたんだよ?松山先生なら飲みに行ったよ?」
「知ってます。」
「は?」
「上原先生に聞きました。」
「なんだよ、じゃあなんで?今日は勉強の日?松山先生、君がここにいること知ってんの?」
「いえ・・・」
「はあ?」
「・・・仲村さんは、行かないんですか?飲みに・・・」
「行くわけねーじゃん、上原いただろ?」
「あー」
松山先生は、行かなきゃいけなかったのかな・・・
付き合い・・・ってやつかな・・・
「なあ、なんでこんなとこにいるんだよ?」
「・・・」
仲村さんとはよく、こうして一緒になるのになあ・・・
「・・・今日、なんかあんの?」
「え?」
「いや、私服だからさ。いつもは制服で来るよな?」
「ー・・・・」
気づいてくれたんだ
「おっ、おいおい、どうした??」
「〜〜・・・・」
どうしよう
なんでだろう
涙が出てきた
「と、とにかく行こう。ここ寒いし」
仲村さんが、背中を軽く押した。
「・・・・」
「家はどこだよ?」
「す、住吉町です・・・」
「ああ、住吉なー、わかったわかった。送ってやるから泣くなって」
そう言うと、仲村さんは頭をポンポンと擦った。
松山先生に会いたかったのに
なんで
仲村さんなんだろう
この人はなんでいつも
近くにいるんだろう