先生との時間。
ピンポーン♪
午前11時。
軽快に家のインターホンが鳴る。
自分の部屋を出て階段を勢いよく駆け下り、誰かも確認せずに玄関の扉を開ける。
誰なのかはわかっている。
ガチャッ
「おはよっ」
「せんちゃあんっ!」
思わず半泣きでせんちゃんに抱きつく。
「あー、ハイハイ、わかったわかった」
私の背中をポンポンと叩く。
「ごめんね、わざわざ来てもらって」
「いいよっ。昨日の夜電話もらった時は、あまりの急展開にちょっとびっくりしたけど、きい よくやった!」
「もう、ずっと緊張してて眠れなくて・・・」
「松山先生との約束は13時だよね?」
「うん、13時に、この先の角のコンビニに迎えに来てくれるって・・・」
「そう、わかった。おじゃましまーす」
モスグリーンのジャケットにボウタイブラウス、濃いめのジーンズにブーツ。
今日もおしゃれがキマッてるせんちゃんは、小型のキャリーバッグを引いて玄関に入った。
「きいのお父さんとお母さんは?」
ブーツのジッパーを下ろしながら聞く。
「今日は、二人とももう出掛けてていないの。夜まで帰らないみたい。」
「あらぁ、ってことは、きいも松山センセとゆっくりデートできるってことよねっ」
ニヤリと笑うせんちゃん。
「ゆっくりって?約束してるのは映画だけだよ?」
キャリーバッグを持ちながら階段を上る。
「バカねえ。松山先生は大人なんだし、映画だけでバイバイなんて絶対有り得ないわよ」
「え、私、映画以外何も考えてなかった」
「あんたが考えなくても大丈夫よ。先生に任せとけば。食事ぐらい連れてってくれるでしょ」
「えっ・・・」
食事・・・
松山先生と食事・・・
かっ考えただけでもう・・・
「きい」
「・・ん?」
「あんまり余計なこと考えすぎても緊張するだけだから、リラックスして楽しまなきゃ。せっかくのデートなんだし。」
「う・・・、うん」
「よし。じゃ、服、きいに似合いそうなのいくつか持って来たから、選んで」
「ハイッ」
部屋に入り、ベッドの上に置いたキャリーバッグを開ける。
中にはブラウスやスカート、カーディガンが2〜3着ずつ入れられていた。
「ね、私、自分に何が似合うのかわかんない。やっぱりせんちゃんが選んで?」
「ええーっんー・・・そうねえ。なるべくきいのイメージに合わせて持って来たつもりだけど・・・」
せんちゃんは、控え目なフリルの付いた白いブラウスと黒のスカート、淡いピンクのカーディガンを手に取った。
「じゃあコレ。着てみて」
「うん。」
着ていたスウェットを脱いで、おもむろにせんちゃんの前で着替える。
「んで?何て言って松山センセ誘ったの?」
「何てって・・・せんちゃんにチケット貰ったから、お礼にって渡したら・・・」
「二人で行こうって??」
「うん・・・」
「きゃーんっ羨ましいぃ〜」
そう言いながら、せんちゃんはベッドに倒れこむ。
「まさかいきなり、明日行こうって言われるなんて思ってなくて、ホント、ビックリしちゃって・・・」
「松山先生もさあ、実は案外、きいのこと好きだったりして」
「そ、そんなわけないよ・・・」
松山先生が、私のことを好きだなんて
そんなまさか
「そうかなぁ・・・。だって、数学の勉強見てくれるって、最初に言い出したのも先生の方からじゃない?」
「そうだけど、それは多分、ただの親切心で・・・」
「親切心て。仕事の合い間に高校生の勉強見てやる歯科医なんて、他にいるかな。」
「せんちゃんが強引に言うからでしょ」
「でもそのおかげでデートまで漕ぎつけたんじゃない。感謝してよねっ」
せんちゃんはガバッと起き上がる。
「感謝・・・してます。きっ着替えました。」
「・・・うん、結構いいじゃない。似合ってる。さすが私ね。」
せんちゃんには、本当に脱帽だ。
せんちゃんはキャリーバッグをゴソゴソとあさり、中から茶色の細いベルトと、さらに細い黒のリボンを取り出した。
「そしてこれで、アクセントを付ける・・・」
私の胸元にリボンを結び、ウエストにカーディガンの上からベルトを着けてくれた。
「うんっ、いいわね。すごくいいかんじ。」
上から下まで、流すように見て微笑んだ。
「ホントに?」
「うん。似合ってる。見てみて」
せんちゃんに背中を押され、鏡の前に立つ。
「ー・・・」
「どお?あんた、メガネが黒だから、リボンとスカートを合わせてるのよ。」
わあ・・・
これが私・・・
おしゃれをしている自分を見て、特別な気持ちが込み上げてくる。
ドキドキとも違う、
ワクワクに似たような、
弾むような気分・・・
「ー・・うん」
「きい、すごくかわいい。」
鏡越しにせんちゃんが言う。
「ありがとう・・・」
「よし。あとは髪型ね。そこ座って!」
「ハイッ」
部屋の中央に置いているミニテーブルに卓上ミラーをセットして、せんちゃんが髪を梳かす。
「シンプルに・・・少し高い位置で、一つに結んでおこうかな」
「ごめんね、せんちゃん。何から何まで・・・」
「いいのよ。最初が肝心。きい一人じゃ、何着て行くのか心配だったしね。今日はすごくかわいいよ。お嬢様みたい」
「えっ・・へへ。そうかな」
仕度を済ませ、一階のダイニングでせんちゃんとコーヒーを飲む。
「ハァ・・・ドキドキする。あと30分で13時・・・」
「ドキドキするのもわかるけど、1番は楽しむことよ。」
「うん」
「あーでも、いーなあ。私、最近そういう、ドキドキする恋愛ってしてないし」
せんちゃんがポツリと言った。
「え・・、大貴くんとはドキドキしないの?」
「大貴のことは好きだけど、きいみたいな恋愛して付き合い始めたわけじゃないもん。」
せんちゃんの彼氏の大貴くんは、せんちゃんのお兄ちゃんの友達の弟で、私たちとは同い年。お兄ちゃんの紹介だったらしいけど、大貴くんの方は以前からせんちゃんを知っていて、長い間せんちゃんに片思いしてたらしい。
「大貴の方から付き合ってほしいって言われて、別に断る理由もなかったし。」
「そーなんだ・・・」
彼氏を作るように言っておきながら、自分の彼氏にどこか満足していないせんちゃんを見ると、なんだか少し寂しい。
「それにね、自分から好きになった人と付き合うより、好きになってくれた人と付き合う方が楽なのよね。わがまま聞いてくれるし」
「ふうん・・・」
「だからきいも、松山先生により多く好きになってもらわないとねっ」
「ハッ・・ハハ」
結局その話に戻るんだなー・・
「まあ、私の見たところ、松山先生はきいのこと、満更でもないと思うけど。」
「そ、そっかな・・・」
「んんー。だとしたら、先生はかなりのロリコンだけどね☆」
「あっ、もー、年のことは言わないでよっ。私だって気にしてるのに・・・しかも、ロリコンって言い方・・・」
「なに?」
「なんかちょっとヤダ。先生は誠実な人なんだから。」
「ハイハイ、ごちそうさま。じゃ、私、そろそろ行くね。」
「うん、あ、キャリーバッグはどーする?」
「いい、置いてく。今から大貴と遊びに行くし。」
「そーなんだ!」
「そーよー、ドキドキしないデートですけどねー」
ここまで言われちゃう大貴くんて・・・なんだか不憫だなー
「あ、じゃあ、今度キャリー持ってせんちゃんちに行くね。」
「うん。いつでもいいわよ。」
せんちゃんが玄関でブーツを履く。
「いい?バッグはブラウンのやつ、ブーツは黒よ?」
「うん、わかった。ありがと、せんちゃん」
「楽しんでおいで」
「うんっ」
せんちゃんを見送ってから部屋に戻ると、携帯電話がピカピカしている。
着信メールの合図だ。
開いてみると、松山先生からだった。
『きいちゃん、こんにちは。道が混んでるから、予定より5分くらい遅れるかも。待っててね。』
先生からの初メール・・・
ドキドキする
でも、嬉しさも込み上げてくる
『わかりました。待っています』
先生にメールを返して家を出る。
外はスッキリとした秋晴れ。
200メートル程先にある、待ち合わせのコンビニに向かって歩く。
初めてのデートに緊張と戸惑い。
でも、心が躍るのがわかる。
松山先生と出会ってから、胸はドキドキ鳴りっぱなし。
人を好きになると、誰でもこういうの、経験するのかな。
いつもその人のことを考えて
早く会いたくなって
好きだから
振り向いてほしいと思うようになる。
松山先生に近づきたい
松山先生のそばにいたい
松山先生に好きになってほしい
人を好きになると
どんどん欲張りになっていく。
コンビニに近づくと、駐車場に3台の車が停まっているのが見えた。
一番遠くにある黒い四駆の輸入車から、人が降りてこっちへ来る。
背が高い
耳に少しかかるくらいの短い黒髪
淡いグレーのカッターシャツにブルーのネクタイ
それに合わせた濃いグレーのベストに黒いパンツ
ジャケットを羽織らない秋らしいスタイルで、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
左の手のひらを私に向ける。
「きいちゃんっ」
優しい笑顔で私を呼ぶ。
「あ、こんにちは。すみません、私の方が遅かったですネ」
「いや、いいんだ。全然大丈夫」
松山先生・・・
素敵だなぁ・・・
「きいちゃん・・・」
「はい?」
「なんか、今日は雰囲気違うね。」
「え?」
どうしよう、何かヘンかな
「制服に三つ編みのきいちゃんしか見たことなかったから、一瞬わからなかったよ」
「そ、そうですか・・・」
メガネが落ちるのを押し上げる。
「うん・・・すごく、かわいい」
ドキン・・・
先生を見上げる。
顔が熱くなっていく。
先生は、微笑んでいる。
「あ、・・・」
「あ、ああ、じゃ、行こっか」
「・・ハイ」
「車、乗って♪」
「ハイ」
何も考えずに、車の左側へ歩く。
「あ・・きいちゃん、あのね」
先生が背後から言う。
「え?」
「助手席はあっち」
先生はニコニコしている。
「えっ?あっ・・」
輸入車っっ
左ハンドルだったあ・・・
「す、すみません」
また、メガネがズリ落ちる。
「ううん」
先生は車の右側に回り、助手席のドアを開ける。
「どうぞっ」
「あ、ありがとうございます・・・」
「足もと、気をつけて」
「ハイ」
車高のある四駆車で、助手席の位置も少し高い。
シートに座ると、先生がゆっくりとドアを閉める。
先生は車の背後から運転席へ回る。
スッキリとした車内。
ゆるやかな音で洋楽が流れている。
初めて乗る、男性の車の助手席。
心臓は常に、トクトクと一定の緊張感を保っている。
ドアが開き、先生が運転席に乗り込む。
「よしっ!じゃあ出発するよ〜」
エンジンを掛け、シートベルトをする先生。
それにつられて、自分もシートベルトを締める。
先生はシャツの両腕の袖を軽く捲ると、ギアをRに入れる。
左手をハンドルに残し、右腕が私の頭の上をふわりと通過したかと思うと、助手席シートの裏に添えた。
シートの間から後ろを見ながら、車を後退させる。
その輪郭は、高い鼻とネクタイの上の喉仏が強調され、耳の下からスッと延びた首筋が浮き上がり、ふとした男性らしさを感じる。
なんでもないことのようで、胸は一瞬ドキンと波打つ。
車が走り出す。
車高があるせいか、いつも乗っている自分の家の車よりは、流れる景色が幾分違って見える。
「もらったチケットに書いてあった映画館までは、20分ぐらいだからね」
正面を向いたまま先生が話す。
「あ、ハイ」
「行ったことある?」
「せんちゃんと、何度か」
「そっか。じゃあわかるね」
「ハイ」
「よく行くの?映画」
「そうですね、せんちゃんが映画好きだから」
「そうなんだ。ネットで、このチケットの映画の予告編を観てきたんだけど、恋愛モノなんだね」
「あ・・・、はい、あの、よかったですか?」
「うん?全然大丈夫だよ。映画は特に拘りなく、どんなものでも見れるよ」
「そうですか」
多分
松山先生は、私を気遣って話しかけてくれてる。
私もそれに応えなきゃ
楽しまなきゃ
松山先生との時間を。
車が信号停車する。
「きいちゃんは、どんなのが好きなの?」
先生が私を見る。
「え、あ、映画ですか?」
「あ、まぁ映画もだけど、どんなことするのが好きなのかなって」
「あー、私は・・そうですね、映画を観るのも好きですけど、本を読むのが一番です。」
「へ〜読書かあ。なんかきいちゃんらしいね」
きいちゃんらしい・・・
「そーですか?」
「うん。本を読んでそうなイメージはあるよ。最近は何を読んだの?」
再び車が走り出す。
「あ、それが・・最近は入試の勉強が主で、本は読めてないんです。」
「あっそーか。きいちゃんは受験生だもんね。」
「・・ハイ」
「じゃあ、今日は息抜きだねっ」
チラリと笑顔を向ける。
「ハイッ」
好きな人とのドライブってこんなに楽しいんだ・・・
助手席に座るって、特別なんだなー・・・
私も何か聞いてみよう
「あの」
「ん?」
「先生は・・、背がすごく高いですけど、どのくらいあるんですか?」
「ああ、183。」
「わ、高いですね」
「んー、でもこれが結構厄介でね、たまにドアのところの壁にぶつけたりとか」
「ハハッ」
「それぐらいならいいんだけど、仕事中に、患者さんの治療してる時に、途中で立ち上がろうとしてライトにぶつけたりね」
「あ〜ハハッ」
「患者さんもビックリだよ」
「ふふっ、大変なんですね。何かスポーツとかされてたんですか?」
「うん、大学まで野球をね。センターを守ってた。」
「へえ、そうなんですか。」
色白な松山先生から野球ってイメージは湧かなかったけど、背が高いのは納得しちゃう
「センターってわかる?っていうか、野球とか興味ある?」
「あ・・、外野手・・?ですよね」
「うん、そう、あ、わかるんだ?」
「あの、父がテレビで見てるのを時々一緒に見たりはしますけど、いまいちルールとかはよくわからないです。」
「ハハッ、そっか。やっぱ女の子だしね。何かきっかけがないと、興味も湧かないよね。」
「スミマセン」
「いやあ、全然。」
「でも、テレビの中継とか見てると、みんな楽しそうに応援してますよね。」
「そうだね〜。ハマればおもしろいんだけどねー・・・あ、そうだ。じゃあさ、来年、専門学校に合格したら、野球観に行こうか?」
「え・・・」
「もし、興味があるなら。今は、シーズンオフだから行けないけど、きいちゃんが高校卒業する頃はオープン戦も始まる時期だし。球場に連れて行ってあげるよ。」
うそ・・・
ホントに・・・
「本当ですか・・・?」
「うんっ」
松山先生と、また一つ、一緒に出かける約束
少しずつ
先生との時間が
確実なものになっていく。
映画館のすぐ近くの立体駐車場に車を止め、映画館に向かって先生と歩く。
先生と並んで。
日曜日とあってか、恋愛モノの映画が上映中だからなのか、映画館は男女二人連れのカップルが多い。
チケットを、窓口で指定席の券と交換して、100人程が座れる小さめのスクリーンへ入る。
まだ明るいスクリーンで、指定された座席を探す。
「きいちゃん、何か飲み物要る?」
「あ、はい、じゃあ、レモンティーで」
「うん、わかった。待ってて」
「ハイ」
座席に座ると、深いため息が出た。
「はあー・・・」
松山先生といるとすごく楽しい
でも、緊張してるせいかな・・・
ドキドキしちゃって
息がうまくできてないような・・・
松山先生が飲み物を買って、スクリーンへ戻って来る。
「はい、きいちゃんの」
そう言って先生は、レモンティーのカップを前の座席のカップスタンドに置いてくれた。
「ありがとうございます、すみません」
「どういたしまして」
スクリーンの照明が静かに落ちる。
車のシートよりも近い距離で、となりに座る先生を感じる。
勉強を教えてもらっている時よりもうんと近い。
こんなに近くで先生を感じたのは、2か月前の歯の治療の時以来。
でも
あの時とは少し状況が違う。
あの時はまだ
担当歯科医と患者だった。
今の私と松山先生の関係はなんだろう。
あの時とは違うけど
何て言ったらいいんだろう。
私と先生は
周りにはどんなふうに
映っているんだろう。
映画の主人公は大学生の青年。
アルバイト先に、お客としてやって来たOLの女性と恋に落ちる。
大学の授業に出るのも疎かになるほど、青年は彼女に溺れていく。
ある日、彼女は仕事で海外赴任が決まり、青年は突然別れを告げられる。
青年は、彼女と将来の約束をしようとするが、年の差と、青年の未来を考えた彼女は、それを受け入れない。
彼女は青年の前から姿を消す。
青年は彼女への想いを抱いたまま。
報われない、青年の恋。
上映中は、松山先生とは一度も言葉を交わさなかった。
切ない青年の想いが、自分の先生への想いと重なって見えた。
松山先生は、どんな思いでこの映画を観ていたのだろう。
映画が終わっても、感想を口にすることはできなかった。
映画館を出ると、外は薄暗くなっていた。
昼間よりは、気温も少し下がっている。
「日が落ちるのが早くなったね。」
「そうですね。」
「きいちゃん、寒くない?」
「あ、ハイ、大丈夫です。」
「うん。じゃ、行こう」
松山先生は、駐車場とは逆方向の繁華街へ向かって歩き始める。
「あれっ、あの、先生?」
「きいちゃん、今日こそご飯食べに行こう」
振り向きざまに、そのアヒル口で笑ってみせた。
「ハ、ハイッ」
せんちゃんの言った通りだ。
松山先生と・・・食事・・・
嬉しさと
ドキドキで
足取りがまた弾む。
日曜日の、賑やかな夕暮れの繁華街。
休日出勤だったらしい背広の会社員の集団、ファミリーレストランに入っていく楽しそうな家族連れ、これから出勤すると思われる派手目の服を着た女性、腕を組んで歩くカップル。
そんな人たちを眺めながら、松山先生の半歩後ろをついて行く。
10分ほど歩くと、先生はガラス張りのおしゃれな洋食のお店の前で立ち止まった。
高級感溢れるその佇まいは、高校生の私に、入ることを少し躊躇わせる。
「きいちゃん、ココ。予約してあるんだ。」
「あ、そうだったんですか」
お店に入ると、静かなクラシック音楽が聞こえ、甘いブイヨンやソースの薫りが鼻を抜ける。
扉の音を聞いてか、奥から黒服を着た接客の中年男性が出てきた。
「いらっしゃいませ、松山様。」
「こんばんは。」
わぁ・・・すごい
松山先生、きっとここの常連さんなんだ・・・
「お待ちしておりました。さあ、どうぞ」
男性は、先生と私を店の奥へ案内する。
「きいちゃん、行こ」
「はい」
接客の男性の後ろを、松山先生とついて行く。
それほど広くはない店内は、淡いオレンジの照明に包まれ、上品にクロスが掛けられたテーブルには、空のウォーターグラスとシルバー、絵皿と一緒にナプキンが置かれている。
まだ17時を少し回った頃だというのに、客席は随分埋まっている。
高そうなお店・・・
こんなとこ来たことない・・・
一番奥の窓際、二人掛けのテーブルが視界に入った時、甲高い女性の声が、後ろから響いた。
『真一!?』
奥のテーブルを目指していた接客の男性も、
松山先生と私も、
その声に同時に立ち止まり、声の方を振り返る。
通り過ぎたばかりの4人掛けのテーブルに、結婚式でもあったのかと思わせる様にめかし込んだ、大人の女性が4人座り、シルバーを手にこちらを見ている。
その中の一人が、松山先生を呼んだ。
『やっぱり!真一!』
シルバーを置いて立ち上がったのは、
一度会ったことがある、
クリニックの
上原先生・・・。
シンイチ・・・?
この人、松山先生をそう呼んでる。
「ああ、どうも」
素っ気ない態度で、先生はクイと首を動かした。
私はどうしたらいいのかわからず、ただその場に立っていた。
『どうしたの?偶然ね』
上原先生がそう言うと、一緒に食事していた他の女性も話し始めた。
「ホントだ、松山くんだ」
「変わってないね〜」
「久しぶり〜」
先生にむかって、軽く手を振っている人もいる。
松山先生は無表情で、それに応えようとはしない。
先生・・・怖い顔してどうしたんだろう・・・
っていうか私は・・・どうすれば?
『真一も食事に来たの?』
「ああ」
見たことない
松山先生のこんな冷たい顔
『あら、あなた・・・』
上原先生が、私に気づいた。
『確か、真一の患者さんだったコよね?』
「あ・・・、こんばんは」
それを聞いたテーブルの女性たちは、小声でヒソヒソ冷やかしを始める。
「えーなになに、患者〜?」
「松山くん患者に手出してるのお?」
しばらく様子を見届けていた接客の男性が私と目が合い、それを合図に口を開く。
「あのう、松山様」
それを遮るように、上原先生がまた喋る。
『ねえ真一、私たちこれから、大学の仲間と集まるのよ。よかったら一緒にどう?』
「はあ?」
明らかに不快な顔で、松山先生は答える。
「ー・・・」
私はどうしたらいいんだろう・・・
全然わかんない
『あなた、名前なんだったかしら?』
上原先生が私に聞く。
「あ、水嶋です。」
『ああ、そうそう、水嶋さんっ。よかったらあなたもどう?』
ええーっ
「あ、いえ、私は」
「悪いけど、僕たちは遠慮しときます。」
無感情、無表情で、先生は答える。
『あら、どうしてよ?せっかく偶然会えたっていうのに。これも何かの縁でしょう?』
上原先生は、『ね〜?』と、テーブルの女性たちに同意を求める。
「松山くんも一緒に食べようよー」
「もう少ししたら、同期の男たちも来るわよ〜?」
松山先生と同じ大学の人たちなんだ・・・
なんか
嫌だ
この空気。
ここに居たくない
私一人
絶対浮いてる。
『ねー?真一、みんなもこう言ってるし。水嶋さんも。』
知らない大人ばかりの中で
知らない会話の中で
私は浮いてる。
「行こう、きいちゃん」
上原先生を無視するように、先生は言う。
「松山先生」
「うん?」
それでも、私に向ける表情は、さっきの不機嫌な顔とは違う。
「私のことは気にしないでください。」
「え?」
「私、帰ります。」
「いや、きいちゃん、」
ごめんなさい、先生
『あら、帰っちゃうの?』
「はい、失礼します。」
上原先生に頭を下げて、店の出口へ向かう。
「ちょっ、待って、きいちゃんっ」
松山先生のその声に
振り向くことができなかった。
早くこの場を
立ち去りたくて。
店の扉に手を掛けると、背後から声がした。
「大丈夫でございますか?」
振り返ると、黒服の接客の男性だった。
「はい・・・」
涙が 出そうになった
「どうぞ、お気をつけて・・・」
「はい・・・」
店を出ても、外はまだ賑やかなままだった。
行き交う人々の中をゆっくりと歩く。
最寄りの駅目指して。
あー・・・
おなかすいたなあ・・・
胃がキリキリした。
胸がズキズキした。
目もとが熱くて
涙が出た。
恋をするって苦しい
人を好きになるって苦しい
近いと思っていた相手を遠く感じて
相手に手が届かない気がして
突然
泣きたくなる。
映画の中で
あの青年も泣いていた。
手が届かない彼女への
やり場のない想いを胸に
ちょうど
今の私と
同じように。