先生の想い。
仲村さんに抱きしめられたまま、水しぶきを上げる噴水をぼんやりと眺めていた。
寒空の下、噴水の水は、辺りを一層冷たく演出している。
仲村さんのダウンから伝わる熱で、体だけは少しずつ温かくなっていく。
“俺じゃダメ?”
上原先生が言ったことは正しかったみたいで、仲村さんは、私のことを想ってくれていた。
妹みたいな存在だと言っていたから・・・、だから優しくしてくれているのだと・・・。
自分の都合のいいように解釈して、なんて、失礼なことをしていたんだろう。
なんて、わがままだったんだろう。
いつも助けてもらって
いつも甘えてばかりで
いつも、守ってもらってた。
仲村さんが、ゆっくりと離れる。
「とにかく、帰ろう、な?」
「・・・」
ただ頷いて、手を引かれるままに歩いた。
駐車場まで、ずっと無言のままだった。
仲村さんの車に近づくと、助手席に替えのユニフォームが無造作に置かれていた。
ロックを開けた仲村さんは、それを助手席から後部座席に放り投げ、乗るように促した。
エンジンをかけて、仲村さんも乗り込む。
「ちょっと、ラボに電話入れるから、待ってね。」
「あ、はい・・・」
「もしもし、仲村です、はい、すみません、あのー、一時間ほどで戻るんで・・・」
仕事、抜けたままで本当に大丈夫なのかな・・・
って・・・私のせいなんだけど・・・
仲村さんが電話をしている間、窓の外を見ながら待っていた。
クリニックのビルの近く。
ポケットには、電源を切ったままの携帯電話。
「・・・はい、あ、その患者さんは、6番・・第一大臼歯のクラウンが・・・そうですね、はい」
仕事の会話を聞いていると、自分の置かれている状況と現実が、徐々に鮮明になってくる。
冷静さが、戻ってくる。
松山先生の話を聞かずに、電話にも出ずに、仲村さんの車に乗っている。
18:30
車内のデジタル時計を見る。
心配・・・してるかもしれない
お母さん、電源切ってる間に電話掛けたりしたかな・・
松山先生・・・
「はい、じゃあ、またあとで」
仲村さんは電話を切ると、シートベルトを締めて車を走らせた。
「あの、すみません、忙しいのに・・・」
とりあえず何か喋らなければと、出た言葉だった。
仲村さんは、一瞬、横目で私を見て、フッと笑った。
「いや、嬉しかったからさ。君から電話もらえて」
「・・・」
なんて答えればいいかわからない
「ハハッ」
「え?」
「困った顔してる」
「・・・」
だって、どうしたらいいか、わからなくて
「悪かったね。」
「え?」
「松山先生のことで辛い時に、俺が妙なこと言ったから混乱してんだろ?」
「あ・・・」
仲村さんは、いつもなんでもお見通し
「ごめん」
「・・・」
「あんなこと言うつもりじゃなくてさ」
「・・・」
~♪
「あっ、これ、君の好きな曲でしょ」
「え」
仲村さんは、低くされていたオーディオのボリュームを上げた。
~I found God on the corner of 1st Amistad・・・
松山先生が好きな、The FRAYの曲。
松山先生と初めてデートした時、先生の車で流れていた。
誕生日の日、松山先生に会えなかった時、仲村さんの車で聴いた。
松山先生を想わずにいられなくなる
また、涙が出そうになる
俯く私の頭を、仲村さんが左手でポンポンと撫でた。
右手だけでハンドルを持って運転している仲村さん。
いつもは憎まれ口ばかりだけど、本当は優しい。
松山先生とは違った優しさ。
私は、どうしたらいいんだろう
家の近くの角を曲がったところで、仲村さんが突然車を止めた。
「あ、やっぱりねー」
「え?」
仲村さんは前方を指差して、眉を上げた。
「レンジローバー。停まってるよ」
「レンジロ・・・?」
指差した方を見ると、松山先生の車が停まっていた。
「あ・・」
松山先生・・・
「・・・なんですか、レンジローバーって」
「はっ?」
「は?」
仲村さんはえらく驚いている。
「君、知らないの?」
「何をですか?」
「ハ~~~ハハハ、無知ってコワイねえ~」
苦笑いで返される。
「?」
「松山先生の車、あれ、レンジローバーっていうんだよ。超!高級SUV。」
「はあ・・・」
「あれは3代目モデル。君、相当いい車に乗せてもらってるんだよ?」
「はあ・・・」
そんなこと言われても・・・
「カッコイイ輸入車だなあとは、思ってましたケド」
肩をすくめて答えると、仲村さんは笑いだした。
「ハハハハッ」
「えーなんですかー」
「なるほどね~、まぁわかるけどね~」
「はい?」
「松山先生は、君のその純粋無垢なとこに惹かれたんだろうね、多分。」
「は?」
「今まで松山先生に群がる女って、圧倒的に金目当てが多かったからね。」
「・・・」
「あのルックスで家柄もいいし、そりゃあもうウザいのがわんさか・・・」
「・・・」
「でもさ、松山先生は君を選んだんだよ?」
「・・・」
「その松山先生が、そうそう君を泣かすような真似はしないと思うんだよな・・・」
仲村さんはハンドルに顎を乗せて、先生の車をボーっと見ながら話す。
「・・・わかってます」
仲村さんは私を見る。
「先生を信じたいって思ってるんです・・・さっきは、上原先生と一緒のところ見ちゃって、ちょっと、動揺・・してしまって」
「うん、わかってるって。何かっていうと登場しやがって、マジむかつくよな、あの女、ハハッ。」
「ハハッ」
気持ちが、軽くなっていく
「よし。じゃあ、先生んとこ行こう。」
「・・・」
「今は、俺のこととか、俺がさっき言ったことは考えなくていいから、松山先生んとこ戻れ。」
よく、わからない
仲村さんはさっき“俺じゃダメ?”と言ったのに、今は、松山先生のところに戻れと言う
「ホントはさ・・・」
「・・・」
「ホントは、ここに松山先生が来てなかったら、このまま君のこと、さらっちゃおうかなって思ったりもしてたんだけどね」
「・・・」
「でも、あの人はちゃんと君に会いに来てるし、君も、先生に会いたいって思ってるだろ?」
「・・・」
「想い合ってるなら、ちゃんと会って、話さなきゃダメだよ」
「・・・」
「君、ちょっとボーっとしてるとこあるけど、泣いてる顔よりは元気な顔の方がいいし、君を元気にできるのは松山先生だけだと思うしね」
仲村さん・・・
「・・・はい」
「よしっ!まったく、世話が焼けるよな、ガキは。」
仲村さんは微笑んで言った。
「じゃ、行くよ?俺がうまく話作るから、君は黙ってその場にいればいいから」
「え?」
「な」
「あ、はい・・・」
仲村さんは車をゆっくりと走らせ、松山先生の車の後ろに付けた。
仲村さんの車に気づいて、松山先生が左の運転席から降りてきた。
うっ・・・
どうしよう・・・
先生の顔が見れない
仲村さんが車を降りて、私もゆっくりとドアを開けた。
松山先生が駆け寄ってくる。
「きいちゃんっ・・・」
黒いボトムスにコート・・・なんとなく、慌てて出てきたような服。
私が助手席を降りると、仲村さんが運転席側から口を開いた。
『あー、駅で偶然会ったんっすよ~』
「え?」
松山先生は仲村さんを見る。
『俺がATM行こうとしてたら、なんか悲壮な顔して歩いてたんで、とりあえず送って来たんすけど』
「あ、そうか・・・」
ただ俯く私に、先生は近付かずとも遠くない位置で、少し困惑気味。
『松山先生』
「ん?」
『何があったにせよ、あんま泣かさないでやってくださいよ~』
え、仲村さん?
「ー・・・・」
松山先生の顔が強張る。
仲村さんは、半ば冗談と思わせつつ、目が、笑ってない。
なんか・・・
この雰囲気は・・・
どうしよう、
どうしたらいいんだろうっ
「わかってる。ちょっと、誤解があっただけだ」
先生は無表情で、仲村さんに返した。
うわっ
先生、お、怒ってるかも
『そうっすか♪んじゃ、俺はクリニックに戻りますんで~』
「ああ、ありがとうな」
『うぃーっす。じゃあな、高校生!』
「あ、ハイ、ありがとうございました・・・」
仲村さんは笑顔を向けると、車に乗り込み去って行った。
その場に残される先生と私。
気まずい・・・
そして寒い
「・・・」
俯いたまま、何を言えばいいかわからない。
「きいちゃん?」
先生は恐る恐る、私の右腕に触れた。
そっと見上げると、先生は優しく微笑んでいる。
「よかった・・・心配してたんだ。電話も繋がらなくて、家に伺ったら、僕の所に行くって連絡があったきりだって言われて」
「あっ、そうだっ、お母さんには何も連絡してない」
「あ、うん、だから、僕と待ち合わせしてて、僕が間違えて家に来たって言っちゃった」
「え??」
「僕のせいでこんな事になったし、ご両親に心配かけちゃマズイと思って、その・・・」
「・・・」
「ごめん・・・」
先生・・・
「・・・私が帰らなかったら、どうするつもりだったんですか・・・?」
「・・・帰らない・・・つもりだったの・・・?」
少し、悲しげな目
「いえ・・・ごめんなさい」
私、今すごく、嫌な女の子になってる
口答えして
聞き分けのない
嫌な女・・・
先生がそっと抱きしめる。
背中に先生の腕、頬には先生の鼓動が伝わる。
「きいちゃんは何も悪くないよ。僕が悪かったんだから・・・」
「・・・」
「ごめんね、きいちゃん」
「・・・」
先生が、誠心誠意、私に謝る。
先生の腕の中。
さっきまでの怒りも、不安も、悲しさも、
一気に消えていく。
気持ちが・・・落ち着いていく。
意地を張らないで、ちゃんと話を聞かなきゃ・・・
「合格したんだってね」
「・・・はい」
「おめでとう」
「・・・」
「おめでとう、きいちゃん」
先生は、抱きしめる腕に力を込める。
先生の背中に、そっと手を回した。
「ハイ・・・先生のおかげです」
「きいちゃんが頑張ったからだよ」
「でも、先生にたくさん教えてもらったから・・・だから、あの、ありがとうございました」
「ススッ・・・どういたしまして♪」
あ、いつもの、先生との会話に戻った・・・
先生が笑う時の、ススッっていう鼻の音
「きいちゃん、もう帰る?」
先生は腕時計を見ながら尋ねる。
「え?」
「今、7時(19時)過ぎだけど・・・」
「あ、えーと、遅くなるかも・・・って、言ってあります」
「ホント?」
「?、はい、明日も土曜日で休みだし・・・」
「じゃ、一緒に来て」
先生は笑顔で手を引っ張ると、右の助手席のドアを開けた。
「どこに行くんですか?」
「ん?いーからいーから♪」
先生に背中を押され、助手席に乗り込む。
曇ったメガネを拭きながら、シートベルトを締める先生を見る。
どこに行くのかな?
先生はゆっくりと車を走らせた。
夜の街を先生の車で走る。
今日は、なんだか目まぐるしい。
合格発表で、朝から神経すり減らして、地下鉄で先生のマンションに行ったら上原先生には会うし、仲村さんには“俺じゃダメ?”って言われて、車で送ってもらったら松山先生が来てて、そして今更だけど、レンジローバーなる高級外車で本日二度目のドライブ・・・見慣れた道だけど、一体どこへ?
「ハァー・・・」
「あれっ?きいちゃん、大丈夫??酔った?」
「え?」
「今、大きなため息ついてたから・・・」
「え、あ、いえっ、大丈夫です、全然っ」
しまった、つい、気を抜いたっ
「ホントに、ごめんね」
正面を見て運転しながら、先生は言った。
その横顔を、黙って見つめる。
「今日、上原さんがいたのはね、書類を届けに来たからなんだ。」
「書類・・・」
「うん。この前、きいちゃんの入試の日、僕、院長に会いに行ってたって言ったの覚えてる?」
「あ、はい」
「うん。うちのクリニックは分院でね、実は、上原さんのお父さんが、総院長なんだ。」
それは知ってます
「・・・」
「あれ?もしかして知ってた?」
「・・・はい」
「そっか・・・。僕ね、あのクリニック辞めるんだ」
え
「えっ?」
「この3月で」
「ええっ??どっどうしてですかっ?まさか、私のせいで・・・」
「きいちゃんのせい??」
はっ
そうだっ
それは上原先生が、脅しで私に言ったんだったっ
「い、いえあの、どうしてですか・・・?」
「開業しようと思っててね。」
「開業?」
「うん。僕ももう30になるし、自分のクリニックを持つにはちょっと若いかもしれないけど、年取って失敗するより、早い方がいいかと思って」
「はあ・・・」
「ちゃんと決まってから話すつもりで、仲村もまだ知らないんだ。」
「え・・・」
仲村さんも知らない?
「仲村には、できれば僕を手伝ってもらいたいと思ってるから、全てしっかり決まってから話そうと思ってて、内密に進めてた話だから、クリニックでは出せない書類だったっていうか」
「あ・・・」
「でね、もともとは、上原さんが来る予定じゃなかったんだよ」
「え?」
「院長にクリニックを辞める話をした時から、上原さんとの結婚を迫られててね」
「ー・・・!」
えええーーーっ???(声にならない)
「あっ、断わったよ!?もちろん」
「・・・・(口だけ開いている)」
「きいちゃん・・・?」
「は・・・はい」
「ごめんね、まだ続きがあるんだけど」
「はあ・・・」
今日は・・・衝撃事実はもうカンベンしてほしい・・・
「院長はね、僕と上原さんが大学時代に付き合いがあったのを知ってて、それで、そういうことを言いだしたんだけど、はっきり言って、僕としてはそんなの冗談でも有り得ないし、そもそもあのクリニックでこれ以上続けたくない理由の第一位が上原さんなわけで・・・」
「・・・・」
「あ・・・の、それで、院長が、家でそのことを含めてちゃんと話したいって言うから、仕事早退してまで待ってたのに、来たのが上原さん本人で・・・」
そう・・・だったんだ・・・
上原先生本人が来たのが、なんとなく納得できる。
あの人なら、やりそう・・・
「・・・なんか、僕の言ってること、自分でも言い訳がましい気がしてきた」
「え?」
「ごめんね、きいちゃん。傷・・・ついた・・・?」
「え、あ、いいえ、なんかちょっと、ビックリ・・・しましたけど」
「そうだよね・・・大体、僕が辞めることを早く話しておけば、こんなことにはならなかったかもしれないし」
「はあ・・・あ、あれっ、ここって・・・」
そこには見覚えのあるタワーマンション。
本日二度目。
車は地下駐車場へ滑り込んでいく。
松山先生のマンション??
先生は慣れた手つきで車を駐車スペースに停める。
エンジンが止まると、車内は一気にしん・・・となる。
「さ、着いたよ」
「え、あの」
先生はさっさと運転席を降りると、助手席側に回り、ドアを開けた。
「おいで、きいちゃん」
先生は優しく笑って右手を出す。
その笑顔に釣られ、その手に引っ張られていく。
地下駐車場から直結のエレベーターで、27階へ上っていく。
きつく繋がれた手。
見上げるとそこにある先生の横顔に、ドキドキが増していく。
クリスマス以来の先生の部屋のドア。
鍵を開けて、先生が中へ促す。
「どうぞ♪」
「あの、でも・・・」
先生としては、私が高校卒業するまではダメなんじゃ・・・
「いいから。入って、きいちゃん」
「・・・はい。お邪魔します」
ライトが照らす玄関に入り、先生が後ろに続く。
扉が閉まり、鍵がかかる音にドキリとする。
靴を脱いで、リビングに続くおしゃれな廊下を遠慮がちに進む。
リビングのドアに手をかけると、先生が優しく腕を引っ張った。
「きいちゃん、そっちじゃなくてこっち」
「え?」
えっ
そっちは寝室・・・
先生は寝室のドアを開けると、私の手を引いたまま中に入れた。
スタンドの照明が点けられ、大きなベッドが視界に入る。
コートを脱いで、ネクタイを緩める先生の後姿に、鼓動が高鳴る。
動揺を隠したくて、思わず口を開く。
「先生・・・?」
コートをベッドに放り投げると、先生は突然振り向いて、力強く私を引き寄せた。
「ー・・・」
「きいちゃん」
心臓が、ドキドキする。
先生の胸元に耳が触れ、先生の鼓動も少しだけ早くなっているのが聞こえる。
「・・・ごめん、きいちゃん」
「・・・」
「もしかしたらちょっと、乱暴なことするかも」
「え?」
一瞬にして、ゆるやかにベッドに押し倒される。
メガネをスッと外される。
薄暗い部屋で、視界がボヤける。
顔が熱い。
心臓のドキドキが痛い。
すぐ目の前に、先生の顔。
先生・・・?
先生は、真っ直ぐに私を見つめる。
その目はやっぱり少しだけ、悲しげで・・・
「きいちゃん・・・」
「・・はい」
「仲村に・・何か言われた?」
「え?何か・・って?」
「仲村は・・、きいちゃんのことが、好きなんだと思う」
「・・・」
先生、気付いて・・・
「っ・・・」
先生が、強く口づけた。
強引に唇を割り、今までにない、深いキス。
舌が絡む。
いつもの優しいキスとは違う。
切羽詰まったような、息苦しいキス。
でも。
不思議と、嫌じゃない。
先生の熱い想いが、唇から伝わる。
ほのかな、クリニックのにおい。
松山先生・・・
そっと、唇が離れる。
それでも、吐息のかかる位置に先生はいて、
その熱を帯びた視線に、二度目のキスをせがみそうな自分がいる。
「ごめん、きいちゃん・・・」
「・・・」
熱いキスに放心状態のまま、先生をじっと見つめる。
「きいちゃんが仲村と一緒だったことに異常に腹が立って・・・なんかもう、どうにもならなくて・・・」
「・・・先生・・・」
「ハハッ・・、情けないね・・この歳で、やきもち・・なのかな・・」
先生っ・・・
胸が、キュッと締め付けられる。
自分でも、ビックリだったけど。
先生の首に腕を回し、先生の唇に、自ら口づけた。
先生は一瞬固まってたけど、
すぐに優しく抱きしめて、
たくさん、キスをしてくれた。
静かな寝室には、時々響く唇の音
先生の吐息
胸の鼓動・・・
どのくらいの時間が経っただろう
制服のまま抱きしめられて、先生とベッドに横たわっていた。
「ん~、このまま返すのは惜しいなあ・・・」
「あー、ハハ」
そんなふうに言ってもらえるんだ・・・
「きいちゃん」
「はい?」
「ごめんね、本当に・・・」
「先生・・」
「うん?」
「今日は、謝ってばっかり・・・」
「そりゃあ、僕が軽率だったから。上原さんを・・招き入れたりして」
あ
「あっ」
「え?」
「先生?」
「はいっ」
「それで上原先生は、納得されたんですか・・・?」
「あ、結婚断わったこと?」
「はい・・・」
「っていうか、もう、こういうの口にするのも嫌なんだけどねー。そもそもなんで、開業するからって院長の娘と結婚って話になるのか理解できないし、それにもう、上原さんにもきっぱり言ったから。」
「え、なんて・・・」
「僕はきいちゃんとの将来を考えてるって」
「・・・・」
え
「あ、いやあの、今すぐにどうこうってわけじゃないよ?」
先生が、慌てて私の顔を覗き込む。
「・・・」
「前々から考えてはいたんだけど・・高校生にこういうことは、さすがにまだ重いだろうなって思っていたし、その・・これからきいちゃんは、衛生士を目指して勉強していくわけだけど・・」
「はい・・・」
「きいちゃんの将来の基盤を、僕が造ってあげられたらって思ってね」
「基盤?」
「うん。僕が開業しておけば、衛生士の資格を取ったきいちゃんが就職に困ることもないし、これから先もずっときいちゃんと一緒にいたいから、それは僕にとっての基盤でもあるんだ。」
先生・・・
「きいちゃんと一緒に働けたら、きっと毎日楽しいだろうし、なにより、きいちゃんを他のクリニックに渡すなんて考えられないしね。」
私のために・・・そこまで・・・
涙が、溢れる。
「あれっ?きいちゃんっ?」
「うぅっ・・・」
「どうしたのっ?ごめんっ、あれ、僕またなんかひどいこと言った?」
「ちが・・・うぅ・・・」
「きいちゃん・・・」
先生は、優しく涙を拭ってくれる。
「泣かないで?きいちゃん」
「だって・・・嬉しくて・・・」
先生の気持ちが嬉しくて
私はこんなに大事にされてたのに
一瞬でも、先生の気持ちを疑って
別の男性に甘えて
私はホントに
バカだ。
でもやっぱり、引っ掛かる。
上原先生と、松山先生の・・・過去。
気にしても仕方がないけど、この先もずっと、もやもやしたままなのは・・・嫌だ。
「それでも、上原先生は・・・」
「うん?」
「上原先生は、松山先生のことが忘れられないんじゃないですか・・・?」
「・・・・」
先生は一呼吸置くと、ベッドの上に起き上がり、私をゆっくりと起こした。
先生がベッドの縁に座るのを見て、私もとなりに座った。
「きいちゃん、僕と上原さんのこと、どんなふうに聞いてるの?」
そう尋ねながら、私の顔にそっとメガネを戻してくれる。
「・・え?」
視界がクリアになる。
「まだ誤解があるような気がする。」
「え、だから、先生と上原先生は、大学生の時に付き合っていて、上原先生が、松山先生のお兄さんを好きになったから、先生と別れることになったって・・・」
「・・・」
先生は、腑に落ちない顔をした。
「違うんですか・・?」
「いや、まあ、あらすじとしては、概ね間違ってはいないけど・・・肝心なところが抜けてるかな・・・」
「・・・?」
「上原さんは、僕から兄に乗り換えたんじゃなくて、初めから兄のことだけが好きだったみたいだよ。」
「え?」
「兄っていうのは、次男の方なんだけどね、僕と知り合う前から、どういういきさつかは知らないけど、一方的に兄のことを知ってたみたいで、僕と付き合ったのは、兄と知り合うための、ただの口実だったんだよ。」
「え、じゃあ」
「僕は利用されただけ。付き合ったって言っても、在学中の3カ月足らずだったし、上原さんの方から別れ話された時は、すでに兄とデキてたみたいだしね。」
「先生は気付かなかったんですか?お兄さんと上原先生がそうなってたこと・・・」
「んー、僕ってちょっと、鈍感なとこあるみたいで・・ハハ」
苦笑いを浮かべる先生。
それは、仲村さんも言ってた・・・
「二番目の兄は、女性に関しては来るもの拒まずでね。上原さんともそんなに長くは続かなかったみたいだけど。僕にはそんなこと関係ないし。」
「だけど・・今は松山先生を想ってるように見えましたけど・・・」
今日だって、先生の部屋に居たことを自慢げに言ってたし、カフェで煙草を吸ってた時も、なんとなく寂しそうな表情だった・・・
「ススッ・・・きいちゃん、上原さんに何か言われたの?」
先生は、優しく頬に触れた。
「はっきり・・真一が好きなの・・・って、言われたことあります」
「ハッ・・ハハ」
呆れたように、先生は笑った。
「それ、絶対嘘だよ」
「・・・」
「さっき、白状して行ったから。上原さん」
「白状?」
「うん。“どうせまた、兄さんに近づきたいだけなんだろ?”って聞いたら、すごい真っ赤な顔して、“ええ、その通りよッ”だってさ、ハハッ」
上原先生の口調を真似しながら、バカにしたように笑った。
あの上原先生が、赤面・・・?
「兄さんのことが忘れられないって、はっきり言ってたし。」
「そうだったんですか・・・ハハ」
「ー・・・」
先生は膝に肘を突いて、となりに座る私の顔を覗き込む。
微笑んで、じっと見つめられる。
「もう、聞きたいことはない?きいちゃん」
「・・・」
「なんでも聞いてよ、この際」
優しい、眼差し。
「・・・あの」
「うん?」
「・・・辛かったですか?上原先生と、お兄さんのことを知った時・・・」
先生は、上を見ながら一瞬考えた。
「うーん・・・そうだなあ、まあ、純粋に、僕を想ってくれてるんだと信じてた部分があったから、騙されてたってわかった時は辛かったけど、失恋に対する辛さより、女性に対してちょっと人間不信になってね。」
「あー・・・それはそうかもですね・・・」
「まだ若かったしね。付き合ったのも3カ月だったし、そっちのキズは浅かったけど。」
淡々と話す先生の表情から、先生の中では本当に、上原先生は無の存在なんだと伝わってくるようだった。
「それにほら、僕、野球で忙しかったからね。」
「あ、そうでしたね、野球やってたって・・・」
「あっ!そうそう」
先生は何かを思い出したかのように立ち上がると、部屋に置いてあったビジネス鞄を持ってきた。
中から封筒を取り出し、私に差し出す。
「これ♪」
「?」
封筒を開くと、『プロ野球オープン戦2010・・・』と書かれたチケットが入っていた。
「あ、これって」
「オープン戦のチケット。一緒に観に行こうって約束してたからね。」
去年の秋、先生と初めてデートをした時、野球を一緒に観に行こうと約束した。
その約束が、もうすぐ果たされる。
嬉しかった。
本当に
嬉しかった。
「あれ?5枚も入ってますよ??」
「あ、そうなんだよ、仕事関係でチケット予約に強い知り合いに頼んだら、なぜか5枚もくれてね。安くしとく・・とか言って」
あれー・・・
二人で行くんじゃないんだー・・・
ちょっと残念。
「あ、あの、じゃあ、仲村さんとかも一緒に・・・」
「え、仲村?」
はっ!しまったっ
今、仲村さんの名前出すのはマズかったかもっ・・・
「仲村ねー・・・」
「い、いえあの、せんちゃんとかでもいいならっ。せんちゃんの彼氏とかっ」
「・・・・」
先生?
何か考え込んでる・・・?
「いや、いいよ♪きいちゃんが良ければ、仲村も一緒に。もちろん泉さんでもいいし。」
ホッ・・・
じゃない。
仲村さんとも、ちゃんと話さなきゃ・・・
・・・おなかすいた
「先生」
「ん?」
「あの・・・おなかすきませんか?」
肩をすくめて尋ねると、先生はハッとしたように腕時計を見た。
「そうだね!ごめん!もう9時(21時)だもんね。どこかで食事して、家に送るよ。」
「すみません・・・」
「いや、僕こそ気付かなくて。ご両親が心配なさるね。」
先生は、慌ててコートを羽織る。
「あ、いいえ、先生と一緒なのはわかってるから、多分大丈夫です。」
「そう?」
「ハイ」
鞄を持って寝室を出ようとする私の腕を、先生がそっと引き止める。
ドアに身体をそっと押しつけられ、顔を掬い上げるようなキス。
触れあう唇に、胸はドキドキ・・・
まだ、息のかかる位置。
「きいちゃん、あさっては・・・デートに誘ってはくれないの?」
「え?あさって・・・」
あ!
バレンタイン!!
「デート、できるんですか・・・?」
「うん、できるよ。日曜日だから♪」
「あ、じゃあ・・・」
先生は試すような笑顔で、私の言葉を待っている。
最近ちょっと、こういういじわるが・・・増えた。
「デート・・・してください・・・」
「・・・ススッ、もちろん。僕なんかで良ければ。合格祝いも兼ねようね♪」
アヒル口で、優しく笑う。
凛々しい切れ長の目で見つめる。
キスをするときは、足を開いて身長差をカバーする。
高い鼻が頬にあたる。
いつもクリニックのにおいがする。
顔に添えられた手はあたたかい。
唇から伝わる、先生の想い。
私を、好きでいてくれる。
松山先生の全部で
私を抱きしめてくれる。
先生の全部で
受け止めてくれる。
ならば私も応えたい。
先生の
その熱い想いに。
先生
松山先生
私も好き。
先生のことが
大好き。
ずっと一緒。
いつまでも先生と
一緒にいる。