再びの戦争の始まり
扉を押し開くと、海色の瞳とぶつかった。緊張の色が薄れ、ほんの少しだけ安堵したように細くなる。
「マリー……すまない」
急にディサナスを見てもらうことになったこと、そして今まで黙っていたことを含んだ謝罪に、マリーは首を横に振って微笑みを見せてくれた。
「ディサナスさんは、大丈夫だよ。ずっと静かに眠っている」
マリーは草木の装飾が施されたベッドの横に置いた椅子へ座ると、ディサナスの顔を見つめた。
「綺麗な人だよね。とても宮殿を襲ったり、カロリナ姉さんやハルトに危害を加えるような人には見えない」
僕も机の側に置かれた椅子をマリーの隣に移動させて、腰を下ろした。ずっと緊張したまま立っていたからか、それだけでずいぶんと体が楽になるのを感じる。
「あっ……ハルト、コーヒー飲む? 厨房に行ってこようか」
「いや、あとで自分の部屋に戻って飲むよ。いろいろと準備をしなければいけなくなってしまったから」
「……そうだよね」
マリーは目を瞑って軽く息を吸い込むと、長く息を吐き出し、前を向いた。
「また、戦争が始まるんだね」
「執事長から聞いたの?」
僕もマリーと同じように前を向く。カーテンの隙間から見える外の世界は、まだ午前中だというのに相変わらず薄暗かった。あともう少ししたら極夜も終わり、雪も解けるというのに。
「うん。反乱軍にノーゲスト市が急襲されたって。きっと、犠牲者もたくさん出てるんだよね。命を落とした人だけじゃない。目の前で両親とか、大切な人を亡くしたり、居場所がなくなって独りぼっちになったり──仕方のないことなのかもしれないけど」
マリーの澄んだ青色の瞳は、遠く北の彼方を見ていた。たぶん、同時にそれと重ねるように過去の自身に降りかかった出来事にも。
「……私、まだ幼かったせいもあったんだけど、私たちが王位についてこれで戦争がなくなるって思ったの。今思えば思い込みたかっただけなのかもしれないけど、いろんなことがあってたくさん辛い思いもしたけど、これで、戦争はもうおしまい。これからは平和がずっと続くってそう信じてた。なのに、まだ、ディサナスさんとか子どもたちとか、前の戦争の傷跡が残っているのに、また戦わなきゃいけないなんてさ」
その語り口はあくまでもささやくように静かだった。だが、そのささやきのなかには、ほとんど出すことのない確かな怒りが込められていた。
「……ハルトも戦いに行くの?」
また感情とともに息を吐き出してマリーはそう言った。その辛そうな言い方に、もう嘘をつくことはできないと直感が語りかける。
「行く。いや、正確にはクラーラ王女の護衛として神聖国まで王女を送り届ける任務を負ったんだけど、おそらく戦いに巻き込まれると思う」
王女の狙いはいまいちつかめないが、王宮を離れたことはすぐに広まり、十中八九、敵方が動き出すに違いない。反乱軍にはもはや、アーテルヘム神聖国の秩序は通じないのだから。
「本音では戦いなんて起こってほしくないと思うけど、任務を引き受けた以上は降りかかる火の粉を全て払う覚悟で臨むよ」
「そっか。……ハルト、一つだけお願い。絶対に生きて私のところに帰ってきてね」
貫くような視線が僕の目を射抜く。これまで見たことのない力強い視線に、僕は何も言えなかった。
「……ハル……ト……」
弱々しく絞り出したような声に、僕とマリーは同時に視線を移した。うっすらと開けたディサナスの目の端には涙が溜まっている。
「ディサナス、大丈夫か?」
椅子から立ち上がって顔を寄せた僕をちらりと見ると、ディサナスは両手で顔を覆った。押し殺した泣き声とともにその手の隙間から透明な涙がこぼれ落ちていく。
「私……私……」
全身がまるで痙攣を起こしたみたいに震えている。呼吸も浅く乱れている。過去の記憶が蘇ったのだろうか。
「マリー。悪いが、クラーラ王女にディサナスが起きたと伝えに行ってくれないか」
「わ、わかった!」
飛び上がるように椅子から立つと、そのまま駆け足でマリーは部屋を出ていく。クリスが到着する前に少しでも落ち着かせないと。
「グスタフ。ディサナスと交替できるか? 短時間でいい。話が必要だ」
呼びかけに応えることなく、ディサナスの震えは止まらなかった。呼吸はさらに速くなり、もはや過呼吸状態に近かった。ダメか──と別の手を考えようとしたとき、その動きは止まった。筋肉がゆるりと弛緩していく。
両手を顔から離すと、グスタフが体を起こして辺りをうかがうように見回した。
「どうやら、まだ部屋は無事のようだな」
「ああ、グスタフが出てきてくれたからな。だが、ディサナスに戻ったときにまた混乱が生じてしまう可能性があるから、一つ許可を得たい」
「なんだ?」
グスタフは疲れたような目つきで僕を見た。
「これから来るクリスという女性も旅に加えてもらいたいんだ」
グスタフは深いため息をつくと、窓の外に目を向ける。その横顔は怒りに満ちていた。
「お前の考えはわかる。女性なら話しやすい、ということだろう。確かにあいつらと同じ男のお前を過去の記憶群は拒絶するかもしれない。女性の方が安定させられるかもしれない。ディサナスが、全員が心の底から信頼している人物ならば」
深海のような深藍の瞳が僕を睨み付けた。
「ディサナスと俺たちが一番信頼しているのは、ハルト、お前なんだ。奇異な目で見ることもなく、そのまま受け入れてくれたお前が傍に居てくれたからこそ、ここまで旅行が進んだんじゃないのか。それを混乱が生じたからといってどこの誰だかわからない奴を同行させるなんて話を俺たちが受け入れられると、本気で思っているのか?」
「そうじゃない。確かに女性の方が話しやすいと思ったのも事実だが、それ以上にクリスならディサナスのノーラの、君たちの辛さが痛みが、体感的に理解できると考えたからだ」
グスタフは毛布をつかむと勢いをつけてベッドの外へ投げ捨てた。
「そんなことは理由にならない。ハルト、お前はどう思ってるんだ? 肝心なことから逃げて、そのクリスとかいう奴に任せようとしてるんじゃないのか? 反乱軍についての情報は得られた。だったらあとは──」
急に言葉が止まる。表情も動かず、瞬きすらしない。緊張の沈黙が数十秒続いたあと、機械のように無機質な顔が現れた。
「ディサナス……?」
「…………ハルト。私は…………貴方を…………信じる」
グスタフと自分の意思で交替したのだろうか。そう言ったディサナスの瞳に、ほんの少しだけ光が宿った──気がした。
ちょうどタイミングよく扉が開かれると、クリスがいつもの調子でリラックスした笑顔でそこに現れた。
「初めまして、ディサナス。私はクリス・エルヴェスタム。職業は、クラーラ、アーテルヘム第3王女の護衛。ようするにカッコいいお姉さんだ。少し、話をしてもいいだろうか」
悠々とディサナスに近付き目の前に出したクリスの手を、ディサナスはためらいながらも握った。
「それじゃあ、旅行を再開しよう、ディサナス」




