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浮かぶ記憶

 ラッビアは怒りを表す音楽用語だ。ディサナスの内に秘める炎は、まさにこれがふさわしい。


 指が痛くなるんじゃないかというほど、何度も何度も鍵盤を叩き、弾く。心なしかディサナスのフルートのピッチも上がっていっている気がした。


 負の感情を見えなくすることは簡単だ。ない方が穏やかな状態で過ごせるかもしれない。だが、それを「無し」にすることはできない。どんなに蓋をきつく閉めても、気づかないふりをしても、たとえ自分が忘れてしまったとしても、それはどこまでも付きまとう。


 ピアノの演奏が走ってしまう。ディサナスの音に耳を傾けているはずなのに僕はなくしたはずの何かを探していた。奥底に眠っているはずの何か。忘れたはずの何かが指先を動かし感情を乱す。


 この間、確かに感じていたのに気にしないようにしていた微かな異変。脳裏に現れたその映像は、この世界のものではなかった。


 ──どこまでいっても光の見えない暗闇の底に落ちているような気分だった。でも、妙に静かで居心地がいい。それなのに、傍らにあるディスプレイから光が漏れ出す──


 ハッと意識を戻せば、ディサナスの演奏が、ピアノと競い合うようにスピードを増していた。気がつけば怒りのハーモニーが築かれ、ディサナスの瞳には炎が揺れて見えた。


 これは、まずい。


 おそらく共鳴には成功したものの、指が止まらない。次から次へと襲う身を焦がすような炎が音を伴って表に現れようと体を突き動かす。ディサナスの音が僕に響き、指先から真っ赤に燃える火が現れ出ていた。


 フルートの発する音はいよいよ狂気めいた音に変わり、ディサナスの視線は焦点が定まらずぐるぐると泳ぎ出した。焔が瞬いたかと思いきや、その表面の碧が剥がれ落ちるように飛び散る。なかから地獄を連想させるような剥き出しの赤が現出した。


 ダメだ……このままじゃ。しかしもう、コントロールが効かない。


 そのときだった。突然に音が止まり、ディサナスの口からフルートが離れた。そのままディサナスは前屈みに倒れ、紅い絨毯の上に全身を打ち付けた。


「ディサナス!!」


 僕が慌てて駆け寄ると同時に前方の扉が乱暴に開けられ、カロリナが部屋へ侵入してきた。


「カロリナ、待て!」


 それは危ない行為なんだ。僕とディサナスたちだけで話すという約束を反故にしてしまう。カロリナの突入は、あくまでも最終手段だったはずなのに。


「どう、して?」


 ディサナスが手をついて起き上がろうとしながら哀しげな言葉を発した。──待て、哀しげな?


 僕は、今一度無表情のはずのディサナスの表情を確認する。途端に。


「もう、やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


 その絶叫はディサナスのものではなかった。


 ディサナス、いやおそらくノーラは両手で頭を押さえつけるも、喚き散らしながら頭を振り回した。


「やめて! やめて! 謝ります! 謝りますから! もう、花びん割りません! だからやめてぇぇぇ!!」


「落ち着いてノーラ!」


 後ろから衝動を止めようと手を近づける。


「やめて!!! もう、さわらないで!」


 背中に触れた瞬間に目の前で青い炎が舞った。咄嗟に後ろへ跳んで直撃は避けたが、前髪が雪玉を投げられたように冷たい。


「ハルト! このっ……!!」


 一部始終を見ていたカロリナが、動揺したのか胸の前に手をかざした。


「やめろ! カロリナ!!」


 大声を上げるとカロリナの動きが静止した。その隙に混乱しているノーラの前に移動する。そして、両手で押さえ付けている頭ごとノーラを抱き締めた。できるだけ、包み込むように。


「ノーラ。落ち着くんだノーラ」


 全身に衝撃が走った。氷柱を抱きかかえているような気分にさせられる。


「ハルト! そんな! 離れて、危険よ!!」


 そんなことはわかりきっている。それでも、これが考えつく最善の手だった。


 もはや言葉にもならない声を撒き散らすノーラに対し、僕は何度もここが安全であることを言い方を変えて繰り返した。次第に声も小さくなり、身体が温かさを取り戻していく。


 ようやく、声が聞こえなくなったところで、僕はノーラを離すと、涙で濡れた顔に向かって無理矢理微笑みかけた。


「お兄ちゃんが……ハルト……?」


 ノーラの目が僕に向くと、確かめるように視線が動いた。その怯えた仕草や話し方から、7、8歳くらいを想像する。ちょうど小学校低学年くらいだ。


「ああ、そうだよ。君はノーラだね?」


 ノーラは鼻をすすりながらコクン、とうなずくと小さく口を開いた。


「わたし、アーダといっしょに花びんわっちゃったの。だけど、いん長先生から、おしおきされたの、わたしだけ。もうしないって何回も何回も言ったのに、そのあとも何回も何回も。それからほかの知らない人にも何回も。男の人みんなにかこまれて体中さわられて、痛かった。すごい痛かった。」


 それは……まさか……。最悪の光景が頭の中をよぎる。だが、これ以上ここで思い出させるわけにはいかない。


「話してくれてありがとう、ノーラ」


 声が震えていた。


「別の話をしてもいいかな? 落ち着いたかもしれないけど、今、その話をするのはノーラにとって辛いことだと思うから」


 またうなずくと、ノーラは初めて笑顔を見せてくれた。


「グスタフが言ってたとおり」


「グスタフが?」


「うん。ハルトってすごいやさしいやつだから安心していいって」


 なるほど。そうやってグスタフはノーラに呼び掛けていたのか。


「その子、ノーラ、さん? だいぶ落ち着いたみたいね」


 頭上から降ってきた声に振り向き顔を上げると、カロリナがなんとも言えない厳しい表情で腕を組んで僕らを見下ろしていた。


「ああ、大丈夫みたいだ」


 ノーラの手をつかんでともに立ち上がると、カロリナの顔が見えるように1、2歩横へずれる。


「ノーラ。こちらがカロリーナ・カールステッド第一王女だ。黙っててすまないが──」


 突然、予想だにしない衝撃が顔面を襲い呼吸が止まった。


「ガハッ……」


 両手で顔を覆うと、生暖かいものが手の平についた。これは、鼻血?


「何するのよ!」


 殴られたことに気がついたときには、またカロリナが手を前に突き出して、魔法を唱えようとしていたときだった。急いで右手をカロリナの顔の前に伸ばして、その動きを止める。


「ハルト!? なんで? あなた今殴られたのよ!?」


「それは約束を破ったからだ、王女様。なあ、ハルト」


 グスタフは意地悪く嗤った。


「だが、王女様を配置したのは賢明な判断だった。もしあれ以上の暴走が起これば、オレたちにもどうすることもできないし、ハルト一人じゃ死んでたかもしれないな」


「死んでた、だって?」


 まだだらだらと血が流れる鼻を押さえながら疑問を口にするも、グスタフはその質問に答えることなく、椅子に座った。


「それより反乱軍のことが聞きたいんだろ? もう一度ノーラを呼ぶから、直接聞いてくれ。どうやら、ノーラもお前のことが気に入ったみたいだからな」


 そう言うと、グスタフの瞳から力が抜けた。そして、視線はしばし宙をさ迷い、再び光が宿った。まだ見慣れないのか、カロリナが喉を鳴らす。


 ノーラがにっこりと笑顔を向けた。


「ハルト兄ちゃん。わたし、あの人たちとあまり話しないの。キライだから。でも、こう言ってたよ。世界にふくしゅうする──って」

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