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今までの全てを音に託して

 カールステッドの音楽だって?


「ありがとうございます。ですが、この曲を私はカールステッドととして歌ったわけではありません」


 深く息を吸って、胸元に手を置いたマリーは僕の気持ちを代弁してくれた。


「確かにカロリーナ様らのようになろうとしたこともありました。発動しない魔法を現出させるために、何度も何度もカールステッドの音に立ち向かってきた。ですが、私のこの声を取り戻すことができたのは、ここにいるハルトのおかげなんです」


 いつになく力強い眼差しに耐えきれず、校長は目をそらして愛想笑いを浮かべた。その横でオーケ先生が静かに口を開く。


「では、そのハルトの音楽を聴かせていただきましょう。今回は特別にマリー様との二重奏を許可しましたが──」


 穏やかな茶色の瞳が真っ直ぐに僕を見据えた。


「本来であれば、一人で臨まなければいけなかった。そしてここから先、ピアニストを志すのであれば、一人で演奏できなければならない。それができる可能性があるのか、見させてもらうよ、ハルト」


 ぐっと胸の辺りを圧迫されたかのように見えない重力がのしかかってきた。だが、しかし、オーケ先生の言いたいことはわかっている。そもそも才能もあり努力も重ねてきたエリートを集めた集団は、急にどこかから沸いて出てきた魔法も知らない人間がちょっと練習しただけで生きていけるような世界ではないのだ。適性もないのにその道に進むよりは、ここで終わらせて執事なら執事に専念した方がいい。


 だけど、それでも──試験の前にオーケ先生は「今までの全てを音に託して」と言ってくれた。マリーと同じように。


「随分とプレッシャーを掛けてくれますね。言葉も地理もわからないこの世界に来て、ただ遊んでいたわけじゃありません」


 むしろ、想定外の出来事、いや事件に巻き込まれてきたんだ。コーヒーの味が今までの何倍も美味しく感じられるほど。


 オーケ先生はにやっと無造作の髭だらけの口角を上げた。


「それでは、演奏を始めてください」


 左隣のピアノに座ったマリーと視線を合わせる。口だけを動かして〈大丈夫〉と伝えると、お互いに楽譜に向かい合い、十指を鍵盤の上に優しく置いた。


 課題曲『コマンセ』。これまでのこと、マリーの音、そしてマリーの言葉たちを想起して、最初の音を鳴らした。空気が緩やかに振動していく。


 凍った海が徐々に解け出し、春の訪れを呼び起こすようなはじまりの意味を持つこの曲は、歩くようなテンポでオクターブを変えて同じメロディを繰り返す単純だが、それだけに演奏レベルがはっきりと分かってしまう恐ろしい曲でもあった。


 僕とマリーの間を揺れ動くメロディラインが、寄せては返す眼前に半透明の波を構築する。揺れる波はその面積を拡げて一枚の巨大な壁を、グランドピアノの前に創りあげた。これが魔法だという予備知識がなければ、突然、水面を映したディスプレイが現れたと思ってしまうだろう。


 表面はまだ冷たい真冬の水に覆われていた。2種類のピアノの音が交わり、離れ、その内面から温度を上げていく。


 思えば、この世界に来た僕を最初に見つけたのがマリーで、宮殿にいていい理由をつくってくれたのもマリーだった。はじまり、という意味ではマリーがいたからこそ、ここでの生活が始まった。


 水面は音を立てて流れ始めた。一段高い音域へ移動し、春の息吹きを吹き込んでいく。


 つい過去を思い出してしまったのは、こうして真横でマリーの音を聴いているからか。もしかすると、マリーとの二重奏がこれで最後かもしれない、という感傷からか。


 見なくてもわかるマリーの運指を思い浮かべて、それに重ね合うように自分の指を動かす。揺れがほとんどないマリーの演奏は合わせやすく、弾いていて居心地がいい。


 跳ねて、飛んで、また跳ねて──。永遠かとも思うほどの音の連なりも終止符に向かって突き進んでいた。


 鮮やかな水色が溢れ出した。枠から溢れ始めた水流は天井に向かって伸びていく。先生の視線はそこに釘付けだった。


 2つの音がピッタリと重なり合い、最後のメロディを奏でる。丁寧に、最後の一音まで気を抜かずに。


 マリーと僕が同時に腕を上げると、現象もまた止まった。


 ──そして、間髪入れずに腕を振り下ろし、鍵盤の上を走らせる。


「なっ……」「えっ?」


 オーケ先生までもが驚きの声を上げた。頭の上高くに伸びた水の塊がピアノの旋律に合わせて破裂したからだ。


 自由曲『アレグロスピリトーソ』。


 僕らは続けて弾けるような勢いで鍵盤上で踊る。胸の辺りから変な面白さが込み上げてきて、口元が緩んでしまった。


 とにかく速いこの曲は、同時に即興の多さでも有名な曲だった。二重奏で選ぶにはリスクの大きい曲とも言えるが、マリーとの演奏ならばお互いに合わせられるし、なにより、この曲で表現したいものが僕にはあった。


 鍵盤の上を流れるマリーの音に対して、優雅に揃えた音の粒で返す。自然と背筋が伸びてしまうような完璧な音の運びに情熱的なライン。弾けた水泡のなかから燃え盛る火球が姿を現す。


「この音は……!」


 声を上げるとともにチェルナー先生が立ち上がった。勢い余って座っていた椅子が床に倒れていく。


「カロリーナ様の音!!」


 火球はすぐさま装いを変えて、カロリナの得意なドラゴンの造形へと変わった。わにのような大口が床スレスレを飛行し、倒れた椅子を呑み込もうとする。


 マリーの音が跳ねた。前傾姿勢になって素早く指を動かし、次から次へと音を重ねていく。その音は、とても楽しそうだった。


 その流れに割り込むように、力を込めて重低音を響かせる。火を噴くドラゴンの分厚い皮膚が見る見るうちに茶色に変わり、崩れ落ちていく。


「今度は、エドガー・フォルシウス!?」


「確かに、聞こえる。この躍動感、重厚感は彼独特の……」


 そして、ラスト。休符を経て、一気に高音域へ身体ごと移動させる。床に発生した水溜まりは崩れた石片を全て受け止め、膨れ上がっていく。それは一つに集まり、翼を背に生やした透明な青色の馬の形を成していく。マリーが立ち上がり鍵盤を叩くと、その羽はゆっくりと上下に羽ばたきはじめる。


 僕も床を蹴って立ち上がると、指先に最大限の力を込めた。固くならないよう、音が散らないよう全神経を注ぎ込んで。僕とマリーの音が再び重なり合うと、ペガサスは一際大きく翼をはためかせて、地を脚で蹴り上げ、空へと舞った。


 それは室内を一周すると、床の上へ着地し、パッとその姿を消した。


「ブ、ブラボー!!!」


 チェルナー先生の拍手が鳴ったが、校長に睨まれると我に返ったのか、顔を赤くしたまま倒してしまった椅子を元に戻してその上に座った。


「しかし、こんな演奏見たことがない。カロリーナ様はいったいどんなレッスンを――」


「いえ、違います校長。カロリーナ様やマリー様がいくら教えてもこんな演奏はできない。おそらく、これがハルトの力です。だが――」


 オーケ先生の視線が僕を貫いた。


「ピアノ専攻には進ませられない」

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