試験開始
「……なんだか緊張するね」
そうだろうな、と思っていた。試験前ということで最近料理に凝り始めたカロリナの特製サンドイッチがさっきから全然進んでいない。
かく言う僕も、さっきからコーヒーしか飲めていなかった。ベーコンにチーズにあろうことかトナカイの干し肉まで詰め込んだ脂っこすぎるサンドイッチのせい、でもあるが。
「そうだな。ある意味、この間の選抜試験のときよりも緊張する」
マリーが驚いた顔をして僕を見た。
「ウソ、全然平然そうに見えるけど」
平然なものか。王宮ではすれ違う人々みんなが何か言いたげな視線を寄こしてくるし、カロリナはいつも以上にやかましいし、何よりエドの助言により特別にピアノ二重奏での試験を許可してもらったのだから、落ちるわけにはいかないというプレッシャーは、胃がキリキリするほど大きなものだった。
試験の待機所となっている教会には、試験を待つ生徒たちがそれぞれなりの過ごし方をしていた。エア楽器で何度も運指を確認する者、丹念に磨かれたユセフィナ像に祈りを捧げる者、黙々と食事をする者、談笑する者、じっとしていれられずに行ったり来たりを繰り返す者。
ギギギギと扉が開く音に全員の視線が注がれる。誰かの息を呑む音すら聞こえる程、急に静まり返った教会に、茶色の毛むくじゃらのオーケ先生が姿を現した。僕とマリーはどちらからともなく食べ物を片付け始めた。オーケ先生が来たということは、いよいよ僕たちの試験が開始されたということ。
オーケ先生は、手元に持った羊皮紙に目を向けると、そこに書かれているだろう名前を野太い声で読み上げた。
「ハルト。それにマリー・ジグスムント・ベルナドッデ・ユセフィナ・カールステッド」
思わず体がピクリと動く。オーケ先生も疑われている人物――そんな思考が頭に浮かんだが、ピアノの旋律を頭の中に響かせ、それを打ち消した。今は、目の前の試験に集中するべきだ。
僕とマリーは同時に立ち上がると、皆の視線に見送られてオーケ先生とともに教会の外へと出た。
「いよいよこの日が来たな。ハルトにマリー様、二人の演奏は陰で聞かせてもらっていた。二人ともベストを尽くせば、きっと大丈夫だ。特にハルト。今までの全てを音に託して」
オーケ先生は誰かに聞かれぬよう小声で言うと、不器用に微笑んだ。
試験会場となる第一演習室は、いつもの数十台のピアノの代わりに、二台のピアノが横並びに置かれていた。その前には長机が用意され、リーマン校長と声楽科のチェルナー先生が座っている。
部屋へ入ると、オーケ先生はチェルナー先生の横に座った。
「まずは、声楽科の試験から始めます。マリーにハルト、準備して」
僕は右側のピアノに座り、マリーはピアノの前に立つ。声楽科の試験は伴奏が必須のため、マリーにとっても僕と組むことは都合がよかった。
まずは課題曲『フリュフティヒ』。鳥たちの会話をモチーフにしたメルヘンチックな曲で、即興でさえずりを真似するところがあるのが特徴の曲だ。
天井を見上げたマリーはつま先立ちで大きく伸びをし、深呼吸を繰り返した。見ているだけで緊張が伝わってくる。
「準備はいいか?」
オーケ先生の言葉にマリーは確かに頷くと、黄金色の髪の毛が揺れて、くるりとこちらを振り返る。目と目が合った次の瞬間、僕は鍵盤を片手で弾いた。
きっちり4拍後、マリーが息を大きく吸って声を震わせた。すぐにそれは起こる。マリーの得意属性である水のエレメントが複数の泡として現出し、弾む歌声に合わせるように部屋中を動き回る。そして、音そのものを楽しむかのように弾け、生成し、次第に形を成していく。
マリーの高音が空高く飛翔するような声が、自由に舞うと、それらは羽を生やし、嘴を携え、半透明の青い小鳥の姿を現した。
クレッシェンドで大きくなっていく声に合わせて指先に力を入れていく。小鳥は講師陣の間を飛び回り、上空へ飛び上がる。跳ねるように、踊るように、指が舞う。マリーの軽やかなビブラートが響き渡る。小鳥は一斉に上昇し、白色の天井にぶつかる寸前に弾けた。
後に続く静寂のなか、オーケ先生が再び口を開いた。
「続けて自由曲」
「はい」
いつもなら拍手や歓声が飛び交う場面のはずだが、緊迫した空気が漂う。どんなに素晴らしい演奏をしても、これは試験。どんな振る舞いも見られていると考えると、一曲終わったとしても気を抜くことはできない。
息を整えると、マリーは右腕を高く掲げた。時が止まったのかと錯覚するほどの長い一秒間の後、その腕が振り下ろされると同時に、前傾姿勢になり、音を散らす。
マリーの腕から炎が燃え上がった。
自由曲は『グラディエーター』。火炎が似合う情熱的な曲だ。かつての剣闘士の戦闘を描いた曲でもある。
マリーが右手を前に突き出すと、炎は獅子の模様が描かれた槍を作り出した。次に挙げた左手からは龍の顔が彫られた長剣、斧、棍棒、小剣、大剣、そしてピアノ。マリーの得意属性とは真逆の炎が出現したことに、チェルナー先生が声を漏らす。
スピードと迫力を増す歌に合わせるように戦場を覆う金属音を散らす。持ち主のいない武器はそれぞれが勝手に動き回り、ぶつかり合う。どこまでもいつまでも、果てるまで疾走し続けるように。
マリーは、自由曲に全てをぶつけたいと言っていた。これまでのこと、全てを。その全てとは何なのか、僕は詳細に述べることはできない。だけど、この曲を選んだこと、苦手な火のエレメントを前面に出してきたこと、そのマリーの思いに応えるのが、僕のピアノだ。
なおも速度を上げる歌声。暴れ回る武器の群れ。必死についていこうと指は鍵盤上を走った。引き離されて、たまるか。
血煙が見えてくるような戦場。アドレナリンだけが突き進むその剣劇に、マリーはついに終止符を打つ。赤いピアノが自動演奏のように勝手に鍵盤を弾き始めたからだ。
ピアノが発する火球は武器たちを爆撃し、消滅させていく。マリーの声が誰かを呪うかのように極端に低くなった。争いを忘れ、逃げ惑う武器。容赦なく襲い掛かる焔の塊。
室内に地鳴りのようにじわりと響く最低音。その音が消えるその直前にマリーの短い息継ぎが聞こえた。
そして、半透明の雨が全員の頭上から降り注ぐ。瞬時に青色に変わったピアノが奏でるのは美しいヴォーチェパストーサ。
その歌声は炎を静め、やがて全ての現象を淡い水泡のように風景のなかに融かしていった。
深く頭を下げるマリーにチェルナー先生が拍手を送った。驚いた校長がそちらを向くと、チェルナー先生は「はっ」とした顔をして両手を膝の上に戻す。
「でも、チェルナー先生の気持ちもわかりますよ。素晴らしい一曲でした」
「あ……ありがとう……ございます」
胸を上下させてなんとか息を整えながらマリーはお礼を言うと、精一杯の笑顔を見せる。
「マリー様、本当に素晴らしい! 急に声楽科に転向したいと言われて正直心配してましたが、これなら問題ないですよね、リーマン校長!」
「ええ。さすがマリー様です。やはり、カールステッドの音楽ここにありですね」




