青色の旋律
心地好い沈黙が続いたあと、僕とマリーは早めに学校へ行くことにした。始業まで時間の余裕があるから、魔法の練習をするためだ。
マリーと僕はそれぞれ部屋に戻って荷物を取ると、軽快な足取りで王宮のすぐ横に建てられた校舎へと向かう。本格的な夏は終わったとはいえ、暖かい今日も芝生は青々と繁っていた。
ほどよい気候で過ごしやすい夏は、とにかく太陽が上っている時間が長かった。日が全く沈まないいわゆる白夜の期間もあり、深夜のはずなのに夕焼けみたいに輝く湖面や城、それらを囲むような森を眺めるのは楽しかったが、環境の変化と合わせて眠れない日が続き、寝不足気味だった。講義中何度寝そうになったことか。
そんな回想をしていると、いろんな楽器の音が耳に入ってきた。いつもは始業時間のちょっと前くらいに登校するため知らなかったけど、各々朝早くから練習に励んでいるようだ。
僕らは校舎に入ってすぐの階段を上がったところにある第一演習場に入った。すでに何人か先客がおり、熱心に譜面に向き合っている。
僕とマリーは目立たぬよう一番後ろのピアノを選んだ。鍵盤蓋を開けて譜面を置いて、椅子に座って指を88鍵の鍵盤の上に乗せる。
息を大きく吸い、目を閉じ現象を想像する。昨日カロリナの演奏と譜面を見た僕の頭には、自然と火球のイメージが浮かんでいた。その色と熱さ、手触り、匂い、空気の変化を克明に描く。
パッと目を開いて暗譜するほどに馴染んだ旋律を並べる。ライターの火をつけるときのような火花が瞬いたものの、それ以上の変化は起こらなかった。やっぱりか、と少し落ち込みながら横を見ると、マリーが神妙な面持ちで鍵盤にそっと指を置く。微かに震える指先が音を奏でる。マリーの得意なはずの水のエレメントに相応しく聞き心地のいいやわらかな音色。巧みな強弱で綺麗に音が揺れる。完璧な演奏のように思えるが、やはりと言うべきか魔法が発動することはなかった。
それでも、音が乱れることなく最後まで演奏を遂げたマリーは長い息を吐き出すとともに、その体を弛緩させた。拍手をしたい衝動に駆られたが、腿の上で手をぐっと握り堪えた。何度聴いても素晴らしい演奏。激情的で躍動的なカロリナとは違い、目立つような演奏ではないが、一音一音丁寧に大事に音を紡ぐマリーの演奏は、心をじんわりと打ち、響かせる魅力を持っていた。
演習室には目には見えなかったが青色の余韻が残っていた。気づけば、前の方で練習に励んでいた生徒たちの手が止まり、全員がマリーを注視していた。これほどの領域に到達するのは並大抵の努力ではない。元々の才能もあるのかもしれないが、たとえ魔法が出現しなくとも真剣に向き合い、闘ってきたからこそできることだ。
注目を浴びているのに気がついたマリーは、そそくさと譜面を片付けると立ち上がり、一礼して演習室を出ていった。
「あっ、ちょ、マリー!」
僕も急いでマリーの後を追って喧騒が始まった部屋を出ていった。
マリーは誰もいない廊下の壁に背を当てローブに付いているフードを目深に被って俯き加減で立っていた。両腕で譜面を握り締めながら。
「マリー?」
声を掛けてみたが、反応は返ってこない。肩が震えているみたいに上下を繰り返す。表情は見えないが、泣いているのだろうか。
「マリー」
もう一度呼びかけてみた。マリーは首を横に揺らした。なんでもないよ、大丈夫だよと言っているみたいに。きっと、大丈夫じゃ、ないだろうに。
誰かの足音が廊下を反響する。とにかく。ここにいるわけにはいかない。
僕は、動けないマリーの手を取ると、一階から続く教会へと向かった。あそこなら、黙って座っていても変には見えないはずだ。