マリーの告白
「執事長。しかし、まだ──」
「大丈夫。マリー様の声を取り戻したお主なら、どうすればいいかわかるはず」
くるりと首を回してそう言うと、再び前に向き直り執事長は颯爽と部屋から出ていった。入れ替わるようにしてマリーがゆったりとした足取りで部屋に入ってくる。
「あの……急に、ごめんね」
「いや、大丈夫だよ。それより、何かあった?」
「あの……」
何かを言わんと開けられた口が真一文字に結ばれ、マリーは俯いてしまった。どこか思い詰めたようなその顔を見かねて、とりあえず椅子を進めると、マリーは小さく首を動かして椅子の端にちょこんと座った。
僕もテーブルを挟んで向かい側に腰かけたが、それでも口は閉ざされたまま。
「何か飲む? 僕の部屋にはコーヒーくらいしかないから、他の飲み物がよければもらってくるけど」
「ま、待って!」
立ち上がろうとした僕を手を前に出してマリーは制止する。けれど、その先の言葉は出てこなかった。よほど言葉にしにくい何かがあるようだ。さっきの合唱でわだかまりは解けたと思ったが。それとも違うことなのか。
静寂に包まれた室内にはパチパチと木が燃える暖かな音だけが不規則に響いた。胸の前に置いたり、髪を触ったり落ち着きのないその手は、よくよく見れば微かに震えていた。寒いのか? いや、きっとそうじゃないだろう。
一定のリズムで時間だけが流れるなか、ふといいアイディアを思いついて、僕は立ち上がった。はっとしたようにマリーの目線が上がる。
「これを使おう」
部屋の奥のベッドの横に置かれた木棚に並べた本の中から薄いノートを取り出すと、マリーの座るテーブルへと戻り、それを広げた。マリーの字と僕の字が連なる会話用ノートだ。
「これ……」
少しざらついた紙面をマリーの細長い指がなぞる。
「最近、全然使ってなかった。今はもうハルトと声で会話するのが当たり前になってたから」
マリーの顔に柔らかな笑顔が戻った。
「もし、言いずらいことなら、前みたいにノートに書いたらいいかなと思って」
「そう……だね」
ペンを渡すと、そっと受け取り、マリーは文字を記し始めた。
〈ありがとう。ハルト。あのね、私が話したかったことは、進路のことなの〉
ペンを動かす手が止まった。僕はマリーの横に移動すると、そのペンを受け取り、マリーの書いた文の下に言葉を綴る。
〈進路の、こと?〉
ペンをマリーに戻す。髪を耳にかけると顔を傾け、僕の眼をまっすぐに見つめた。その瞳が揺れている。
〈私。ピアノ科じゃなくて、声楽科に進もうと思ってる〉
その文字は少し乱れていた。
〈声楽科?〉
でも、マリーはずっとピアノを弾いてきたはずだ。幼い頃から魔法が発動しなかったあのときも。
〈あの戦いのとき、ハルトを助けたいと思って初めて大きな声で歌って。それから子どもたちとも一緒に歌って。ピアノも楽しいんだけど、歌の方が私には合っているような気がしたんだ。それにピアノはもうカロリナ姉さんや、王宮から去ってしまったけど、エルサ姉さんがいるし。正直、二人にはかなわないかなって〉
〈そんなことはない。マリーのピアノが僕は好きだよ〉
そう書いた指がなぜか震えている。だが、マリーのピアノはマリーだけの音だ。あの音を身近で聴いていたからこそ、リベラメンテの現象も起こせたし、ピアノでだって今、魔法が使えそうなんだ。
マリーは首を横に振った。
〈ハルトは聴いたことがないと思うけど、私の音はね、エルサ姉さんと同じなの。私の最初の先生がエルサ姉さんだったから。得意なエレメントも同じ水だったし、演奏技術も音色も全てエルサ姉さんから教わった。ずっとわかっていた。どんなに練習しても、どんなに褒められても私の音はエルサ姉さんには届かない。だけどね、歌は違うの。私ずっとピアノしか知らなかったけど、今なら選べる〉
そこでペンを置くと、マリーはまた僕の目をじっと見つめながら口を開いた。
「だから、私は声楽科に進む」
「……そうか」
それしか言葉が出てこなかった。なぜかはわからない。けれど、マリーの告白を聞いて気持ちが焦っている自分がいた。「頑張って」とか「応援してる」とかもっと気の効いた言葉をかけてあげればいいはずなのに。
「だけどね、ハルトともずっと一緒にいたい。それに私と一緒に演奏すればもしかしたらハルトももっと魔法を使えるかもしれないし、ハルトの音、好きだから、私も」
そうだ。マリーの音が隣になければ、僕の魔法は発動しない。絶対ではないが、今のところは確実に。そうか、マリーがいないと僕は……。
マリーの目が下からのぞき込んできた。
「ごめん、ハルト。だけどね、私やっぱり歌いたいんだ」
*
冷めきったコーヒーを気持ち悪くなるほど一気に飲み干した。今は、エドにならってビールでも飲みたい気分だった。
『いろいろ考えて結論を出したんだよね』
『うん』
『応援するよ。それに専攻が別になったってマリーとならいつでも会えるしね』
『うん。同じ宮殿に住んでるんだから』
『そうだね』
『うん。ハルト、それじゃ、お休み』
それでマリーは部屋を出ていった。別にマリーに話したことが嘘だったわけではない。実際問題専攻が別々だろうが、同じ宮殿に住んでるわけで同じ学院に通ってるわけで、お互い時間を調整すれば今まで通り毎日会うことだってできるはずだ。
だけど僕は、ようやく今になって、僕とマリーを繋いでいた声を巡る関係性が終わっていたことに気がついた。つまりは、もうマリーが僕の隣にいる必然性はないのだ。
マリーと僕の関係は、エドが言っていた「恋人同士」という言葉とは明確に、違う。かといって友達という言葉も何か全部を含められる言葉でもない気がする。だとしたら僕はマリーとどうにかなりたいと思っているのだろうか。
そう考えたとき、ふと頭の中に浮かんだのはピアノを弾くカロリナの笑顔だった。
「ダメだ、寝よう」
考えてもわからない。そう言えば、この種の問題は昔から苦手だったような気がする。




