マリア・スンドクヴィスト
「ここもいないか……」
果たしてマリーはまだ自室に戻っていなかった。第一演習場にもいなかったし、図書室にも、そして教会にもいなかった。
ステンドグラスから漏れていた僅かな光ももう消えて、完全な夜闇が廊下を包んでいる。丁寧に磨かれた剣や槍を持ったプレートアーマーが不気味な光を放っている。白銅色の隙間から溢れ出る血の色が脳裏にちらつく。鎧を見ると、どうしてもあの戦場を思い出してしまう。あのとき、もっと上手く立ち回れていればあるいは──。
頭を降って自動思考を追い出した。今は、それを考えている場合ではないし、もうどうにもならないことだった。
「誰?」
不意に前方から現れた黒い影が訊ねる。
「貴方は……ハルト……よね。カロリーナ様の執事の」
影は、ゆっくりと近づくごとにその姿を現す。白のローブに覆われた黄色の髪。スラリと伸びた脚。涙ボクロに少し丸みを帯びた瞳。エドが騒いでいた特徴にピッタリだった。
「あなたは、マリア・スンドクヴィストさんですね。チューバ専攻の。僕のこと知ってるんですか?」
間近に迫った少し潤んだ黄色の瞳に問う。スンドクヴィストは微笑みを浮かべた。なるほど見方によっては妖艶な。
「わかりきった質問するじゃない。貴方、今有名よ。あのエドガー・フォルシウスから聞いてない?」
よかったな、エド。名前を覚えてもらってるぞ。
「ヴェルヴ使いだとか英雄だとか言われているらしいのは知っていますが……。そうだ、ご存知ないかとは思いますが、マリー、マリー・カールステッドは見てませんか?」
「私がそんなの見てるわけないじゃない」
急に空気がピリついた。なんだ? 何か苛立たせるような言動をしたか? 今まで魔法を使えないマリーを良く思っていない連中はいたが、こんなに露骨な態度を示す生徒はいなかった。
「……なんてね。何、驚いた顔もかわいいわね? マリー様なら宮殿の大広間にいたわ。子どもたちにピアノを教えてる」
「ピアノだって?」
「あら、知らなかったの? 恋人同士なのに」
「いや、僕とマリーはそういう関係じゃ──」
さらに近くに顔を寄せられて言葉が途切れてしまった。瞳の奥に戸惑っている自分の顔が映っていた。
「ふうん。じゃあ、私が君を狙ってもいいわけだ」
「何を──」
「フォルシウスがなにかやってるんでしょう? 学院トップ美女は誰かって。気になるわ。貴方は誰を選んだの?」
そう言って肩に触れようとした手を振りほどいた。
「誰も選んでいない」
スンドクヴィストは真顔になると腕を元に戻した。
「あらそう。残念」
「それでは失礼します。急いでいますので」
「──もうすぐ、また戦乱が始まるわ。一つ、忠告ね。ハルト、貴方、今度は守り抜けるかしら」
通り過ぎた背に掛けられたその言葉に振り返るが、スンドクヴィストは優雅な足取りで暗闇の中へと消えていった。
「戦乱が始まるだと……」
彼女が何者なのかはわからない。だが、それよりも僕の頭に浮かんでいたのは、またしてもあの惨状だった。あんなことが、また繰り返されるというのか。いや、わざわざ戦乱という言葉を使ったということは、あれ以上の何かが。
心臓の辺りを握り拳で強く押す。落ち着け。事態はまだ進んではいない。今のところの反乱軍の戦力は、スルノア国の軍隊にははるか遠く及ぼないはずだし、クラーラ王女が帰還中は外からも内からも攻め込まれる恐れはない。そんなことをすればアーテムヘル国どころか全てを敵に回すことになる。──まずは、今やらなければいけないことを一つ一つこなすだけ。それだけでいいはずだ。
*
大広間の扉の前まで来ると、中からくぐもるようなピアノの旋律が聞こえてきたが、音が小さ過ぎてこれが果たしてマリーの演奏なのかどうか完全には判別できなかった。マリーがいた場合どんな言葉を掛けたらいいのか、どんな顔をするのか、マリーはどんな反応をするのか──。
ゆっくりと両開きの扉を開けると、明るいオレンジ色の光の下にマリーの楽しそうな横顔があった。輝く笑顔の子どもたちに囲まれたマリーは、一人一人に目を合わせながら演奏を続けた。心が弾むようなリズムを。
マリーの視線が移動し、僕を捉えた。途端に演奏はストップし、代わりに僕に気づいた子どもたちの歓声が沸き上がる。
「ハルト!」「ハルトじゃん!」「マリー、ハルトが来たよ!!」
群がるように集まってきた子どもたちに手を引かれて僕達は中央に並ばされていた。
「ハルトもピアノできるんだろ? 弾いてよ」
アレシュが背中を押して椅子に座らせようとする。
「えっ! じゃあ、わたし、マリーの歌聞きたい!」
「じゃあ、伴奏をハルトに弾いてもらって、マリーに歌ってもらおう! いいよな、ハルトにマリー!」




