放課後
「……ということが今日の出来事だよ」
「なんだか口調が刺々しいわね」
「当たり前だよ。ルイースはものすごく腹立たしい。自分でマリーを傷つけておいてよく僕にあんなこと言えたもんだなって、どうかしてるよ!」
「まあね。でも、落ち着いて」
カロリナはシルバーのカップを口に運ぶと、なだめるようにそう言った。中身はブラックコーヒーだ。こちらのコーヒーは場所や人によっても違うんだろうけど、酸味が強い。自分で淹れるときは多めの量で入れることにしている。
「前も話したけど、ルイースは権力主義的で、カールステッド家という名前そのものに非常に尊敬を持っている子よ。それだけにカールステッドでありながら魔法を使えないマリーに嫉妬したのかもしれない」
カップをソーサーの上に置くと、腰まで伸びた絹糸のようなその長い黒髪をさらりと払った。髪色と同じ瞳が返答を促すようにじっと僕の目を見つめる。
「わかってるよ。でも、どうにかできないのか? ルイースはカロリナに心酔してるんだから、カロリナから言えばなんとか」
言いながら無理だろうなと想像する。心酔しているからこそ、カールステッドの名前だけで学校に残っていられるマリーに対して嫉妬心が募るのだから。
カロリナは予想通りの返答をすると、前のめりになり、「だからあなたが重要なのよ」と熱っぽく言った。
「何のしがらみもないあなただからマリーも心を開けるんじゃないかと思うの。教師陣から聞いてるけど、マリーの表情が少しずつ柔らかくなっているそうじゃない。マリーを守ってあげて」
カロリナの綺麗な顔に珍しく柔和な笑みが浮かび上がった。その表情に不覚にも見惚れてしまっていると、カロリナは意地悪くにやっと笑った。
「今、私にみとれてたでしょ?」
「いや、全然」
手をぶんぶんと横に振り、全力で否定してみる。カロリナはコーヒーを優雅に飲む。こんなに上品にコーヒーを愉しむ仕草はなかなか見られたもんじゃない。
「ふーん、あなたはこういう感じのがタイプなのね」
「いや、だから違うって! 確かにカロリナは綺麗だと思うけど、そういう対象として見てるわけじゃ」
ガチャンっと乱暴にカップがソーサーの上に置かれた。
「どうした?」
「い、いや別に。その言葉褒め言葉として受け取っておくわ」
そうなぜか動揺したように話したカロリナは、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「カロリーナ様。会議のお時間です」
どこからともなく現れたニコライ執事長の冷厳な声が静かに響く。
「わかったわ。それじゃ、ゆっくりしていって」
カロリナは椅子を引いて立ち上がった。長い髪が波打つ。
「今日も会議か? 忙しいな」
「そうね。だけど、これも務めだから」
そう言うとカロリナはくるりと背を向けて扉に向かった。その少し疲れたような背中に声をかける。
「カロリーナ様にはもっと私目のご指導をしていただかないと困りますゆえ、あまりご無理なさらぬよう」
カロリナはふわりと振り返った。
「では、覚悟しとくのね。今度ゆっくりとしごいてあげるから」
カロリナが部屋からいなくなり、手持ちぶさたになった僕は部屋を見回した。カロリナの部屋には何度か入ったことがあるが、じっくりと眺めるのは初めてかもしれない。一応、カロリナの執事なので出入りは自由なのだが、女性の部屋に男が一人でいるのはさすがに気が引ける。ともあれ、せっかくの機会。カロリナの言葉に甘えることにしよう。
あちこちに華麗な装飾が施された城の中とは違って、茶色の壁と床に白天井と簡素な作りだ。部屋の主のようにどんと中央に置かれた白いグランドピアノに、楽譜や書物を整然と並べた本棚とテーブルが狭そうに置かれている。窓に接するテーブルから月の光でぼんやりと浮かび上がる湖と校舎が見える。僕はここから見える景色が好きだ。僕の部屋からも大きな湖畔は望めるが、校舎までは見えない。
カロリナの執事と言ってもやることはほとんどない。唯一学校でカロリナが用事がある場合には付き添っているが、それもしょっちゅうあるわけではないし、カロリナと執事長がきちっとしているので出番がないのだ。
グランドピアノの鍵盤の上に置かれた紫色の布をつまみ上げ、一音弾いてみる。ポーンと張りのある高い音が部屋に響き、くぐもるように消えていった。カロリナは時間のあるときはここに座り、演奏している姿をよく見かける。もちろん、魔法は発動させないが、技巧を尽くした正確な演奏は、圧巻の一言だ。
僕もあれだけ弾ければ自信を持ってマリーの側にいられるのだが。いや、あそこまでじゃなくてもいいが、カロリナの10分の1くらいの実力があれば。
「まったく……」
と溜め息をつくと、楽譜が目についた。そう言えばまだカロリナの楽譜を見たことはない。楽譜は人によってまっさらな人もいれば、技術的なコメントや注意点、はては落書きまでいろいろ書き込む人もあり、その人の音楽への取り組み方がわかるバロメーターみたいなものだ。
適当に楽譜を取り出してペラペラと捲ってみると、さすがに時計の針のように正確と称されるカロリナらしく演奏の注意点やコメントだけでなく感情や作曲家の思いまでびっしりと書き込んでいた。
「ん?」
楽譜の間に何かが挟まっていた。見ると、鉛筆で描かれた女性のラフ画だ。
「カロリナ?」
いや、ものすごく似てはいるが、雰囲気が幾分か柔らかい。これは……。
「それはエルサ様ですな」
「!」
唐突に執事長が現れた。
「ちょっと、いきなり現れないでくださいよ!」
「すみません。つい気配を消してしまっていたもので」
さきほどとは打って変わって和やかに笑う執事長。つい気配を消す芸当ができたり、いまいち掴みにくい性格の持ち主だ。
「どれ、私にも見せていただいていいかな?」
執事長にラフ画を手渡すと、なだらかな眉がさらに丸くなった。
「お懐かしい。この方はエルサ・カールステッド様。カロリナ様の双子の妹君じゃ」
「どうりでよく似ていると思いました。こっちのエルサ様の方が表情が穏やかな気がします」
執事長は本当に可笑しそうに笑った。
「エルサ様は優しい方じゃったから」
その言い方に違和感を覚えた。過去形ということは今はもういないのか。
「エルサ様はかつての戦争の際、不意に出ていかれたのだ。今はどこで何をしているやら」
「何やら複雑な事情がありそうですね」
「そうじゃな」
執事長はそっとその絵を楽譜に戻した。
「なんでもないふうを装ってはいるが、一番心を痛めているのはカロリナ様なのじゃ」
それは要するに今見たことをカロリナには伝えるなと言うこと。僕は「はい」とだけ返事をして、楽譜を本棚に戻した。
「では、私はこれで失礼するとしようかの。まあ、あれだ。いろいろ大変だと思うが、私は執事としての君は評価している」
「ありがとうございます」
踵を返してゆったりとした歩調で部屋を出ていこうとする執事長は扉の前ではたと止まった。
「そう言えば。マリー様がお話できなくなったのもエルサ様がいなくなった頃じゃったような気がするのぉ」
「なんですって? そうすると、もしかしてーー」
マリーの喋れない原因は過去に?