まさかの彼女と街へ
その日は朝から雨が降っていた。寒気とともに目覚めたから、きっと冷たい雨だろうと予想する。
マリーが眠りについてすでに3日が経っていた。学校もないため鬱屈した気持ちのまま自室で過ごしていた僕は、ベルの音で久しぶりに外へと出た。
ドアを開けると執事長が背筋をすっと伸ばして立っていた。
僕の顔を見るなり執事長は穏やかな笑みを浮かべた。
「ハルト、ちょっと人手が足りんでの。君に手伝ってほしいことがあるんじゃが」
「わかりました」
正直めんどくさかったが、執事長がわざわざ部屋を訪れて頼む用件なら断るわけにはいかないだろう。特に何かがあるわけでもないし。
「身支度を整えてすぐに執事室へと向かいますが、どういった仕事ですか?」
「なに、街まで行って買い物をと思ってな。迫る収穫祭に向けてみな手が離せなくての。本来なら、宮殿まで届けてもらうか、こちらから誰か給仕を向かわせるんじゃが、君にお願いしたい」
執事長はその立派な白髭を撫でながら、のんびりした口調で用件を告げた。
「執事長。しかし、僕はまだ街に行ったことはないんですが……」
「大丈夫。もう一人案内係兼荷物運びとして呼んでる者がおる。その者と二人で時間を取らせてすまぬが、街へ赴き買い出しを頼みたい」
「わかりました。慎んで承らせていただきます」
軽くお辞儀をすると、執事長は微笑みを浮かべたまま部屋を後にした。
さっそくコットン仕立ての白シャツに燕尾服のようなブラウンのジャケットと、執事用の制服へと身支度を整える。雨の中の外出は気が引けるが、街へ繰り出すというのは悪くない。今まで一度も踏み込んだことのない領域へと足を踏み出すのだから。考えてみれば、僕はまだこの宮殿のまわりしかこの世界を知らないんだ。
赤い絨毯が敷かれた螺旋階段を下りて、一階にある執事室へと向かう。しとしとと絶え間なく降り続く雨音のせいか、城内はどこかいつもよりも静かな気がした。
両開きの扉を押し開くと、正面の大きな机に座る執事室と、机をはさんで手前に見覚えのある顔がいた。
「えっ、ルイス?」
「ごきげんよう」
いつものローブではなく、紺のブラウスに黒の細身のジャケットと全身黒づくめに固めたルイスがそこに立っていた。赤髪がいつもよりも際立って見える。
「今日はよろしくお願いしますね。ハルトさん」
「おお、きたなハルト。いや、申し訳ないんだが、人手不足で先生方を通じて生徒にも呼びかけたんだ。そしたら、いの一番にルイース様が手を上げてくれてな。買い出しリストはすでにルイース様に渡しているので、二人で協力してことにあたってほしい」
ーーという言葉が、揺れる馬車のなかで何度も反芻される。「ルイース様」と「二人で協力」なんてできないだろう。もちろん任務だからやるしかないんだが。
荷物運搬用の幌馬車の狭い空間に乗り込んでから、5分は経ったがいまだに沈黙が続いているし。
そんな重たい車内の空気を破ったのは、ルイスの方からだった。
「もう、当然知ってると思うけど、選抜試験、あなたといつも一緒にいるエドガー・フォルシウスがトップになったわよ。それなりの腕を持っているとは思ってたけど、まさか頂点まで勝ち上がるなんて実力を隠していたのね」
「へ~そうなのか」
本当に初耳だった。試合のことはどうでもよかったっていうのもあるが、カロリナとはあの一件以来会っていないし、他に部屋を訪れる人もいなかったから。
ルイスは眉を上げて驚いたような顔をした。
「カロリーナ様から知らされてなかったの? なんでも相談しあっているのに」
「なんでもというわけじゃないよ。それに……」
「それに?」
僕はルイスから視線を外すように御者の方に目を向けた。
「なんでもないよ」
それからまたしばらく沈黙が続く。外では変わらず雨が降り続け、僕たちを囲む布に雨音がじんわりと吸いとられていった。
「そう言えば、マリー様は元気かしら。あなたが棄権なんてするから何事かと思ったのだけど」
沈黙に耐えかねたのか、またルイスが口を切る。その目の中に少しの不安を宿しながら。
「別に隠すことでもないけど、他言はしないでほしいんだが」
「な、なによ。もちろん、誰にも言わないけれど」
「マリーはあの日からずっと眠ったままなんだ。別に試験のせいじゃないから、そこは気にしなくてもいい」
小声で囁くように告げた。ルイスはそれで事情を察したのか首を縦に振り、それ以上詮索することはなかった。かわりに別のことを聞かれたが。
「そう。それで、あなたは元気がないのね」
「は?」
「違うの? じゃあ、カロリーナ様と喧嘩でもした?」




