レッスン開始!
早朝。夜中に小雨が降ったのか、少し濡れた草木を分け入ってどんどん奥へと進んでいく。足元も若干ぬかるみ、革張りの靴が汚れた。
「まだか?」
後ろにいるカロリナに呼びかけたその声は、自分でもひどく疲れているように感じた。朝食も取らず、理由もわからず小一時間ほど湖の奥地を歩いていれば、さすがに嫌になってくるもんだ。
ところがその命令を下したカロリナはいつもの調子で「もうすぐよ」とだけ告げた。一応、王女のはずだが執事よりも体力があるのはカールステッド家の教育がなせるわざか。それとも僕が単純に体力がないのか。
「どうしたの? まだ訓練すら始まっていないのにその状態だったらーー」
「だったら?」
「死ぬわよ」
どうやらカールステッド家の教育がスパルタらしい。魔法の訓練でなぜこうも体力を消耗しないといけないんだ。
そんな風に心の中で悪態をつきながらさらに10分ほど歩くと、開けた草原に出た。自分の顔くらいまで生い茂った草を避けると広大な湖の先に赤茶色の宮殿や校舎が見える。爽快な眺めに心が和んだ。まるで一つの山を登頂したような達成感だ。
「着いたわね」
カロリナは顔色一つ変えずに僕の前に出て、草原のちょうど真ん中に立つと、妙な質問をした。
「楽器を用いた魔法は確かに強力だけど、場所が限定されるから不便と思ったことはないかしら?」
頭をひねる。確かにそうだ。昨日だってそのせいでオーケ先生も僕の魔法を止めることができなかった。だが、それは当たり前のことじゃないか。
「特にピアノなんて大型のものは、容易に移動できないから戦闘においては使い勝手が悪い。けれど一流の魔法使いは、場所を選ばず上級魔法を使いこなせるのよ」
カロリナは静かに目を閉じた。手を胸の前に突き出すと、上から下へ流れるようにゆっくりと動かしていく。
その動きに合わせるように半透明な赤い物体が構築されていった。3本の太い足にペダル。88鍵の鍵盤。カーブを描く屋根の中にある弦。そして、座り心地が良さそうな、思わず背筋がピンと張る椅子。ーー濃淡の違う赤色に揺らめくグランドピアノがカロリナの前に現れた。
カロリナはドレスが引っ掛かるのに気をつけながら椅子に座ると、蓋を上げて指をゆらゆらと燃える鍵盤の上に置いた。もちろん温度の調整をしているのだろう。涼しげな目がこちらを向く。
「それでは、レッスンを始めます」
その言葉が終わるや否や顔の大きさ程度の火球が猛スピードで飛んでくる。咄嗟に地面を転がり避けるが、火球は地面に当たり草を燃やした。焦げた匂いが辺りに充満する。
何やってんだ、と抗議の声を上げる前にカロリナが鍵盤を揺らし、再び火球を作り上げた。それも何発も。
嫌な予想通りそれらが一斉に僕に向かって発射された。
「避けなさい!」
言われなくても! 草原を思いきり走り抜けると、さらに火球が追加される。なんとか踵を返して反対側に走るが、そこには動きを予測してたかのように口を大きく広げた巨大な獅子が待ち受けていた。
足が動かず、反射的に両腕を固めて頭を守る。当たると思った直前ーー鍵盤が一際強く弾かれ、髪をなぜる微風だけを残し赤い獅子は消え去った。
「うーん、ダメね」
カロリナは鍵盤から指を離すと、腕を組んで呆れたような目でこちらを見た。
「ダメって……」
息が上がりきり、不意討ちに対する怒りを言葉にすることも難しかった。にしても、いきなりの攻撃なんてスパルタ過ぎるだろ。
「実際の戦闘では相手はなりふり構ってなんていないわ。あの手この手で敵を倒そうとする。今のでも十分優しいくらいよ」
そうか? 無理な動きをしてもう十分身体が悲鳴を上げているんだが。
「今のは、オーソドックスなやり方ね。小さい火の玉をつくって敵を翻弄しつつ、メロディラインをきっちり繋げて創り出した一撃で敵を仕留めるっていう。きちんと音を聞いていれば、火球の単発の音が紡がれて一つのメロディになっていたことがわかったはずよ」
なるほど、そうか。僕はようやく息を整えて顔を上げた。
「目の前の攻撃をかわすことに集中しすぎて肝心の音の流れを聞いていなかったってことか。逆に音をきちんと聞いていれば、相手の意図を読んで動けるということ」
カロリナは片手で髪を払うと、妖艶な笑みを浮かべた。
「正解! なんだ、ちゃんとわかっているじゃない」
そりゃあ。さすがに毎日授業受けてたからな。でも、座学と実戦ではレベルが違いすぎる。学校の勉強がいくらできても社会で通用しないように、咄嗟の機転と応用を働かせないとまるで歯が立たない。今はかわすことだけで精一杯だったんだから。
などと考えを深めることすら許されず、再度鍵盤が素早くかき鳴らされた。いや、それにしても、やっぱりスパルタ過ぎる気がするんだが。
今度は複数の獅子が正面から迫ってきていた。




