再びの対峙
ルイスが演奏を開始すると同時に、嬉々としたグラティスの剣が僕に向かって飛び降りてきた。後ろに大きく跳んで、その一撃を避ける。
「厄介だな……」
グラティスに対峙するには本物の武器か、黒のヴェルヴを発動させるしかないが、武器の扱いはほぼ皆無で、ヴェルヴでの戦闘はまた暴走しかねなかった。
「今、クラーラ様がゾーヤを回復させている。ゾーヤが戻ればなんとかなるでしょ?」
「ゾーヤが戦闘に復帰できるのなら、逃げ出すタイミングは作れるとは思うが……」
「だったら、ハルトはそいつに集中して。私は、バルバロッサを食い止める!」
「ああ……」
だが、大丈夫なのか? 今さっきまで動けないでいたはずなのに。ルイスは死んだだの、ルイスの大の親友のハンナだの、ルイスの過去はわからないが、バルバロッサとの間には明らかな確執がある。そんな相手と戦うのは──。
「大丈夫」
と、僕の心内を読んだようにルイスは柔らかな声を出した。
「今はなんとか、あの子どもたちを守るためになら立ち上がれたから」
その言葉を聞いたとき、鮮明に浮かんだのは子ども時代のルイスの姿だった。無論、見たことなんてないが、一人でうずくまってひたすらに涙を流すその姿が僕の目に映った。
「その負けん気は、ルイスらしいな」
「ええ。それだけはカロリーナ様にも負けないわ」
ルイスは弓を、僕はヴェルヴをそれぞれ握ると、演奏を開始した。ヴァイオリン協奏曲とでも表現すればいいだろうか。
飛び抜けた高音のアクートの音で始まったルイスの演奏は、勢いに任せたアジタートアッレグロへと移り変わり、渦状の風の塊へとその溢れる怒りを変化させた。空気を切り刻むような鋭い音が絶え間なく鳴り続ける。
「そのヴェルヴで戦うつもりかい?」
僕に対するグラティスが剣を下段に構えたまま呆れたような声を出した。
「あの黒い刃を出しなよ。あれじゃないと、すぐに殺されるよ?」
「すぐに殺されるつもりはないし、お前を殺すつもりもない」
「ふーん、優しいね」
その言葉とともにグラティスの姿が消えた。すぐさま横へ跳ぶと、僕のいた場所に斬撃が現れる。
「よくかわしたね。でも、次はどうかな?」
再び姿を消すグラティス。雪の上に倒れた体を急いで起こすも、上空から黒い影が襲い掛かってきた。
ヴェルヴの柄でその重い一撃を防ぐも、身体は後ろへと移動させられた。息をつく間もなく繰り出される剣撃に追い詰められていく。
「どうしたの? これならさっきの子の方がまだましだったよ。本気出してさ、楽しませてよ!」
ダメだ、全く手が出せない。このまま防戦一方ではジリジリと追い詰められるだけ。一瞬だけでもあれを使えれば……。
「ダメです、ハルト! 今、もし貴方が暴走すれば誰も止められない!!」
「ちょっとその気になってたのに! 余計なお姫様だな」
刃の軌道が変わった。いや、違う。変わったのは標的だ。
「待て!!」
その背中に声を投げつけるも、みるみるうちに離れていく。グラティスの無邪気な笑顔が振り返った。
「あのお姫様を殺せば、君は本気を出すかな?」
背筋が凍りつくのを感じた。王宮防衛戦のときに感じた足がすくむほどの恐怖が。
グラティスは、ゾーヤに手を当てて治療を続けるクラーラの手前で止まった。その手に握る剣が頭上高く振り上げられ、上を向いたクラーラの顔に真新しい血が滴り落ちる。
がむしゃらに前へ進む。間に合え、と心の中で叫びながら。
「死んで」
間に合え、間に合え、間に合え!
凶剣が残酷に冷徹に振り下ろされる。考えている猶予はなかった。
「なっ、ハルト!」
鈍痛が、身体全体を貫いた。声も出ないほどの強烈な痛みに神経回路全てが悲鳴を上げていた。
思わずクラーラの前に飛び込んだ僕の背中をグラティスの剣が閃光のように斬った。
なんとかゾーヤを巻き込まないように雪中へ雪崩れ込むも、脚が麻痺したみたいに言うことを聞かなかった。まるで立つことも、それどころか動き回ることもできず、ただ苦痛に顔を歪ませることしかできなかった。
「……なんで……?」
なぜか呆気にとられたように立ち尽くすグラティスを視界の端で捉える。
「意味がわからない。なんで、なんでだよっ!」
いったい何が起こった? なぜ、グラティスの方が動揺している?
「わからない、わからない、わからない、わからない!!!!!」
2つのヴァイオリンの激情の音のぶつかりに呼応するように、グラティスは叫び声を上げた。
「ハルト」
クラーラが小声で話しかけ、僕の背に指が触れた。柔らかな掌の感触から温かさが広がっていく。
「ゾーヤの応急処置は完了しました。直に目が覚めるはずです。そうすれば、この場から退避して子どもたちとともにアーテムヘルの地へ逃れる算段が立つ。そのために、ハルト、回復に集中してください」
集中と言われても。グラティスの叫び声の理由にルイスの音の行方、それに逃げる算段だって考えないわけにはいかなかった。
いや、落ち着け。まず考えるべきはここから逃げる方法だ。並みの敵ならまた魔法で分厚い壁を創り上げれば時間は稼げる。問題は魔法の効かないグラティスへの対処だが。
「うっ……すみません、隊長」
ゾーヤが上体を起こした。やはりまだ傷が痛むのか、一直線に切り裂かれた外衣の上から胸を手でおさえる。
「ゾーヤ。動けますか?」
「問題ありません。指示をお願いします」
メガネの奥の瞳を心配そうに瞬かせながら、ゾーヤは僕の言葉を待った。その答えはもちろん。
「全員──撤退……だ」
すぐに「了解」と返事をするとゾーヤは立ち上がる。その目が見据える先には、うなだれたままのグラティスの姿が。
「君はなぜそんなことができる?」
別人とも思えるほどのどす黒い声が、まるで独り言のように何かを呟いた。
「自分を犠牲にしてまで、誰かを守ろうとするなんて愚かだよ。魔物だって人間だって、その本能は利己的にできてるんだ。僕は知ってる君の中には何もない。僕と同じように空っぽのはずなんだ!」
銀色にも見える真っ白な髪の毛を強風がかき上げた。その金と赤の瞳が獰猛な肉食獣のそれのように収縮した。
「逃がさないよ、ハルト」
姿が消えたと同時にゾーヤが体を横にひねらせ後ろへと回転しながら跳ぶ。着地した途端に上段から剣が振り下ろされ、短刀で防ぐ。が、次の瞬間には、ゾーヤは後方へと投げ出され、雪面に背中をつけていた。
その白い首筋に刃が突きつけられた。
「どう? このまま僕が力を入れれば、この子は簡単に死ぬけど、また助けに入る? 助けに入ってもいいんだよ? できるものならね」
グラティスにはもはや笑顔がなかった。そこにいるのは、殺戮本能だけで動く獣、あるいは、殺戮だけをインプットされた機械だった。
クラーラを押しのけて起き上がるも、身体が悲鳴を上げた。ゾーヤの首の皮が破られ、赤い血が溢れ出る。
──そのとき、どこからか雨音を連想させるピアノの音が、確かに聞こえた。