黒い衝動
「なんだって?」
「多過ぎるんだよ。兵士の数も、守らなきゃいけないものも、やるべきことも、考えなければいけないことも、何もかもが」
「ふーん。だったら全部棄てちゃえば? パパーッてさ! 気楽なもんだよ、何も持っていなければ」
「──そうだな」
「なっ……?」
金属音が鳴り響いた。跳び、回り、走る。まるで自分の体とは思えないほどに軽やかに自在に動いた。斜め上から振り下ろした刀は再びグラティスの剣と交える。
「へ~意外にやるもんだね!」
刀を弾くと、白髪が揺れた。踏み込んだその一撃を受け流し、その整った綺麗な顔を蹴り上げる。頬が歪む小気味いい音に背中が震えた。
「どうした? その程度か?」
おもむろに立ち上がったグラティスは黒衣の袖で蹴られた頬を拭った。口元を歪ませながら。
「やっぱり思ってた通りだ。君の心の奥底には闇がある。あのとき初めてその黒剣と交えたときにわかったんだ。君は僕と同じ、何もない、空っぽな心の持ち主だ」
「何をわけのわからないことを言っている」
刀を構える。あらゆる黒を凝縮したような漆黒の刀を。
「殺す気まんまんだね」
「当たり前だ」
雪を踏む。地を蹴り、束を握り締める。そして──。
「ハルト!!」
後ろから半透明の巨大な水球が襲ってきた。
咄嗟にそれを左に避けると、壁が砕ける音に子どもたちのわめき声、詠唱、全くハーモニーを成していない多様な楽器の音、クラーラのトランペット、そしてディサナスの音──幾重にも重なる戦場の音が戻ってきた。
壁が完全に崩れ落ち、開けた先にはフルートを口に当てたディサナス、いや、ヘイターの姿があった。乱れた髪を漂わせながら、憎悪に満ちた瞳が僕を見つめる。
「ハルト、戻りましたか?」
戻った? 確かに周りの音は戻ってきたが……。
「カロリナから話は聞いていましたが、その黒い刃、何か禍々しいものを感じます」
言われて手元に目をやるも、すでに刀身は消失し、鉄製の柄だけが固く握り締められていた。まさか、このせいで──?
「はぁ。なんか元に戻っちゃったね。せっかく面白かったのに」
つまらなそうに唇を尖らせると、グラティスはすっ、と姿を消した。瞬きをした次の瞬間に、目の前に顔が現れる。
「死ね」
「──殺させません!」
振り下ろされた剣を防いだのは、積雪を蹴り上げるように下から現れたゾーヤだった。
「子どもたちはアレシュに任せました。隊長! ご指示を!」
「行かせないよ!」
「それはこちらの台詞です」
風のように舞うそのスピードにゾーヤは正確に付いていく。恐れることなくおののくことなく、流麗な剣さばきでグラティスの攻撃を防ぎ、体を捻らせてかわし、反撃し、その場からグラティスを逃さないでいた。だが──。
「なかなかやるね!」
後ろへ下がったグラティスをゾーヤが追撃する。愉快そうな笑顔を崩すことのないグラティスに比べてゾーヤは必死な面持ち。きっと長くはもたない。
もう一度、快活なトランペットの音が響いた。僕の創った崩れ去った壁を構築しようと、クラーラは安定した重厚な音を奏でる。岩石で覆われた土の壁は、しかしその機能を果たす前に次々とディサナスの不協和音の魔法によって凍り付き、破壊されていく。
この状況で今やるべきことはなんだ。僕が、僕らが今取るべき最善の手は──。焦る心にふっと浮かんだのは、あの言葉だった。
『いいか、ハルト。戦場において、たたかいにおいて最も大切なことは諦めないことだ。勝つか負けるかの話ではない。生きることを諦めるな。どんなときでも生き抜く方法を考えろ。最後までしぶとく生き抜いたものが勝者だ』
オーケ先生の顔が頭に浮かぶ。普段は温厚な顔が、戦場のあのときだけは怒りに満ちていた。
そうだ、生を諦めたら全てが終わり。だったら今、僕にできることは。
「──全員、撤退だ!!」
そのとき、周囲の全ての視線が僕に向いた。密かに隊列の奥へと逃げ込んでいったバルバロッサの顔がにやついたように見えた。
再びヴェルヴを振るい、クラーラの代わりに壁を構築する。
「クラーラ。ここからアーテムヘルへはそう遠くないんだよな?」
「どう急いでも3日はかかります! 子どもたちを連れての脱出は無理です!」
驚いたようにトランペットから口を離すと、クラーラは一度大きく息を吸って早口でまくし立てる。
「陸路ではな」
「まさか!?」
「海を渡ればどうだ?」
宮殿の側の湖で子どもたちがスケートを楽しんでいる平和な光景が頭の片隅に浮かんだ。そうあのときは、平和そのものだったのに。
「しかし、危険ですよ! 分厚い氷に覆われてるとはいえ、いつ崩れるかもわかりません。もし、移動中に足元が崩れたりなどすれば──」
破裂音がして何度目かの壁が破壊される。崩れ落ちる瓦礫の隙間から、冷酷なブルーの瞳が窺えた。
「だからディサナスを取り戻す。僕がディサナスの体を支配しているヘイターと戦うから、ゾーヤはグラティスを、クラーラはそれ以外を頼む。ディサナスを取り戻して即、撤退だ!!」
「了解!」「了解です!」
二人の返事を背に受け、僕はディサナスに向かっていった。王宮での、ディサナスとの合奏を頭に思い浮かべながら。