転生と日常と
今日も朝から多種多様な音が響き渡っていた。ピアノ、ヴァイオリン、フルート、チェロ、コントラバス、オーボエーーまだ全然覚えきれていないが、ありとあらゆる楽器の音色が、だ。
澄み渡った晴天の下、虫一匹いなそうなほど綺麗に刈られた青々しい芝生を抜け、赤レンガで統一された重厚な二階建ての校舎に入ると、その音は一段と大きくなった。
「酷いわね。これでは、まるで騒音じゃない」
両手で耳を包み込むように押さえながら呟いたカロリナは、同意を求めるように僕の顔をちらりと見た。
僕は首を横に振った。
「確かに不協和音も混ざっているように思いますが、僕もこの程度ですので」
「それもそうね」
カロリナはわざとらしいくらい大きく溜め息を吐いた。
「このカールステッド家長女であり宮廷専属ピアノ奏者の私が直々に指導しているのに、どうして貴方は一向に上達しないのかしら」
「面目ない限りで」
僕も目を瞑ってわざとらしい溜め息を吐いてみる。
「なによ。本心からそう思ってる?」
「もちろんですとも。生活環境が全く違うこちらに来てまだ慣れていないなかで、全く触れたこともないような楽器の演奏を懇切丁寧に教えていただいているのに上達する気配すら感じないことに申し訳ない気持ちでいっぱいでございます」
「このやろーー」
舌打ちをして何事かを喚きそうになったカロリナの言葉を遮る。
「仮にもカールステッド家長女のカロリーナ様ともあろう方が、皆々様の眼前にて舌打ちをしてこのやろうなどとのたまうのはいかがなものかと思いますが」
僕の言葉にカロリナは、振り上げた拳を素早く下ろした。見渡すまでもなく多くの制服姿の生徒が、均等に煉瓦の壁に配置されたステンドグラスが輝く廊下の両端にずらっと並び、羨望の眼差しで見つめていた。
「カロリーナ様おはようございます」
ついさっきまで溢れんばかりだった音は止み、挨拶の大合唱が起こった。それもそのはず、今日は月に一度、宮廷専属ピアニスト、カロリーナ・カールステッドの実演授業の日なのだ。
カロリナは咳払いを一つすると、細い身体をすっと伸ばし、優雅に微笑みながら挨拶を返した。そのパーフェクトスマイルに男子生徒はおろか女子生徒まで頬を上気させてうっとりとした顔を浮かべていた。確かに、美しい笑顔だとは思う。例えるなら、そう花なら薔薇、宝石ならダイヤモンドといったところだろうか。入ってくるなり、この子達の演奏を馬鹿にしてたなんてとても思えない。
そのパーフェクトなスマイルを撒き散らしながら、カロリナは正面の教会へと向かった。これまた優雅な足取りで。
そして、その後ろを歩くことを許された僕にいつものように嫉妬と羨望の入り交じった微妙な視線がぶつけられる。
その視線に気づかないふりをしながら、カロリナの後をつき、宗教画が描かれた両扉の前に立つとその扉を開けて、カロリナを中へ入れた。カロリナが完全に中に入ると、我先にと猛ダッシュで生徒達が迫ってくる。
100人近くの人数がいれば、どうしても後ろの席に座らざるをえない人が出てくる。しかし、こと演奏者に関しては間近でその繊細なタッチを観たいと思うもの。『天使の手』と称されるカロリナの演奏とならばなおさらだ。
そんなわけで100m走の競争のごとく本気で向かってくる生徒達が次々と教会の中へ雪崩れ込んでいく。
「よう、相変わらずお疲れだな」
そこへ、集団の流れに乗ることなくゆっくりと歩いてくる男が声をかけてきた。
「おはよう。マリー」
あえて無視してその後ろをのぞき込むようにして、小動物を思わせるくりっとした青い瞳の背の低い少女に挨拶した。
「てめ、無視すんな」
肩をどつかれた。が、これがこいつに対する挨拶みたいなもんだった。
「エド、ひどい寝癖がついてるぞ、直してやろうか」
そう言って髪に手を伸ばすが、その手が払い除けられてしまった。
「いらねぇーよ。知ってるだろ? 俺の髪を触っていいのは美女だけだ。しかも飛びきりの」
「もちろんだ。冗談だよ、ただの」
エドは口角を上げてニヤリとした。そのやり取りを見ていたマリーも心なしか嬉しそうになっているような気がする。
「えーそれでは、これからカロリーナ・カールステッド様の実演をはじめーー」
リーマン学校長のぼそぼそと聞き取り辛いあいさつが始まった。
「あっ、ほら始まるぞ。席に行こうぜ」
背中を押されて中へ入り、一番後ろの席に3人まとめて座ると同時に綺麗に磨かれた漆黒のグランドピアノにカロリナが十指を並べた。
全員の視線がカロリナの白く細長い指先へと集中し、会場全体が息を呑むような緊張感で張り詰めるーー長い一拍ののち、音が弾けた。
そして、その「現象」は現れる。カロリナの頭上に突如出現した赤々と蠢く火球が飛散し、薄暗い教会内部をオレンジ色に照らした。スタッカートの力強い旋律に合わせて散らばった火球がまた一点に集まり出す。音が強さと速さを増す度に火球が増大し、一つの形を作り出す。固そうな鱗に巨大な翼。カロリナが得意とするドラゴンの造形だ。カロリナの指が鍵盤を優雅に滑ると、ドラゴンも踊り、カロリナの元へ素早く飛翔する。ドラゴンがカロリナの身体に触れる寸前に最後の一音が弾かれ、炎の塊は掻き消えた。
再び一拍後、誰かの歓声をきっかけに全員が立ち上がり満場の拍手が沸き起こった。
そのなかで僕だけが座ったまま目を瞑っていた。心が躍らなかったわけではない。それよりもただ、どうしてこうなったのかーーその疑問とやるせなさの方が少し上回っただけ。
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