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運命交錯小劇場

作者: 千葉 ワタル

 わたしは深く溜め息をついた。

 健太と駿の、その場のノリだけで行動してしまう姿に辟易したからだ。 

 わざわざ高校の卒業旅行で北海道から東京まで来て、どうして名前も知らない如何にもつまらなさそうな自称お笑い芸人のライブを観なくてはならないのだろう。

 こんなライブに五百円を取られるくらいなら、そこのコンビニでささやかな贅沢でもして、さっさと次の目的地へ行く方がよっぽど有益だ。


「花純、あんたお笑い好きじゃない! ほら行こうよ!」


「結衣まで乗り気なわけ? こんなオンボロ劇場の地下芸人のライブなんて時間の無駄だって」

 

 確かにわたしはお笑いが好きだ。


 正直詳しくはもうあまり覚えていないが、赤ん坊の頃から両親を知らないわたしは、東京で劇団の運営をしていた克己おじちゃんに四歳の頃まで育てられた。


 その劇団では、普段は演劇公演が中心ながらも、週一回のペースで集団コントの公演が行われていた。 劇団員の身内しか入らないような小さくて無名な劇場が拠点ではあったが、そのコント公演を監督である克己おじちゃんと観るのを幼心にも楽しみにしていたのは、微かにだが覚えている。


 克己おじちゃんが病気で亡くなってから、わたしは北海道の叔母の家に引き取られることになったのだが、克己おじちゃんとは何者で、両親とはどういう関係だったのかについて、叔母が口を開くことは無かった。


 幼少期は気になってよく尋ねたものだが、北海道での生活に馴染み始めてからは細かいことなど気にならなくなり、ついに高校を卒業した今まで訊かずにきたのだ。


 ただ、コント公演の微かな記憶から、お笑い番組は自然とよくチェックしていたし、わたしが好きな芸人の地方公演などに欠かさず足を運んでいたのを、結衣は知っていた。


「待った待った! でも、ほらあれ、あの人。中々のイケメンじゃない? あの人も出るのかな? やっぱ都会は違うわ、マジで東京の大学にすればよかったー」


 さっきまで健太と駿がライブ勧誘に捕まっているのを見て「は? 時間の無駄。早く原宿行きたいんですけど」といつもの調子で呆れ顔をしていた結衣が、手のひらを返した理由が分かった。

 

 結衣の熱心な視線の先には、お得意の熱心でユーモラスなトークでウチの馬鹿男子二人をすっかり乗り気にさせている、顔立ちが端正な背の高い若い男が立っていた。


 若い、という印象は特に強く、わたし達と同年代にさえ見える。


 赤い蝶ネクタイに黄色い蛍光色の派手なスーツを着てライブの勧誘をしているところを見ると、彼もまたこの劇場に出演している芸人なのだろう。


「でもねえ、アイツらが渋ってるんすよ」

 

 健太と駿がニヤニヤしながら顎でこちらを指す。


 するとすかさずその若い舞台衣装の男が「お姉さん方ほら! だってこれ観に東京来たんでしょ? え? 違うの?」と挨拶代わりのジャブくらいに軽くツカミをかましてくる。

 健太と駿がケラケラ笑う。

 結衣もウフフと笑う。

 結衣のやつ、芸人じゃなくて男に見せる(魅せる)顔をもうこの短時間に作っているな。

 わたしは知っている。結衣が芸能界やクラス内ゴシップの話をしている時に見せる、ガハハハという本当の笑い方を。


「わかった、わかったよ観ますよ。あなたのその派手派手な衣装でどんなネタやるのか少し気になるし」

 

 あくまでわたしから興味を持って折れたのであって、あなたの勧誘が面白かったから折れたわけじゃない、ということを少しでも示したかった。あなたの手柄では決してないよ、と。


「よっしゃ! さすが! 愛してる! どんなネタって、そりゃもうハートフルでインテリジェンスなパーフェクト漫才さ。橋本さん、お客さん四人入りまーす!」

 

 息を吐くように適当を言うこの男の後に付いて、わたし達四人は『白百合劇場』と入口の立て看板に書かれた、二階建ての劇場へと入る。

 黄ばんだ白の外壁は重ねた年月を想わせ、まだ春なのに空調の効き過ぎた室内は、スタッフの役割も男性演者が兼ねているのだろうと想像させた。


 室内に入ると正面に受付カウンターがあり、恐らく「橋本さん」であろう三十過ぎくらいの男が、わたし達の五百円と引き換えにアンケート用紙とシンプルなレイアウトで手作り感満載の折り込みチラシを愛想良く渡してきた。

 この人も演者として出るのだろうか、と思いながらアンケート用紙に目をやる。全部で四組の芸名がネタ順に書いてあって、それぞれ隣の欄は感想を書けるようになっていた。さっきの同世代で舞台衣装の適当男は、どこで出てくるのだろう。


 受付の右手に進むと、四十席ほどのパイプ椅子が並んでおり、最前列の左端に中年のおじさんが一人、その後ろの列に一組のカップルと大学生くらいに見える三人の女性グループがそれぞれ座っていたので、わたし達は三列目にひっそりと着席した。


 これしか客入ってないのかよ、という言葉がわたし達四人中四人の喉を通りかかると同時に、劇場内に流れていた音楽が徐々に大きくなり始めて客席の照明が暗くなり、ライブが開演した。


「どうも~、いや始まりました白百合劇場平日お笑いライブ午後の部!」あ、受付の橋本さんだ。やっぱり演者だったのか。


「今日もこんなに超満員、たくさんのお客さんに入っていただいて」


「あの、ちょっと相方の橋本君、目が悪いみたいなんですけど」


「我々、中田と橋本でコンビ名がミルキー胡椒っていうんですけど、知ってるぞって方?」


 上がらない手と、クスクスという笑い。出てきて早速、思ったよりも流暢な喋りを展開する二人に、少しずつ引き込まれていく。

 ミルキー胡椒の二人が、ライブの諸注意説明や拍手の練習、最前列左端の常連さんイジりなど、いわゆるMCとしての仕事を一通り終えて舞台袖に捌け、いよいよ各組ネタが始まる。

 


 一組目は二十代の若い男性コンビだったが、派手な舞台衣装のアイツじゃない。

 それどころか印象に残らないくらい普通の黒スーツに二人とも眼鏡をかけた出で立ちだ。

 しかし、一人が一発ギャグをして相方が的外れで意味不明なツッコミをし続けるという、見た目からは考えられないほど尖ったネタをやるもんで、わたしはその二人のギャップに涙を流して笑ってしまった。

 

 

 二組目、というか二人目は初老の男性ピン芸人が全身黒タイツでエアロビクスをしながら自虐をし続けるというネタであった。

 内容を要約すると、いい歳してズルズル夢を追っていると痛い目みる、という自身のエピソードを踏まえた笑えないレベルに悲痛な自虐ネタで、これも涙が出るほど笑ったし、二組終わった時点で劇場内のわたし達含めたった十人の客も完全に心を引き込まれていた。

 


 有名な大手事務所の芸人なら上から怒られてできないようなことを、自信を持って披露するこの劇場の芸人たちの雰囲気は何より微笑ましく、そしてわたしに勇気をくれた。まさかさっきまで行くことをまさしく「渋っていた」売れない地下芸人達のライブに、ここまで感化されるとは。

 


 ようやく三組目にして、お目当てのあいつが登場した。

 芸名は、朝倉総司。本名をそのまま芸名にしているパターンなのか。

 すっかりこの劇場の芸人達に愛着を抱いてしまったわたしは、ワクワクしながら一人舞台に出てきたあいつを見る。

 目が眩むほど派手な衣装の割に、さっき外で喋ったよりも心なしか表情が強張っているあいつの口から、第一声が飛び出す。


「今朝、相方に逃げられましたので、僕は今日からピン芸人です」

 

 衝撃だった。

 この男、今朝相方を失っているにも拘らず、あんなに陽気にライブ勧誘をしていたんだ。

 それでも、ネタを仕上げて、舞台には休まずに立っているんだ。わたしが軽く感動を覚えたところで、第二声が放たれた。


「こういった理由ですので、今日は元相方の分も含めて僕が一人で漫才をします」


 わたしと同年代ながら、意味不明な方向に肝が据わったこの男の言動に、付いていける客は一人もいなかった。

 もちろんウケるはずもなく、常人なら逃げ出したいほどの空気感の中で、あいつは止まることなく一人漫才を敢行した。

 


 四組目には最初のMCも務めたミルキー胡椒というコンビが登場し、この日で唯一スタンダードな漫才を披露した。

 既視感はあるものの、長年のキャリアで築かれたであろう安定した漫才は今日イチというほどウケてはいたが、わたしだけ朝倉総司の衝撃から抜け出せないままでいた。



「思ったより面白かったね」という声が閉演後に隣から聞こえた。


「うん、なんか弱小事務所だからこそ、って感じがして、」


「花純、めっちゃ笑ってたもんね」


これを指摘されるのは案外恥ずかしいし、話が続きそうなところを遮ってくるということは、わたしの興奮具合から話が長くなることを悟られたからであって、余計に耳が赤くなる。


「あ、うん、自分でもビックリした。健太と駿は?」


「入口で芸人さんと話してるみたい。ウチらも、行こっ」

 

 劇場の入り口では、一つ前の列に座っていた三人組の女子大生が一組目に出ていた眼鏡の若い二人の漫才師と談笑していたり、最前列にいた常連さんが二人目に出ていた全身タイツのおじさんと世間話をしていた。

 朝倉総司を探すものの、姿が見えない。


「お疲れ様でしたー!」と大きな声が劇場の裏の方から聞こえ、ドタドタとした足音と共に裏口のドアが開く音が正面入口であるこちら側まで響いた。


「総ちゃーん、しっかり鍵閉めてよ? 久美さんに怒られんの俺なんだからさ!」

 すぐ目の前で健太と駿と話していた、橋本さんの声が響いた。総ちゃんって、朝倉総司のこと? やっぱり、本名なんだ。

 

 その瞬間、自分でも不思議な感覚なのだが、自然と足が動き始めた。


「花純? 花純ー!」

 横にいたはずの結衣の声がずっと後ろから聞こえる。


「ごめん! 後で追いつくから、先に行ってて!」

 精一杯叫んだが、結衣の耳まで届いたか確認する余裕は無かった。


 外へ出て劇場の裏まで回ったところで、朝倉総司がしゃがんで靴の踵を直しているのが見えた。


「あ、さっきの! サインでも書きましょうか?」


「ハートフルで、ある意味インテリジェンスな、パーフェクト漫才だったよ」


「え?」


「なんでもない」


 皮肉を言ったように聞こえてしまっただろうか。

 出会って早々嫌な女だと思われただろうか。

 彼の顔が陽気なお笑い芸人から、初対面でわざわざ皮肉を言うために追いかけて来た迷惑な客を軽蔑するような顔に変わる。


「違う違う、そういう意味じゃなくて。大変なんだね。衝撃的過ぎて、君の後のコンビのネタ、全然頭に入ってこなかった」


「クリーミー胡椒さん、うちの劇場の芸人じゃ唯一他事務所のライブとか、テレビのオーディションとか出してもらえるんだ。しっかり観ないと損だよ」


「ミルキー胡椒、じゃなくて?」


「そうそう、それ」

 警戒態勢が解かれたかのように、彼はスクッと立ち上がり、表情を緩める。


「ねえ、君は見た感じわたしと同年代くらいに見えるんだけど、何歳なの?」


「総司でいい。今日の芸名も本名そのまんまだから。十八歳で高校卒業したばっかりだけど、実は中学の時からこの劇場には出させてもらってる」


「じゃあ結構長いことやってるんだね」


「まあ今朝その長いことやってた相方に逃げられたんだけどな。地方の大学受かっちゃったんだってさ。別に、言ってくれりゃ久美さんに送別会でも頼んだのに」


「でも、言ったら止めてたでしょ?」


「そりゃまあ」

 総司は困ったように頭を掻く。

「なんか、俺の話ばっかりだな。あんたは? 田舎臭いけど、修学旅行ってわけでもなさそうだ」


「花純でいい。今井花純。田舎者なのは正解。北海道から高校の卒業旅行で来てるの。だから、総司とは完全にタメだね」


「北海道? 毎日カニ食ってるわけ?」


「あのね、道民がみんな毎日海鮮食べてるわけじゃないし、毎日牛乳飲んでるわけでもないの」


「ふーん」


「総司はさ、なんでお笑いやってるの?」


「なんでって、うーん、なんだろうな。俺、家がこの劇場の二階なんだよ。だから、小さい頃から漠然と、将来はこの劇場に立つんだろうなって思ってた」


「でもそんなんじゃ食っていけないじゃない」


「おい、勝手に理由聞いといてそりゃないぜ。だからこれからバイトだってのに、気味の悪い田舎のお嬢ちゃんに絡まれてるんじゃないか」

 

 初対面の客に一方的に質問攻めにされる不条理さにようやく気付いたかのように、総司は顔を顰める。

 気を遣うのが苦手で洞察力なんてまるで無いわたしにも、この豊かな表情変化で総司の心情が手に取るようにわかる。


「だったらお前、いや花純は、卒業した後どうすんだよ」


「わたしは」


 話題が自分に対象を移したことで、わたしはそれまでの勢いを失ったかのように言葉に詰まった。

 叔母に引き取られた身で大学に行く余裕もないし、実はこの春から食品メーカーの事務に就職が決まっていた。


 別にやりたくもない仕事をして、適当に結婚して家庭をもって、それはそれで平和に人生送っていくんだろうな、とずっと思っていた。


 だからこそ、この劇場の芸人達に感化されたという節もある。

 自分が本当にやりたくて面白いと思うことをとことんまでやって、別に裕福じゃなくたって楽しければそれでいい、自分だけの人生。総司を含め彼らの生き様が羨ましかった。

 羨ましかったから、どうせ食っていけないだとか、なんとか自分の生き方を正当化するため余計に突っ掛かる発言をしたのかもしれない。

 


 わたしはどうしたいんだろう。

 そもそもどうして総司を追いかけたの?

 きっと、自分に正直でいられるこの時間を終わらせたくないからだ。



「わたし、総司の手伝いをする」


「は?」


「この劇場で働く」


「なになに?」


「総司も、さっき出てたみんなも、ぜったい売れさせる」


「はあ。じゃあ、また東京来るときは観に来いよ」


「このままこっちに住む」


「あのなあ…え、えっと、まじ?」


「大マジ」


「…カニ、しばらく食えねえぞ?」


「わたしもあんまり食べたことないよ」


「え? そうなの? じゃあ大丈夫だな。カニだって言ってあれ出しても、アホ面してうまそうに食うんだろうな。あれ、あれだよあれ」


「カニカマ」


「そう、それそれ」


 “今井 花純”、電撃上京。

 わたしがもし芸能人なら、朝刊の一面はこれで決まりだ。











「友達と旅行来て、そのままそこに住んじまうなんて、聞いたことねえよ!」

 電話越しに、健太と駿が笑う。


「笑いごとじゃないって! ねえ、頭でも打った? 就職も決まってるんでしょ? おばさんだって、心配するし」

 竹下通りというところにでもいるのだろうか、人の喋り声やショップの音楽が結衣の声と一緒に聞こえてくる。


「叔母さんの家は出る予定だったし、大丈夫だよ。思い立ったが吉日だって」


「ほんとに花純はそういうところあるんだから。って言って片付けられるレベルじゃないから今回は」

 結衣と笑い合う。


「花純には中学の時から振り回されてばっかり」


「ごめんね」


「あーあ、なんか、タイミングって急に来るもんだね。ウチ今、どこぞのフラっと現れた男に娘奪われた気分よ」


「なにさそれ。余裕できたら、勝手に結衣の大学遊びに行っちゃおうかな」


「大学入ってウチが色んなイケメンたぶらかしてるの見せてやる。娘奪われた気持ちにでもなっちゃえ!」


「はいはい。あ、今呼ばれたからもう切るね。帰りはわざわざ寄らなくてもいいよ。健太と駿にもよろしく! あいつらの世話係、ひとりにさせちゃってごめんね!」


「ほんっと花純は冷めてるわ~。わかったわかった、頑張ってね。何かあったらすぐ電話ちょうだい」


 今までわたしは冷めているとか、サバサバしているだとか色んな人に言われてきた。

 確かに、学校の女子カースト制度トップの人達の、仲間内でつるむことが至上主義みたいな雰囲気には辟易していたし、だからといって絡みやすい男子達と仲良くすると女子達に目を付けられた。

 だから、この性格は女子として学生生活を生き残るには致命的だった。

 こんなわたしを面白がって、中学の頃から仲良くしてくれたのが結衣だった。

 わたしの提唱する女子カースト理論を爆笑しながら聞いてくれたし、何より一緒にいて楽だった。

 そんなことを思い出しながら電話を切って、しばらく結衣にも会えないな、と思うと柄にもなくしんみりと別れの春を感じた。


「おい、もういいのか?」

 ようやく総司の声が耳に入る。


「ごめんごめん、これで大丈夫」


「しかし花純も意味分かんねえ奴だよな。ここで働きたいにしても、一回帰って周りにも説明して、荷物でもまとめてくればいいのに」


「決心、鈍っちゃうでしょ」


「そんなもんかあ」

 

 働くとは言ったものの、この白百合劇場は特に求人を出しているわけではないので、支配人である『久美さん』という人に直談判するため、劇場二階の支配人室で久美さんの帰りを待っていた。


「久美さんって人、なんて言うかなあ」


「どうだろ。経緯とか世間体とか全く気にしない人だからさ、全く驚かないんだろうな」

 この後の流れを想像したのか、総司が笑う。


「それだけ聞くとわたし的には好都合だけどさ、手伝いなんていらないって言われたらそれまでじゃない?」


「そりゃそうだけど、あの人はまず、何ができるのか聞いてくるだろうな。何でもやらせてください! って気持ち見せればなんとかなるよ」


「うん…」


 一応頷きながらも、総司の大まか過ぎるアドバイスはあっという間に右耳から左耳へと通過し、次の瞬間には、採用されるかという不安より久美さんと総司の関係性に対する興味が勝った。


「総司は、ここで久美さんにずっと育てられたんでしょ?」


「うん。久美さんも、白百合劇場の芸人のみんなも、俺にとっての家族みたいなもんだな」


 そうだ。わたしも親を知らないからか、ここまで疑問に思わなかった。

 総司の発言からはまだ両親の存在を確認できていない。久美さんに育てられて、家族のように感じているという事は、総司も何らかの事情で親元で育っていないことは確かだ。


「母親は俺産んですぐ逃げちまって。親父、母親の妹の久美さんに俺を預けたらしい。今はやらなきゃいけないことがあるからって」


 表情と声色は依然明るいまま、総司が口を開く。


「すぐ迎えに来るつもりだったらしいんだけど、父親もすぐ病気で死んじまって。ほんと、久美さんには感謝してもしきれないよねえ」


「そっか。実はわたしも、似たような感じ。両親の顔は知らないし」


「まあたしかに、親がいたらこんな自由に上京なんてできねえもんな、田舎もん! はははは!」


 こうも境遇の似ていてる人間(しかも女の子)が突然現れて、何も考えずよく陽気に笑っていられるものだ。少しでも奇跡だとか、運命だとかいう言葉に頼りそうになった自分が恥ずかしくなる。


「これでも生まれは東京ですから!」


「どうせ小っちゃい頃だろ? 都会生まれ都会育ちの俺には分かるんだよねえ」


「うん、ほんとに田舎臭い。でも若くていい女じゃないか。総司、あんた一応やることはやってるんじゃないの」


「だああ! 久美さん!」


 視聴者がわたししかいないのに、漫画さながらの登場からの教科書通りのリアクションを展開するあたり、さすがのコンビネーションとプロ意識だ。


 「久美さん」と呼ばれる背の高いその女性は、四〇代ほどに見えるが派手な柄シャツと濃いメイクがよく似合い、赤いスキニーによって長い脚が一層映えて見える。

 いずれにせよ、あの派手な衣装で舞台に立っていた総司を育てた人だということには合点がいく。


「違う違う! こいつ、さっきの午後公演観に来た客なんだけど、これからここで働きたいって言ってきかないんだ」


 わたしにシュートチャンスのボールが回ってくる。さあ、ここは決めなければ。


「ほ、北海道から来ました、い、今井花純です。と、突然お邪魔してすみません! 先程観たライブで、何と言いますか、みなさんの生き様に惚れました! ここで働かせてください!」


 ボールは無情にも全く枠を捉えられず、明後日の方向に飛んでいった気がした。


「あ、あと、なんでもやります!」


 久美さんが反応するまでの間を嫌い、一応総司のアドバイスを思い出して従ってみる。


「アンタがどこの誰なのか、どうしてこんな劇場で働きたいのか、詳しく聞いてやるほどアタシは暇でもなければ優しくもない」


「知っていただけなくても結構です! 掃除に設営、音響に受付なんでもやります!」


「最近は多いらしいね、お笑い好きな女の子。ウチはさ、他のでかい事務所みたいに芸人をタレントにする力も無いし、するつもりもない。相当泥臭く仕事しなきゃ、やっていけないんだ」


 久美さんの硬い表情と、心配そうに状況を見守る総司の顔が目に入る。


「それでも、ここが良いんです」


「今日見なかったかい? どれもこれも、全部演者やアタシで回してるんだよ。今までずっとそうやってきたんだ。それを今更…」


「もちろん、お給料なんていりません!」


「は?」

 久美さんが聞き返す。


「え?」

 思わずわたしも聞き返す。


 総司は笑いを堪えて下を向いている。


「給料も出ないのに、どうやって生きていくんだい。アンタ学生さんかい? それとも、東京にも家があるのかい?」


「両親がいないので実家とは呼べないかもしれませんが、家は北海道だけで、この春高校を卒業しました。こっちでは、この劇場のお手伝いをしながらバイトで生計を立てます!」


 両親がいないというフレーズに、久美さんの眉がピクリと動く。意地になって思わず色々言ってしまったが、そのくらい覚悟があるのは事実だった。


「ふうん。今の時代珍しい根性だねえ。もちろん、白百合劇場もこのままダラダラ続けていけるほど景気は良くないし、なんかこう、起爆剤みたいな出来事でも起こればって思ってたんだけど、まさかねえ」


 久美さんの視線を体中に感じる。


「今井花純、だったね?」


「は、はい!」


「へえ、アンタがねえ。そうかそうか。おい、総司。オマエの隣の隣の部屋、空いてただろ?」


「う、うん」


 この白百合劇場の二階は、一階の劇場舞台裏の階段を上ってすぐ正面にこの一番大きな支配人室があって、廊下を左手に進むと部屋に繋がる三つのドアがあった。

 久美さんは隣の隣の部屋と言っているので、総司の部屋がどちらかの端の部屋で、この場合総司の部屋の反対端の部屋のことを指していることに察しがついた。


「花純。アンタ、ウチに住みな。しっかり働いてくれれば、飯ぐらいはなんとかしてやるよ」


 開いた口が塞がらない、とはよく言うものの、物理的にその状態に陥ったのはさすがに初めてだった。


「ほ、本当ですか? ありがとうございます!」


「どうしたんだい総司、良かったじゃないか! 女の子がウチに住むんだよ?」


 わたし以上に状況を飲み込めないのか、総司は頭を抱えながら首を捻る。

 明らかにわかりやすいリアクションで困惑する総司の姿が可笑しかった。


「相方に逃げられてピンで舞台に立たされたうえ、家族が一人増えるって? 久美さん、俺、今日は試練の日なのか…?」

 総司は忌々しい顔で久美さんを見る。


「アンタ、まさかほんとに一人で舞台立ったのかい?」


「ほんとにって、やったよ! 完璧な一人漫才! なんだよ、久美さんが舞台は休むなって言ったんじゃないか!」


「一人漫才? アハハハ、アンタ天才だよ」


 さっきからなんとなく予想はできていたけれど、衝撃の一人漫才の黒幕はやっぱり久美さんだった。

 久美さんの高笑いと総司の叫びが、この狭い白百合劇場二階に響き渡る。

 今日から、この輪に加わるんだ。わたしは柄にもなく出会いの春に胸の高鳴る音を感じた。











 劇場スタッフの朝は早い、と勝手に想像していたがそんなことはない。

 白百合劇場では月曜日を除く平日の午後に毎日公演があり、休日祝日は午前午後の二部制で公演が行われている。

 この日は金曜日で、午前中は劇場の掃除や家事の手伝いだけで済んだので、久美さんから貰ったバイトの求人を部屋で眺めていた。


「おーい、花純。久美さんもう仕事行った?」


 部屋の外からノックの音と総司の眠そうな声が聞こえる。昨日は夜勤のバイトで、朝帰りして今起きたのだろう。


「行ったよ。聞いた、久美さん普段は広告会社で働いてるんだね。 片手間に劇場の運営もしてるって、凄い人だねほんと」


 広告業界でバリバリ働く業界人。久美さんのイメージにピッタリだ。


「ああ、忙しい仕事みたいだからな、久美さんみたいな人しか勤まんないよ。なんだもう行ったのか、夜勤明けで早速ピンネタ作ったから見てもらおうと思ったのに…」


 そういえば、朝方目覚めてトイレに行こうと階段の方へ歩いていた時、総司の部屋の電気が付いたままだったっけ。夜勤明けの疲れで消し忘れて寝ているのかと思ったら、なんだそういうことか。


「リハ準備まで時間あるから、わたしが見てあげてもいいよ」


「ばーか、素人が見てわかるもんじゃねえよ!」


「ピン芸人素人のくせに。あ、でも久美さん、わたしに仕事教えてくれるために、今日は午前で仕事終わらせて帰ってくるって言ってた」


「じゃあ丁度いいや! ていうか久美さん、なんで花純のためにそこまでするんだ? 仕事なら俺が教えるし、みんなにも俺が紹介してやるってのに」


 部屋の中で求人を見ながらでも、ドアの向こうで総司が膨れっ面をしているのがわかった。

 午後のリハの時間になって芸人達が劇場に集まって来る。

 みんな、朝でもないのに「おはようございます」と言って入って来るあたりに業界柄を感じた。


 全員が不思議そうにこっちを見ているのが気まずくて仕方なかったが、その度総司が「新しいスタッフの子です!」とか、「俺のファンで、今日からスタッフやるみたいです!」だとか言ってくれたので、内容はさておき助かった。


 全員集まって間もなく、仕事終わりの久美さんが劇場に入ってきて、聞いてないよとばかりに芸人達がピリっと緊張するのがわかった。

 長年毎日のように行われているこのライブだが、平日のリハに久美さんが来ることは仕事の関係で滅多にないのだろう。


「ほら、はやく」

 久美さんはこっちを見ながらゆっくりサングラスを外す。わたしに自己紹介を促しているのだろう。


「あ、今井花純一八歳です! 今日から、白百合劇場のスタッフとして働かせていただきます! 宜しくお願いします!」


 芸人達のまばらな拍手が鳴り響く。なぜか総司が誇らしそうにしているのが、少し鼻に付く。


「初めまして、橋本です。もう三十三歳のおっさんですけど、今ちょうど若い彼女募集してます!」

 劇場内が湧く。初めましてとはいえ、橋本さんだけは一方的に知っている。


「相方の、中田です」

 中田さんは、橋本さんと同年齢くらいで、無精ヒゲを生やした強面の割に物静かそうな印象だ。昨日の漫才中はもっと明るかったような。


「橋本君達がおっさんだったら、僕はどうなるんだよ~。こんなダメな大人達に付き合ってくれるなんて、ありがとねえ。僕、西嶋です」

 あ、このおじさん、エアロビ自虐の人だ。


「へえ、十八歳ってことは総司と同じか。俺、吉田。よろしくね」

 二十代くらいの若い顔立ちに、ツンツンに立った髪の毛と黒の革ジャン。喋り方もなんだかチャラい。こんな人、出てたかな?


「相方の三澤です。吉田とは色眼鏡ってコンビ名でやってるんだけど、こいつほんとに遊び人でさ。気を付けた方がいいよ」


「おい、余計なことを。お前あれか、だし巻き卵に醤油かけて食う奴か!」


 このわかりづらいツッコミで、完全に思い出した。

 一組目に出ていたコンビだ。見た目の印象が薄すぎてコンビ名を忘れていた。

 それにしても、普段はこんなにチャラいなんて。

 だしの味がしっかりついているだし巻き卵に、味が薄いなどと言って醤油を垂らす人、たしかに余計な事をするなと言いたくなるが、わたしは躊躇なく醤油を垂らすタイプの人間だ。


「白百合劇場所属芸人はこれで全員だ。ほら、少ないだろ?」

 久美さんがにやりと笑う。


「いえ、みなさん良い人そうで面白くて、楽しそうです」


 初対面の大人達を目の前に緊張しないわけがないのだが、こんなよそ者のわたしにもみんな優しく接してくれて嬉しかった。

 みんな、「いい子だ」、「天使だ」、などと調子のいいことを言う中、西嶋さんだけ涙を流しながら「最近の若い子は」と先が長くなりそうな話の冒頭部分を小さく呟いていたので、わたしは自己紹介のくだりを早々に切り上げて、久美さんとリハ準備を始めた。











「花純ちゃんお疲れ、これ今日のコントの音源CD、リハの時よろしくね」


「橋本さんお疲れ様です。あれ、わたしミルキー胡椒のコント初めて観るかも」


「そっか、花純ちゃん来てからは一回もやってなかったなあ」


 白百合劇場で働き始めてもうすぐ一か月、劇場前の桜も丁度見ごろを迎える季節になった。

 先週は久美さんの仕事が山場を越え、月曜に休みを貰えたらしく、劇場のみんなと一緒に花見に連れて行ってもらった。

 吉田さんが隣のカップルの彼女をナンパしたり、西嶋さんが嫁に逃げられた話(ネタで何度も聞いているのでほぼ復唱できるのだが)をしてきたりと駄目な大人達の相手は疲れたものの、わたしにとって家族と花見なんていう憧れのシチュエーションは幸せな時間に他ならなかった。


 他にもこの一か月、最寄りのカフェでバイトを始めたり、叔母から手紙が届いたり、奥さんが帰ってくる夢にうなされるという西嶋さんの悩みを聞いたり、色々あったが、特にこれといって掘り下げる内容でもないので、割愛するのが良策だ。


 唯一、ここに住み始めてから気に病むことを挙げるとするなら、あの一件以来総司が口を利いてくれないことだろうか。


 四日前、いつも通り午後公演が終わって片付けをしている時のことだ。着替えの終わった総司がいつも通り話しかけてきた。


「ふっふっふ、花純よ。俺の今日の衣装、普段とどこが違ったと思う?」


「靴?」


「正解! どうだ、あの輝かしいシルバーの靴は!」


「んー、輝かしいかどうかはわかんないけど、ああいう派手な衣装で通すんなら、ネタも賑やかし系とかそっちに合わせたらいいんじゃないかな?」


 わたしの発言に、総司の顔が曇っていくのがわかった。


「ネタのことは今関係ないんじゃね?」


 総司にしてはかなり小さい声で言ってくるものだから、わたしもすぐに余計なことを言ってしまったと身を強張らせた。


「あ、いや、ごめんごめん。素人の独り言、っていうか」


 やってしまった、とうつむく。わたしの咄嗟の訂正にも無言のまま、総司が去っていく音だけが耳に入ってきた。


 ただ、わたしがこう言ったのも、その場の雰囲気での失言というわけではなかった。

 ピンになってからの総司は、正直明らかに迷走を続けていた。

 エピソードトークを何本か漫談風にやってみたり、既に擦られ尽くしているあるあるネタをやったりと毎回違うテイストのネタをやっていた。


 演技力も華もあるのだから、馴染みやすそうなキャラでもつけて漫談やコントをやればいい、と久美さんから言われているのを聞いたことがあるが、わたしもそれならすぐに人気が出ると思った。


 しかし、総司は中々素直にそういうネタをやろうとはしなかった。自分が一番面白いと思うことを貫いてきた総司にとって、言われるがままに芸風を固めるのはプライドが許さなかったのかもしれない。


「花純ちゃん?」


 橋本さんの声で、はっと現実に戻ったような気がした。


「これ、台本。音響のところに印しつけたから、リハの時頼むね」


「すみません、はい、了解です」


「総ちゃんのこと考えてた?」


「え」


 言葉に詰まる。「総ちゃん、ああ見えてさ」と橋本さんは続ける。


「誰よりお笑いに真摯だし、人一倍真面目なんだよ。よく言えばね。悪く言えば、若いゆえに頑固過ぎる」


「わかります。総司なりにもがいてることも。でも、わたしがこの前、ネタのことで余計なこと言っちゃって」


 感情が溢れて、少しでも顔の筋肉を緩めると涙が出そうだった。

 何かに熱くなったことも、人のことをここまで真剣に考えたことも今まで無かったわたしには、初めての感覚だった。


「なんか、羨ましいな、花純ちゃんも総ちゃんも。純粋で、熱くて、でもちょっと不器用で。花純ちゃん来てからさ、総司はもちろん俺達も変わったよ。みんな他人に認められたことあんまり無かったから、自信持てたっていうか、俺達のやってることは間違いじゃないんだって」


 わたしの存在が、ここまでみんなに影響を与えられていたなんて。

 ふざけてばかりで普段真面目な話なんてしない橋本さんやみんなが、こんな風に思ってくれていたなんて。


「だからさ、総ちゃんのことも見守ってやってよ。総ちゃんに一番真っ直ぐ寄り添ってあげられるの、きっと花純ちゃんだけだよ」


「はい。ありがとうございます。わたしなりに、きちんと向き合ってみます」


 なんだか、たった一か月前のことなのに、ここでやっていくのを決めたあの日のことを懐かしく思い出した。

 この劇場に出ているみんなを支えたい、絶対おもしろいこの人たちをみんなにも認めてもらいたい。そんなあの日の覚悟が、当時より強く蘇ってくる。


「そういえば、花純ちゃんカフェでバイトしてるんだろ? 愛想がないってよく言われたりしてる?」


「いきなり何の話ですか。いえ、全然」


「だって花純ちゃんサバサバ系だし、俺のボケにも親の仇かってくらい真顔でいる時あるだろ?」橋本さんが悲しい顔でこちらを見る。


「んー、そうですね」真顔で続ける。

「他ではもっと楽しそうにやってますよ。橋本さんといる時だけですもん、こんな顔するの」


「こりゃ参った」


 無神経な質問に額を叩く古臭いリアクション。もちろんそこにはふざけてばかりでいつもと同じ橋本さんがいた。

 


 まずは、二人の間の気まずい空気を少しずつなんとかしなければ。

 なんて考えている余裕はわたしには無く、橋本さんに話を聞いてもらったその日の夜に、思い切って総司の部屋をノックした。

 反応が無い。今日は日曜日で、総司が夜勤を入れていない日だ。

 開けてくれないなら、とわたしはドアの前で話を切り出した。


「この前は、ごめん。余計なこと言って」


 どうせまた反応してくれないだろう、と思ったその時だった。


「ちょっと外で話さないか?」


 反応が返ってきたことと、想定外の誘いに内心驚き戸惑ったが、四日ぶりに聞く総司の声が照れ臭くもあった。

 返事をする間もなく勢いよくドアが開き、薄い上着を羽織りながら総司が廊下へと歩いていく。


「ほら、行かないのか?」


「ちょっと、待ってよ!」


 暖かくなってきたとはいえ、まだ朝晩は冷える時期だ。

 北海道にいた頃とはまた違う、体の芯を刺すような冷たい風に、やっぱり待ってもらって上着持ってくれば良かった、と悔やんだ。

 劇場前の満開の桜も横目に早歩きする総司の背中を、ただ寒さに肩をすくめながら追った。

 総司、背の高い割には肩幅が狭いな、などと会話の無い気まずさを紛らわすようにぼんやり考えていた時、その意外にも肩幅の狭い大きい背中が急停止した。


「おい」わたしに背を向けたまま総司が言う。


「な、なに?」


「なんだか、夜に外で散歩しながら語り合うってのを想像してたんだけど、寒い、とにかく寒い」


「うん、寒いね」


「ここまで無言で歩いて散々格好つけておいてなんだが、引き返そうと思う。回れ右!」


 背中が反転し、真っ赤になった鼻から鼻水が垂れる総司の顔が正面に現れた。

 手元を見ると、羽織っていた薄い上着をこちらに差し出している。


 わたしは笑いを堪えるのに必死だったが、夜にわたしを連れ出して仲直りがてら語り合おうという高尚な計画を練っていた策士とは思えないほどの総司のまぬけ顔を見て、遂に吹き出してしまった。


「なんだよ笑うなよ~。風邪ひくから、これ着ろって」


「それはこっちの台詞。もう、少し遠くまで来ちゃったじゃない。もっと手前で諦めればよかったのに」


「連れ出しちゃった以上もう引き下がれねえって思ってたんだよ、その時は」


「とにかくわたしは大丈夫だから、ほら上着着て、風邪ひく前に帰ろ?」


 今度はわたしが回れ右をして、先頭で進み始める。背中の大きさの割に狭く見えた肩幅は、寒さを我慢して縮こまっていただけだったのか。


「わりい。どうも最近しっくりこなくて、でも花純にあたることなかったよな」

 背中の後ろから、総司の鼻声が聞こえる。駄目だ、総司は悪くないのに。


「ごめん、いや、悪いのはわたしだよ。ほんとはね、全部わかってたの。久美さんにアドバイスされてたのも、総司が自分で本当に面白いと思うもの探してる途中だってことも」


「なんだ、久美さんから言われてるのも全部聞いてたのか。実は、来月末の日曜日、テレビ局の人がライブに来てくれるみたいで」


「テ、テレビ局? 他事務所とさえ滅多にライブもやらないウチに?」


「コネだよ、久美さんの。久美さんもウチの芸人をそういうふうに売り出すの嫌だから、あんまり仕事では周りに劇場のこと言ってなかったらしいんだけど、今度の仕事の取引先にバレちゃって興味持たれたらしくて」


 広告業界で働く久美さんならテレビ局とも仕事をするだろうし、そういう話をもってくることは訳ないはずだが、それでも白百合劇場の存在を隠していたのは、久美さんらしいやり方だ。


「俺さ、自分のやりたいこと、面白いと思うこと、ずっと考えてたんだけど」


「うん」


「自分に一番向いてるやり方でたくさんの人が笑ってくれるなら、それが俺の一番面白いと思うことだし、やりたいことかなって。だから、久美さんとか、白百合劇場の芸人のみんなとか、花純にもアドバイスもらいながら、俺なりにもう一回頑張ってみるよ」


 決意とも自信ともとれる総司の言葉に、わたしの名前も入っている。

 合格発表で自分の受験番号を探し当てた時のような、そんな達成感にも似た嬉しさがこみ上げてきた。

 受験、したことないけど。


「今更だけど、花純が来てくれて良かったよ。こういうこと、本音で話し合える同級生なんていなかったからな。花純の前だと素直になれるんだ」


 年頃の女子が年頃の男子に、そこまで言われるとさすがに照れ臭いのだが、総司にそんなことまで気を回せというのにも無理がある。

 もし、万が一だが、わたしが総司に気があったのなら、こんなにも無責任な発言はない。

 恐らくこの男、学生時代にも、誰にでも真摯に接してしまうがゆえに、好意を持たれていた女の子を傷つけてしまったという経験が幾つかあるはずだ。いや、あるに違いない。もちろん本人は記憶に無いだろうが。


「もしかしたらテレビ、出られるかもね」


「興味ねえって、そんなの」


 行きと違って帰りは他愛もない会話で盛り上がった。四日分の鬱憤を溜め込んだバネを解き放つように、お互いに話題が尽きない。


「なあ、今回は俺の話ばっかりだったろ? 今度は花純の話も聞かせてくれよ」


「んー、じゃあもう少し暖かくなったら、今度こそ散歩しながら話そうよ」


「そ、そうだな。楽しみにしておく」


 自分で考えた計画の改良案を不意にわたしに提示され、ばつが悪そうにしている姿が背中からでも分かった。行きの半分くらいの体感時間で家に到着し、裏口の鍵を開ける。総司は、まだ劇場前の桜に見惚れていた。


「あらためてじっくり見ると綺麗だな、夜桜」


「さっきは目にも入ってない感じだったね」


「そんな余裕無かったんだよ! 花見も楽しかったし。来年もさ、その次も、みんなでまた一緒に行こうな」


 わたしが総司に好意を寄せている純粋な乙女なら、「みんなで」というフレーズにやきもきしていたのだろう。

 夜桜の下に立つ長身で端正な顔のその青年は、透明な鼻水が垂れて光っていることを除けば、絵になることは間違いなかった。












 それからしばらく、総司の舞台上での試行錯誤は続いた。

 吉田さんから伝授されたチャラ男キャラ、西嶋さんから伝授された自虐キャラなど色々とあったが、最終的には久美さんとわたしが提案した、様々なキャラを演じながら一人コントを行うという芸風に落ち着いた。

 客ウケは上々で、白百合劇場にも総司目当ての固定ファンが増えたり、ライブシーンで有名な各事務所の若手芸人を集めた合同ライブから声が掛かったりもした。


 忙しくしている間に月日も流れ、例のテレビ局の人がライブを観に来る日も近くなっていた。

 他の白百合劇場のメンバーにも久美さんがその旨を説明したところ、みんな「興味が無い」と口々に言っていたが、やはり全員近くなるにつれて意識せざるを得なくなっている様子だった。


 さて、そもそも久美さんもテレビ局の人からは「この日の日曜公演を観させてもらう」としか聞いていなかったらしく、日曜は二部制なので、午前に来るか午後に来るかまではわからなかった。

 これは芸人達にとっても神経を尖らせる問題になりはしないか、と少し不安もあったが、当日を迎えてみるとやはり杞憂であったことがわかった。

 

 当日の舞台裏では、芸人達の間で客席の中の誰がテレビ局の人かを予想するゲームが盛況を博していたのだ。もちろん、わたしなんかはその輪の中心で頭を抱えた。


「一番後列の一人で来ているおじさんだと思うんだけどなー」わたしが言うと、


「あれはフェイクだね。本物は付き添いも含め最低二人で、午後公演に来る」


 普段無口の中田さんが、興奮気味に持論を展開する。

 こんなに生き生きとした中田さんの顔は、たまにライブが終わってから舞台裏で、赤ペンを片手に競馬新聞を広げている時にしか見られない、貴重な顔だ。


「あの若いサラリーマン風の人って可能性は?」吉田さんが名探偵風に目を細める。


「いや、あの人、ここ数週間で何回か来てくれてるお笑いマニアの人ですよ。総司が出た合同ライブでウチの劇場のこと初めて知ったらしいです」

 吉田さんの思ったより浅い推理に、わたしがぶっきら棒に返す。


 みんなそれぞれああでもない、こうでもないと言い合った割に、議論はあっさりと収束した。

 久美さんが、わたしの予想していた一番後列の男性に挨拶をしていたのだ。

 わたしの勝ちだ、と言わんばかりに中田さんをじっと見つめてみたものの、中田さんはただ前を向いている。

 彼は外れた馬券には目もくれずに、次の闘いを見据える人だということだけ分かった気がした。



 西嶋さんが妙に気張って、「円陣でもしようか」と言い出したこと以外は、いつもと変わらないライブ公演になった。

 総司もよくウケていたし、今回の件が直接仕事に繋がらなかったとしても、テレビ局の人にこんな面白い劇場があるというインパクトは残せたはずだ。


「アンタ達みんなお疲れ様。局の人、大爆笑してたよ」

 午後公演も無事終わってみんなで受付前に溜まっているところに、久美さんが来る。


「こんなことなら、売れるイメトレもっとしておけば良かった」

 吉田さんがスマホのカメラで髪型を直しながら言うと、


「バカ、いくらライブでウケても俺達の場合明らかにテレビ向けじゃねえって」と三澤さんが口を挟む。


 確かに、お笑いコンビ色眼鏡が、お昼の情報バラエティ番組で気の利いたコメントをしている画は、残念ながら全く思い浮かばない。


「しかしここ最近は総ちゃんのおかげで若い子達がよく来てくれるなあ」

 舞台裏でスーツを片付けていた橋本さんが出てくる。


「俺なんて全然。ほんと、おかげさまでって感じです」


「おかげさま、ねえ」


 橋本さんが視線を送ってきたのが分かったので、わたしは弱みを握られているかのように少し下を向いて視線を逸らした。


 ここで、久美さんの仕事用携帯電話から着信音が流れた。久美さんは発信者を見るや否や、わたし達に向けて「静かにしていろ」という意味を伝えるため右手をスッと上げた。

 久美さんの和やかだった目元にも、自然と力が入っている。


「もしもし、はい、先程はどうもわざわざすみません」


 先程は、ということは電話の相手はあの人しかいない。妙な緊張感が漂い、みんな一斉に聞き耳を立てる。


「はい。はい。有難うございます、是非お願い致します」


 久美さんは電話をしながらスケジュール帳のようなものを取り出し、携帯電話を肩と首で挟みながら慣れた手つきでメモを取る。


「はい、それでは当日は宜しくお願い致します、失礼致します」


 電話が切れても、みんなはしばらく久美さんに事の詳細を聞こうとはしなかった。


「総司」最初に口を開いたのは久美さんだ。


「は、はい!」


「若手芸人発掘ネタ合戦、決まったよ」


 来月、いわゆるゴールデン帯で生放送される予定の特番で、若手お笑い芸人のホープを決めるコンテスト形式のネタ番組のことだ。


「き、決まった?」


 理解が追いつかないのは総司だけではない。

 普通、各事務所が力を入れて売り出している若手芸人が、オーディションを通ってやっと出られるくらいの大きな番組のはずだ。


「朝倉総司、出演決定だ。さっきの局の人がこの特番担当らしくて、アンタえらく気に入られちゃってたよ」


「うおおお、すげえ、すげえ!」


 ようやく状況を理解した総司が、みんなの方を向いて叫び上げる。

 他のみんなも次から次へと拳を突き上げ、歓喜する。西嶋さんに至っては涙さえ流している。


 みんな、本当に嬉しいんだ。もちろん、単にテレビに出られるということが嬉しいわけではない。

 曲げずに貫いてきた自分が面白いと思うことが、やっと認められたのが嬉しくて仕方がないんだ。

 この人達の考える『面白い』に惹かれて、この人達の考える『面白い』に関わる時間を終わらせたくなくて、ここで働き始めたわたしにとっても、それは同じ分の喜びで、自分でも身が震えるのがわかった。


「おいおい花純、なに泣いてるんだよ」


 総司は西嶋さんではなく、たしかにわたしに向かってそう言った。否定しようと思ったが、「泣いてないよ」の一言が出てこない。


 自分の頬をつたう嬉し涙の存在に初めて気付いたのは、その時だった。

 

 

 

 







 特番はもう始まっている。生放送本番の日はまだ先なのに、わたしはそう思うようになっていた。

 事前番組の撮影、ネタ放送前に流す映像の撮影、ネット記事で載る出演者インタビューなど、白百合劇場には毎日のように番組や雑誌の関係者が足を運んできていた。

 こんな小さな劇場が、次世代のスターを生む特番に出演を抜擢された芸人を輩出したのだから、注目度が高いことにも頷ける。

 本番までの期間、総司はバイトも最低限に削ってネタに集中することにしていたし、周りのみんなも自然と総司に気を遣う空気感を作り上げていた。


「最近全然飯も誘ってくれないし、みんな冷たいぜ」


「こんなの初めてだし、みんなどうしたらいいか分からないんだよ」


 もうすっかり暖かく、むしろ寝苦しくなってきた夜、わたしと総司は劇場前から続く道を横並びで歩いていた。


「本番前日ってさ」

 総司が道端の石を蹴飛ばす。


「もっと緊張してガクガクなのかと思ってた」

 蹴飛ばした石がまた他の石にぶつかって、東京にしては静寂なこの街の夜に、コツンと音が響く。


 本番までの夢みたいな期間を経て、明日、いよいよ総司が全国のお茶の間に人生を賭けた四分間をお届けするのだ。


「そういえばずっと思ってたんだけど、花純って妙にお笑いとか舞台とか詳しいよな。ここ来る前って何してたんだ?」


「いいよ、わたしの話は。あんまり面白くないし」


「いいだろ、この前は俺が話聞いてもらったんだしさ。で、何してたんだよ」


 心なしか神妙な面持ちの総司。そういえば話してなかったな、とゆっくり口を開く。


「うーん。昔、東京に住んでた時、劇団を運営している人に育てられてね。克己おじちゃんっていう人なんだけど。わたしが産まれたときから、両親に頼まれて育ててくれたんだ」


「克己おじちゃん、か」


「その劇団がたまに劇場を貸りてやっていた、克己おじちゃん脚本のコント公演が当時すごく楽しみでね。それからかな、お笑いとか舞台とかが好きになったの。ほら、全然面白くないでしょ?」


「劇団花言葉」


「え?」


「劇団花言葉。斉藤克己が作った劇団だ」


「どういうこと?」


 斉藤克己、というのは克己おじちゃんのことだろうか。記憶が定かではない。

 

 遠い昔の記憶の糸を、ゆっくりと手繰り寄せていく。


 古くて小さな劇場前に、『劇団花言葉』と書かれた立て看板。

 当時の情景が、薄らと蘇ってくるようだった。


 どうして総司が、克己おじちゃんのことを、わたしも忘れていた『劇団花言葉』という劇団名まで知っているのだろう。


「久美さん、最初に話した時から花純のこと、なんとなく気付いてたらしいぜ」


「気付いてたって、何が?」

 胸が早鐘を打つ。


「斉藤克己、つまり花純の言う克己おじちゃん、俺の父親なんだよ」


 悪い冗談には思えなかった。「どういう意味?」「なぜそうだと分かるの?」など、聞きたいことは山ほどあるが、どの言葉も喉に閊えて声にならない。


「父親っていっても、顔は見たことないんだけどな」


 頭の整理は未だに追い付かない。


「親友に頼まれて、どうしてもやらなきゃいけないことがあるって。余裕ができたらすぐに迎えに来るって。親父はそう言って久美さんに俺を預けたんだ。親父と久美さん、親族とはいえ、演劇の関係で仲も良かったらしい」


 総司と出会った日、久美さんに会う前に話していた内容だ。克己おじちゃんが、やらなきゃいけなかったこと。それは何だったのか、今なら分かる。


「その親友って、わたしの両親でしょ? わたしの両親は、結局、どうなったの?」


「……」


「聞いてるんでしょ、答えて」


 すべてを、受け入れなければならない時が来たのかもしれない。


「……花純の母親が誰だか、わからなかったらしいんだ。花純の親父さんは借金もあって、どうしても、首が回らなくなって。頼れるのが、俺の親父しかいなかったんだろうな。あー、久美さんには、このことは言うなって言われてたんだけど…」


「わたしだ」


「え?」


「克己おじちゃんのやらなきゃいけないことって、わたしのことなんでしょ? わたしのどうしようもない両親に、赤ん坊のわたしを押し付けられて、克己おじちゃんだって劇団だけじゃ、お金、どうにもならなくて、そのせいで、そのせいで総司が……」


 言葉に出すたびに整理しきれない感情が溢れて、自分でも止められない。

 

 唯一の望みといったら、劇場のみんなと楽しく過ごす日々が、ずっと続けばいい。


 それだけで良かったのに。突然突きつけられた現実は、ひどく残酷で、気持ちは名状し難かった。


「そのせいで? バカ、違うよ。そのおかげで、白百合劇場のみんなにも出会えたし、花純にもこうやって出会えたんじゃねえか。まあ、だいぶ遠回りになったけど」総司が照れ臭そうに笑う。


「……おかげ?」


「これが、聞いて一番びっくりした話なんだけど。俺と花純が四歳の頃、親父が病気で亡くなって、花純は北海道の親戚に引き取られた、そうだったよな?」


「……うん」


「久美さん、その時本気で花純を引き取ろうとしてたらしいんだよ。そりゃ花純の親戚も反対しただろうよ。赤の他人の俺の親父に四年間育てられてたってだけでも驚きなのに、また知らない奴が引き取ろうとしてるんだぜ? 笑っちゃうだろ?」


「久美さんが? どうして…」


 叔母さんがわたしの過去について頑なに口を開こうとしなかった理由が、ようやくわかった気がした。


「久美さんなりに、親父のこととか、もちろん花純の親父さんのこととかも、色々考えたんだろうな。自分が引き取るのが一番良いって。でもそれは叶わなかった。だから、俺の親父の劇団が拠点にしていた自分の小劇場に、ある名前を付けたんだ」


「拠点にしていた劇場…ある名前って」


 総司が口を開く寸前、ほんの寸前に、パズルの最後のピースがはまった音がしたようだった。


「そう、白百合劇場。白百合の花言葉は、純潔。純潔の花」


 花純。白百合劇場。劇団花言葉。


 昔、克己おじちゃんとよく行った、あの劇場。

 

 わたしがあの劇場、白百合劇場を今になって再訪できたのも、白百合劇場に心底惹かれて働き始めたのも、本当に、本当に単なる偶然が重なった結果だった。

 

 それを必然や運命と呼ぶのなら、わたしは柄にもなく、いや、迷うことなくこの出会いを必然や運命という言葉で説明する。突きつけられた現実は、見方を変えれば、当然見え方が異なった。


「いつの日か、花純が白百合劇場に戻って来るってこと、わかってたみたいだな。久美さんって実は、未来から来たのか?」


「えへへ、まさか」


「お、やっと笑ったな」

 総司が嬉しそうにわたしの顔を覗き込む。


「じゃあ、わたしと総司は、実は小さい頃に会ったことあるのかな?」


「当時、劇場の二階は物置だったからなー。久美さんと俺、俺が小学生になるまでは近くの小さいアパートに住んでたんだよ。だから、どうだろうな。久美さんは親父と俺を、うまく会わせないようにしてたのかもな」


 ふう、と一息おいて、また総司が続ける。


「実を言うと、全部打ち明けるの、マジで不安だった。花純がパニックになって、ウチを離れちゃったらどうしよう、とか」


「もちろんパニックにはなったけど、それがここを離れるっていう理由にはならないよ」


 力強く、かつ急に論理的なこの発言に、わたしの答えが詰まっているようだった。


「俺も、ついこの前全部を聞かされたんだぜ? そりゃ俺だってビックリだよ。それでも、俺から言いたかったんだ。花純が俺と向き合ってくれたみたいに、俺が花純に向き合わなきゃって」


 困ったように、照れ隠しのように頭を掻く総司の仕草が、いつもより可笑しく、愛おしく感じた。




 








「朝倉総司、まさかの予選準決勝で散る。若手芸人発掘ネタ合戦で審査員お墨付きも」


 久美さんが、スマホの画面を大きめの声で読み上げながら、二階から劇場に下りてくる。


「ははは、俺も朝見ましたよ、話題のニュース」

 三澤さんが嬉しそうに反応する。


 東京の冬は思ったより寒いものだ。

 春先にも洗礼は受けたのだが、この季節になると歩いて一五分のバイト先に行くのもいよいよ億劫になる。

 まあ、あの日以来、本業が忙しくなってバイトには行っていないのだが。


 例の特番で総司が審査員賞を獲得してからこの半年、様々な番組に若手演技派ピン芸人として招かれていた総司への世間の注目度は、日に日に高まっていた。

 今はピン芸人の日本一を決める大会の予選が行われている最中なのだが、優勝候補とさえ謳われていた若手演技派ピン芸人の朝倉総司は、一昨日の予選準決勝で儚く散っていた。


「みんなちょっと嬉しそうに言うのやめてくださいよ! ああ、テレビでもみんなに弄られるんだろうなあ。うまく返せるかなあ」


 若くして世に出たお笑い芸人の、贅沢な悩みだ。


 総司が売れ始めてからも、わたしが大好きなこの劇場のみんなの雰囲気は変わっていない。

 自分がそれを面白いと思ったら、相変わらずお客さんを置いてけぼりにするし、総司の活躍に影響されて自らの思う面白いから逃げようとする人なんて、もちろん誰もいなかった。


「花純ー、俺、仕事減っちゃうかな? テレビ出られなくなるかな?」


「これからの年末年始はネタ番組にもたくさん呼ばれるだろうし、そういう意味では挽回のチャンスかな。踏ん張り時だね」


 総司の今月の仕事がびっしりと書かれたスケジュール帳をパタンと閉じ、わざと溜め息をついてみる。


「花純、いやマネージャー、なんて冷たい女なんだ! 俺には癒しが、癒しが必要だ!」


 口数が減らないところをみると、多忙な日々の割にはまだまだ元気そうだ。


 わたしと総司が、白百合劇場で、出会う。


 わたしの人生、ここまでは、ある意味運命にすべて左右されてきたのかもしれない。


 しかし、しがらみだらけの過去からは既に解放され、これからは本当の意味で、わたし自身がわたしの歩む道を掴み取っていかなければならない。


 わたしはこの白百合劇場で、総司、久美さん、みんなと生きていきたい。


 そんな未来を、そんな運命を、わたしは全力で掴み取りに行く。




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