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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説集 à la carte

栗鼠と熊

作者: 篠崎フクシ

 JR松本駅からローカル線に乗り換え、〈逆さ虹の森〉駅で降りると、一面雪景色だった。


 ホームに積もる雪を踏むと、スニーカーの裏がギュッギュッと鳴り、僕の足跡だけが規則正しい歩幅で残されていった。一瞬、場違いなところに来てしまったような気がしたけれど、僕は首を振って自分を励まし、無人の改札を抜けていった。

 灰色の空は冷たく無言だ。駅前にポツンと一軒だけカフェがあったので、心細い気持ちを紛らわすため、森に入る前の少しの間、立ち寄ることにした。


「いらっしゃいませ」


 薄暗い店内には、白髪、白髭の老人が一人、珈琲を淹れていた。珈琲のこおばしい香りとジャズの音楽が、僕の不安な気持ちを鎮めてくれる。まるで、東京の時間とは切り離されたような、ゆったりとした空間だった。


「カプチーノを」

 カウンターに座った僕の注文に、マスターは静かに頷き、手際よくカップを用意した。高校三年生の自分には少し大人びているような気もしたが、手を組んで肘をつき、右手の甲の上に顎を乗せて簡単な質問をした。

「マスター、僕は逆さ虹の森に用がある。例の〈吊り橋〉を渡りたいんだ」

 そういった瞬間、マスターは、鋭い眼光をこちらに向け、じっと僕の目を覗き込んだ。正気か? というような、明らかな疑念の眼差しだった。

「悪いことは言わない。あの吊り橋を渡るのはやめた方がいい」

「何故ですか? まだ何が起こるかも分からないというのに」

 僕は出されたカプチーノを一口呑み、喉の奥を温かく湿らせた。熱さで舌先がヒリヒリする。

「いや、俺はこの森に入った連中が、みな不幸になるのを見てきた。お前さんはまだ若い、若すぎる、危険だ」

「それでも行かなければならないんです。彼女が、夢の中の彼女が呼んでいるから……」

「また夢の話か、馬鹿げてるよ。ここに来る連中は、夢の話ばかりする。だいたいその女に会って、どうしたいんだ? 目的のない旅に終わりなどないはずだ」

「そう、そうかもしれない。だけど、僕は行かなければならないんです」

 僕は苛立ちのあまり席を立ち、カプチーノを飲みきる前にポケットの小銭をカウンターにばら撒いた。銀色の硬貨はマホガニーの上で鈍い音を立てた。

「だったら、コレを持っていけ。護身用の〈スクイレル〉だ。弾は三発だけ入っている。お前さんが必要だと思った時に撃てばいい」


 それはずっしりと重みのあるリボルバー式の拳銃だった。スクイレル、つまり栗鼠りすなんて可愛らしい名前で呼ばれているけれど、実のところ、人殺しの道具だ。それでも多少なりとも不安を抱えていた僕にとっては、渡りに船だった。鉄の凶器を手にした途端、得体の知れない恐怖はすっかりおさまっていた。

 

 朝だというのに、カフェの外は灰色だった。

 またいつ吹雪いてくるかも分からないので、僕は森の入口へと急いだ。

 

 ──20XX年の大晦日、この國の少なくない人間が同じ夢を見た。

 

 それは、森の少女が凶暴な熊に喰われるという凄惨な内容だった。その〈現場〉を目撃した人間は、文字通り指をくわえて見ているしかなかった。警察も政治家も教師も医師も格闘家も、夢だけに、だれも何もできなかった。為すすべもなく、少女が喰われるのを見ているしかないのだ。そして問題は、一度その悪夢を見てしまった者は、毎夜、同じ夢を見なければならないことだった。発狂する者もいたが、僕のように、こうして自ら問題を解決しようとする者もいた。


 ふと、あのカフェのマスターも、僕と同じ夢を見ているような気がした。しかし彼は、彼女の救出に失敗して、ああして今も森の番人のような真似をしているのかも知れない。

 

 森に踏み込むと、常緑樹が多いせいか、昼間でも薄暗かった。何度も夢で見た景色と同じだった。方位磁針が使い物にならないことは事前に分かっていたので、ナイフで樹木の幹に印をつけて進もうと思ったが、すでに先客が無数の傷を刻んでいた。まあ、夢と同じであれば、地図がなくても迷うことはないだろう。

 雪が薄っすらと枯れ葉を覆っている。

 遠くで鳥の啼き声は聞こえるが、動物たちの気配はない。静かだ。

 歩き続けていると、次第に疲労と空腹で頭がぼんやりしてくる。

 その時だった。生き物の気配がして、僕は正気に戻り、眼前の黒い塊を凝視した。浮遊するそれは、こちらに向かって飛んでくる。僕は思わずスクイレルの撃鉄を起こし、引き金を引いた。パンッ! という音とともに、黒い塊の動きが止まった。


「な、なんてことだ……」


 近寄ってみると、それは一羽のコマドリだった。僕は枯れ葉の上に横たえる小鳥の屍骸を見て愕然とした。こんなところで無益な殺生をするとは、思いもよらなかったのだ。

 しかし僕は、小鳥に手を合わせてから先を急いだ。

 しばらくして漸く目の前が開け、〈吊り橋〉が見えた。こちらとあちらの、二つの森の間には深い谷があり、丸太を並べてロープで括り付けただけの粗末な吊り橋で繋がっていた。

 おそるおそる橋に足をかけると、それは想像していた以上に揺れた。谷底からは、低い、誰かの呻き声のような音が吹き上がってくる。ロープの手摺につかまり、遠くの空を眺めると、薄っすら太陽の光が見え始めていた。


 北アルプスを彩るように、大きな七色の虹が架かっている。谷底を流れる川面には逆さの虹が映っていて、ここが〈逆さ虹の森〉と呼ばれる所以ゆえんが、漸く理解できた。

 

 さて、いよいよ吊り橋を渡ると、目的の場所は目前だ。

 歩きながらゆっくりと、今朝見た夢の中の彼女を思い出す。少女は白いブラウスを着て、長い黒髪を指に巻きつけながらこちらを見ている。人食い熊が現れる前の姿だ。僕は彼女の肩に触れようとするが、その度に金縛りのようになって、何もできなくなるのだ。

 

 ちょんちょんと、誰かがぼくの肩に触れる。

 はっと我にかえり、僕はスクイレルの銃口を相手に向けた。

 はたして、夢の中の彼女が目の前に立っていた。


「こんにちは。この二十年間で私の呼びかけに応えてくれた方は、これで七十七人目です」

「七十七人目……」

 僕は銃を下ろし、彼女の面影が夢と同じで安堵した。大きく見開いた瞳は潤んでいて、僕と出逢えたことが本当に嬉しいようだった。

「そう、七十七人目の君。ありがとう」

 彼女は僕に抱きつき、ダウンジャケットの上からでもその身体の温もりが伝わってきた。

「ちょっ、いきなり、そんな……」

 彼女は苺のような愛らしい舌で、僕の首筋を舐める。

「ふふふ、いいじゃない、私、もうお腹ぺこぺこなの。君が来るのをずっと、待っていたのよ」


 まるで夢の中の出来事のようだった。彼女の触手に身を任せ、どうなっても構わなかった。もう受験勉強なんてしたくないし、口うるさい親や教師の言いなりになんて、なりたくない。


 ──そうだ。僕は彼女にずっと恋していたのだ。


 〈彼〉が訪れるまでは、そう思っていた。


「銃を構えろッ!」

 遠くからカフェのマスターの叫び声が聞こえるのと同時に、僕は彼女を突き飛ばし、撃鉄を起こした。くそっ、くそっ! こんな筈じゃなかったのに!

 彼女の姿は巨大な人食い熊に変わっていた。


 グオオおおおお! と、雄叫びをあげる。


 熊の鋭い爪が僕の頰を引っ掻く。ギリギリで避けたものの、出血はかなりのものだった。雪の白に赤い斑点が散る。一度は倒れたが、僕はすぐに態勢を立て直し、スクイレルを構えた。呼吸は荒くなり、白息しらいきが明滅する。

 そして僕は無我夢中で、残り二発の弾を撃った。

 銃弾は、はじめの一発は外れ、最後の一発が熊の額を貫いた。その巨体は、ズズンと地響きを立てて仰向けに倒れた。回転するリボルバーと硝煙の臭いが、唯一夢でないことの証だった。

 

 森を去る前に、僕とマスターはコマドリと熊を土に葬った。スコップで穴を掘りがなら、胸がはち切れそうになった。


 それ以来、あの奇妙な夢を見ることはなくなった。しかし動物たちは餌を求めてどんどん人間の生活圏に登場するようになっていった。彼ら/彼女らを銃剣で押さえつけることなど、もはや無意味だった。


 今度は僕が本当に食べられる番なのかもしれない。僕はマスターが出してくれたローストビーフにナイフを突き立て、いつしか珈琲の香りとジャズの音楽に酔いしれていた。【了】

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一気に読みました。起承転結がしっかりしていて、伏線もあり、童話ならではの残酷さも描かれていて良かったです。 [気になる点] 高校三年生の男の子が拳銃を普通に扱えることにやや違和感がありまし…
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