8.0 なんだ、男かよ。
ゴールデンウィークが明けた。
授業が再開した初日の午前、一つの噂が学校中を駆け巡った。
そして昼休み、食事の時間。どの教室もその話題で持ちきりだった。
購買から帰ってきた猿渡は席に着くと、やはりその噂を口にする。
「ぼたんちゃんが退学したって、本当なのかよ。」
『菰宮牡丹が退学したらしい。』
校則違反や、法を犯したわけでも、ツインテール会長のことを、ふたちょんろりい会長と呼んでいたことがばれたわけでもないらしい。(バレたとしても、ふたちょんろりい会長に、生徒を退学させる権限は無い。)
そもそも、菰宮先輩は退学させられたわけではないらしい。
退学させられたのではなく、退学したのだ。
『あなたと会うことも、これで最後かもしれないわ。』
あの言葉は、そういう意味だったのだろうか。
「ありえない。どういうことだよ。」
と、猿渡は、焼きそばパンを、口の中に詰め込む。
今朝、菰宮先輩のクラスのホームルームで、担任から連絡があったらしい。
その噂は、一瞬で学校中に広がった。
猿渡は落ち込んでいるというより、何かにイラついているようだ。
「俺に何の相談もなく、ぼたんちゃんを退学させるなんて。」
何にイラついているんだ。
理不尽な怒りによる理不尽な八つ当たりを受けたくないので、僕は話題を変えようとする。
菰宮先輩の退学とは別に、もう一つ、この教室で騒がれている話題があった。
「明日からうちのクラスに転校生が来るって、伊勢先生が言ってたね。」
「ああ、ゴールデンウィーク直後に転校って、変だよな。」
「いや。それが、一年生に限っては、この時期の転校生って、たまにあるみたいだよ。近くの進学校に入学して、勉強についていけずに転校しちゃうんだって。」
「ふうん。まあ、可愛いければなんでもいいや。」
伊勢先生は、転校生の性別はどちらとも言っていなかった。猿渡は勝手に女の子だと決めつけている。
「けど、どんなに可愛くても、ぼたんちゃんの方が百倍可愛いからな。何か他の要素が無いとダメだ。」
可愛い転校生というだけで十分個性的な要素のはずだが、それでも足りないらしい。
それよりも、『菰宮牡丹は、百倍可愛い。』というのは、彼女の決め台詞なのだろうか。彼女自身は口にせず、彼女を知る人間が口にする言葉、彼女の代名詞。『可愛さ百倍。菰宮牡丹。』可愛い顔が、食べられてしまいそうだ。
「例えば、どんな要素が必要?」
「うーん。実は魔法少女だったり。とかだな。」
『実は』の時点で、僕たちには縁の無いキャラ設定だった。
「そんなことより、ぼたんちゃん、退学して何するつもりなんだろうな。やっぱモデルかな。胸は小さいけど、そこがまた良い。」
と言う猿渡の発言が、教室の女子に聞こえたらしい。「最低」と言う声が聞こえてきた。しかし猿渡には聞こえなかったのか、菰宮牡丹が、芸能事務所に入社したんじゃないかという話を続けている。
しかし、この学校の誰もが後になって気づくことだが、「退学」という言葉で済む事態ではなかった。菰宮先輩はいなくなっていた。学校からだけではない。社会からだった。全校生徒、また、他校の友人や知人を含め、家族でさえ、消息をつかめない。
やがて、電動車椅子の九重が、保健室から教室に戻ってきて、午後の授業が始まった。
僕は、刺激の強いタイプのタブレット菓子を口に入れる。
眠りたくはない。
◇◇◇◇◇◇
翌日。
朝のホームルームで、転校生が紹介された。伊勢先生が、彼に自己紹介をするよう勧める。
「初めまして。浮瀬雲母です。」
「なんだ、男かよ。」と、後ろの席で猿渡がため息をつく。
猿渡の髪型とは正反対に、目にかかるほど長い前髪。その奥の大きな瞳と、中性的な顔立ちから、女子からの人気は間違いなさそうだ。
彼は、伊勢先生に促され、教室の一番後の空いている席に向かった。一番後と言っても、空いているのは九重さくらの前の席だ。彼は九重に「よろしく」と声をかけ、椅子に座った。
教室の隅に美形が二人。学園もののアニメでも始まりそうな景色だった。
午前の授業の合間の休み時間のたび、クラスの女子たちは転校生、浮瀬雲母に話しかけていた。それに便乗して、男子も何人か浮瀬の周りに集まる。
僕は自分の机で頬杖を突き、その話を聞いていた。
「浮瀬君、前は東京にいたんでしょ?東京のどこ?」「新宿の近くだよ。」「男の子なのに、綺麗な髪の毛だね。」「ありがとう。」「新宿って、渋谷の近くでしょ。渋谷事変が起きたときは何してたの?」「おい、藤田。その話題はよせよ。」「いや、僕は気にしてないよ。実はその時、ちょうど僕も渋谷にいたんだ。ただ、あまり覚えていないというか。」「え!それって被害者ってこと?」「いや、被害者と言うか…」「ねえねえ浮瀬君、私サッカー部のマネージャーになったんだけど、サッカー部に入らない?」「いやいや、浮瀬君は吹奏楽をやろうよ。絶対似合うよ。」「部活動か。まだ考えてなかったな。」
このクラスにもう二人、部活に所属していない人がいるよ。とは、誰も口にしなかった。
「いいよなあ。少し顔はいいかもしれないけど、転校生ってだけで人気者だ。」
後ろの席から猿渡の妬みが聞こえてくる。
昼休みまで、退屈な授業が続いた。
四限目の授業が終わり、昼休みが始まると、九重はいつものように彼女の椅子ごと保健室に向かった。僕は鞄から、母の作った弁当を取り出す。猿渡は、購買に向かって席を立った。
そこに、コンビニのビニール袋を持った浮瀬が歩いてきた。
「小石井君、一緒にお弁当を食べていいかな?」
僕は驚いて、浮瀬の顔を見る。すぐに「いいよ。」と返事をした。教室内、浮瀬の席と僕、猿渡の席は近いと言えば近い。しかし、浮瀬と一緒に弁当を食べたがっている人は、他にたくさんいるはずだ。僕はそちらを見ないようにしているが、僕と浮瀬にクラスの視線が集まるのを感じていた。
「ありがとう」と、浮瀬は僕の後ろの席、猿渡の席に、コンビニの袋を置いた。
「その席は…」猿渡の席だ。と言いかけたところ、ちょうど猿渡が購買から帰ってきた。
なんだか状況が理解できないような顔をしている。「猿渡君、僕も一緒にお昼ご飯を食べてもいいかな?」と浮瀬が聞く。
「あ、ああ。」と猿渡は曖昧な返事をして、席に着いた。
浮瀬は、彼の席に戻り、椅子を運んでくる。
猿渡は、「どうして浮瀬が俺の名前を知っているのだろう。」という顔をしていた。
僕は猿渡に声をかけ、彼の足元の鞄を指さす。サッカー部の揃の鞄。高校名の後ろ、「Soccer Club SARUWATARI」という刺繍が入っている。
「なるほど」と「お前、エスパーか。」と同時に言いたそうな反応を、猿渡が見せる。お前が考えそうなことなんて、だいたい想像がつく。と言いかけたところで、浮瀬が椅子を持って帰ってきた。「おまたせ」と言い、彼は椅子に座る。
本当のエスパーは、やはり浮瀬だと思う。彼は何故、僕の名前を言い当てたのだろう。
彼はコンビニ袋の中から、カロリーメイトを取り出し、「いただきます」と封を切った。
「そういえば。」
と、焼きそばパンを頬張る猿渡は口を開いた。
「浮瀬も部活、決めなきゃいけないだろ。前の中学ではどこかに所属してたのか?」
「いや、部活同に入部する前に転校が決まったからね。猿渡君はサッカー部だよね?」
「ああ、そして小石井はまだどこにも所属してない。」
「それじゃあ、僕と入部するクラブを探さないといけないね。」
と、浮瀬は僕の方を見て続ける。
「今日の放課後、校内を案内してよ。」
僕もこの高校に入学して一週間しか経っておらず、一年生の中でも校内に特に詳しいというわけでもないので、案内というものができるかわからない。
部活紹介掲示板にでも連れて行こう。