6.0 確かに毎朝、私は鏡を見て思うわ。『私の顔って可愛いんだ』って。
放課後。帰りのホームルームが終わり、部活動について伊勢先生が声をかけてくると思ったが、先生は九重を連れて教室を出て行った。
「じゃあな、小石井。」
と、猿渡は鞄を担いで教室を出ていく。「うん。」と、僕はまだ椅子に座っていた。
教室には数人しか残らなくなった頃、僕は立ち上がり、教室を出た。
靴を履き替え、昇降口を出たところ、一人の女子生徒がこちらに背を向けてしゃがみ込んでいた。体調でも悪いのかと思い、その女子生徒に近づくと、「わん、わん」という声が聞こえてくる。
「わん、わん。」と言いながら、子犬の頭を撫でていた。
どうやら、具合が悪いわけではないらしい。僕は彼女に気づかれないようにその場を離れようとした。
「小石井くん、入部する部活動は決まったの?」
子犬の頭を撫でていた副会長は、そう言いながら振り返った。どうして僕が後ろにいると分かったのだろうか。そして、僕はまだ、どの部活動に入部するかも決めていない。具合が悪いのは僕の方になってしまった。
「昇降口で、靴を履き替えるのが見えていたのよ。」
僕は来た方に目を向けるが、僕が上履きを入れている下駄箱は見えない。
「こっちこっち。この角度からなら、ちょうどね。」
と、菰宮先輩はこちらに手招きする。僕はもう一度、子犬とじゃれ合う先輩に近寄った。
「菰宮先輩が連れてきたんですか?」
だとしたら校則違反ですよ。
「わんわん。」
と、先輩は首を横に振った。
「外から入ってきたみたいよ。」
先輩がわしゃわしゃと触る子犬の首元に、首輪は無かった。
「そうですか。可愛いですね。」
「うん。いつも言われる。」
「菰宮先輩がではなく、その犬がですよ。」
「ふうん。それって、私は可愛くないってこと?」
と、菰宮先輩はニヤリとわらった。
なんだか、先輩は嬉しそうだ。
「小石井君、熱でもあるのかしら。よく見たら、目の下に隈ができているわ。あまり眠っていないようね。」
「まったく寝ていないわけではないですよ。」
それを聞いて先輩は「そう。」と言い、子犬の方を向いた。
「柴犬ですか?」
と聞いたが、先輩は「わん、わん」と子犬に向かって話し始めた。
見ればわかるだろう。と言いたいのかもしれない。それとも、菰宮先輩に対して「可愛くない」と言ったことを怒っているのかもしれない。「可愛い」とは言わなかっただけだが。
「子犬はみんな可愛いわ。」
突然、子犬に話しかけるのを辞め、先輩は僕に話し始めた。
「無垢な瞳で、何かを訴えるかのようにこちらを見てくる。それだけで子犬はみんな可愛いの。羨ましいわ。」
無垢な瞳。
何も知らず、何か楽しいこと、うれしいこと、美味しいことを期待する瞳。
何も知らない。
恐れることは何もなく、今日よりも良い明日を待つ瞳だ。
僕は、その子犬が羨ましいと思った。
「先輩は、どうしてそれが羨ましいんですか?」
先輩は子犬を撫でる手を止る。
「そうね。」
彼女は少しの間、俯き、そしてこちらを振り向いた。
「小石井君、ゴールデンウィークは暇でしょう?デートに行きましょう。」
と、彼女は言った。
「えっと、その子犬とでしょうか。」
その冗談は、笑えないわよ。と、先輩は僕を睨んだ。この冗談には怒るのか。子犬は構って欲しいのか、ころりと仰向けになり、先輩の方を見ている。
「小石井君、私と、あなたがよ。早い方がいいわ。明日の午後から空いてる?」
「いいですけど、急にどうしたんですか?」
「小石井君に、私服を選んで欲しくなったのよ。ほら、私の制服姿って、すごく可愛いでしょう?」
先輩は子犬の傍でしゃがんだまま、手を広げた。
「制服はどれも、できるだけ多くの生徒に似合うように、デザインされていますからね。」
僕は彼女の隣にしゃがみ、子犬のお腹を撫でた。
「私、小さいときからずっと、可愛い、可愛いって言われてきたの。確かに毎朝、私は鏡を見て思うわ。『私の顔って可愛いんだ』って。」
菰宮先輩も子犬のお腹に手を伸ばした。先輩の手に触れないように、僕は足を撫でることにした。
「でも、『可愛い顔』っていうのは、『平均的な顔』と同じことでしょう?」
何枚もの女性の顔の写真を画像合成ソフトに入れ、平均値をとって出力すると、美人顔になるというのは聞いたことがある。彼女はそのことを言っているのだろうか。
「そしたら『可愛い』って、『顔面が没個性だ』って、すごく失礼なことを言われている気がしたの。だから中学生のある日、顔面の個性を出すために、眼帯をして登校したのよ。」
僕は先輩に対して、今僕にできうる最大限の敬意を払い、思ったことを口にした。
「どうしてそこで、『眼帯』なんだ。」
「小石井君、先輩には敬意を払って敬語を使いなさい。」
菰宮先輩はこちらをまた睨んだが、瞳の奥は笑っていた。
「古い映画よ。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。」
アニメの影響だった。
「けれどもみんな、『どうしたの?可愛いね。』って言ってきたの。私の可愛さはきっと、顔面の超没個性なのよ。あるべきものが、あるべき形で、あるべきところにある。それは、真っ白なカンバスと同じで、どんな服も、アクセサリーも似合ってしまう。『平均的な女子生徒』のために作られた制服なんて特にね。」
僕は軽々しくも、思ったことを言ってみる。
「それなら先輩、モデルの仕事とかできるんじゃないですか?」
「いいえ。」
と言い、先輩の手がぴたりと止まった。
「確かに、私はどれだけ食べても太らない体質よ。でもね、今も昔もモデルの顔はフォトショップで作られているの。ある程度整った顔や身体は、その子の持ち味を生かしながら、綺麗に、可愛くできるわ。でも、私の顔はこれ以上整えようもなく可愛いの。」
しまった。落ち着いていたのに、また怒らせてしまったと思った。自慢にしか聞こえないようなことを喋りながら、心は激怒している。
しかし、こちらを向いた彼女は、怒った様子もなく、何か誇らしそうに話す。
「けれどね、私にも、私の顔にも身体にも、どうしようもない欠点は存在しているの。いいえ、存在していないと言った方がいいのかしら。」
彼女は立ち上がり、腰に手を当てた。昇降口から出てくる数人の生徒が、不思議そうにこちらを見ては、通り過ぎて行った。
この流れは数日前に体験しているが、一応僕は、それが何かを聞いてみた。失礼を承知で。
「この胸よ。この、女子高生にしては可哀そうなほど小さい胸。こればかりはどうしようもないの。」
胸までも可愛い女子。
けれど、今も昔も、フォトショップがある。大きさなんて、どうとでもなるのではないか。
「小石井君、あなたそれでも男の子なの?」
先輩は片手をその胸に当てる。
「これはね、『確かにそこにある』っていうことが大切なの。それは想像でも、理論でも、二進数のデータでもなく、昨日も、今日も、明日も、『現実に』あるということよ。そして私は、そのあるべきものが『無い』。」
おそらく女子高生は自ら進んで言いたがらないセリフを、誇らしげに放つ。
僕と子犬は、そこから何かが出てくるんじゃないかと、手の当てられた胸を見つめていた。
「出るわけないでしょう。」
と彼女は僕を睨んだ。その瞳の奥は、笑っていなかった。