19.0 君は俺のことを知っているかもしれないが、俺は君のことを全く知らない。
-かなり大雑把な言い方をしますと、
僕は病室を飛び出し、速足で病棟を抜ける。
病院のエントランスから外に出ると、そのまま駐輪場まで駆けた。
-私はロボットなのです。
自転車のロックを生体情報で解除し、それにまたがろうとしたが、結局、それを押しながら歩き出した。 九重の言葉に動揺し、その場から逃げ出した自分が、惨めに思え、自転車を漕ぐ気力が起きない。
とぼとぼと自転車を押しながら、家に向かう。その足取りは、前に進むという状態を、かろうじて維持している程度だった。
僕のことを信用し、秘密を打ち明けようとしてくれた彼女に、なんてひどい事をしたのだろうとも考えた。
しかし、その"信用"という気持ちも、コンピュータによって計算されたリスクと、数値化された何らかの見返りなどの結果かもしれないと思うと、スマートスピーカー相手に進路相談をしているような、虚無感に襲われる。
僕は無意識に、人通りの少ない道を選んで歩いていた。
自動車が一台通れる程度の道幅の橋が、増水した海蔵川にかかっている。足元には、茶色く濁った水面が、この僕の感情すらも飲み込み、砕き、水滴にするかのように、うごめいていた。
僕はその橋の上で足を止めると、水面から目をそらし、日の沈む山脈を眺める。
すると、橋の反対側から、何か長い棒のようなものを持った人影が、こちらに近づいて来た。
僕はその人の邪魔にならないように、自転車を端に寄せる。
しかし、その人物は橋の上で、僕のそばを通り過ぎることなく、立ち止まった。
高校生だろうか。見たことのない制服を着ている。身体のシルエットを隠すような大きめのジャケット。けれども胸元には、交渉のようなものが入っている。
「ねえ、そこの君。その制服、下之宮高校の生徒だね。」
と、彼は僕に顎を突きつけ、見下すように視線を向けた。
どこかで聞いたことのある声だなと思いながら、「あ、はい。」と、僕も彼の方を見る。
その時、彼は僕のことを知らないが、僕は彼のことを知っているとわかった。
神宮寺真琴薙刀道師範。
テレビの中の人物だ。こんな地方にいていい存在ではない。
とすると、彼が肩に担いでいる、布にくるまれた長い棒の正体は、彼の得物、薙刀ということだろうか。
「君は俺のことを知っているかもしれないが、俺は君のことを全く知らない。どうだろう。少し質問に答えてくれないか?」
はぁ。別にいいですけど。
と、僕は彼に向き直った。
と。そこで、彼の周りを取り巻く空気の温度が変化した気がする。
そんなもの、目に見えるものではないが、殺気のような何かを感じた。
「君、菰宮牡丹と関わりはあるか。」
菰宮先輩。
「いえ、特にないですけど。」
気が付くと、僕の左のこめかみに、布にくるまれた得物が、ぴたりとつけられていた。
「お前さあ。」
と、彼は呆れ切った声を出す。
「嘘はもう少し上手につけよ。言葉の間合い、目線の動き、肩と手先の強張り。全部でバレてるぞ。」
それに。と、神宮寺は僕の頭に得物を突きつけたまま続ける。
「一瞬空気が変わった。とか感じただろ。殺気だとか大仰な物じゃなくて、ただの緊張感ってやつだ。ただ、それが肌で感じられたってことは、お前は俺の間合いにいる。」
もう一度聞こう。と、彼は言った。
「お前、菰宮牡丹と関りはあるか。」
「いえ、特にな、、、」
その瞬間、僕は頭から、"左に"吹っ飛んだ。
地面に手をついた僕は、数秒間、何が起こったのかわからなかった。
彼の得物の先は確かに、僕の左のこめかみに付けられたままだった。
その状態では、一瞬で大きな威力で叩くことはできないはずだ。
いや、たとえそのまま暴力的な力で叩かれたとしても、僕の左のこめかみにつけられた得物では、僕から見て、”右”に吹き飛ばすことしかできない。
僕は立ち上がり、彼の姿を視界に入れたとき、やっと理解する。
僕は、得物の逆側。薙刀の刃の逆、柄の部分で拭き飛ばされていた。
「菰宮牡丹の居場所を教えろ。」
「僕は知らない。」
その瞬間、僕のみぞおちに、こちらを向いていた柄がめり込む。
僕は地面に崩れ落ちた。
上手く呼吸ができない。
「それなら、何を知っている?彼女の周りで起きたことでも何でもいい。」
僕は何とか立ち上がり、答えた。
「菰宮先輩が退学したのと入れ違いに、転校生が来た。」
「転校生?この時期に?」と、彼はほんの少し興味を示した。
いや、そんな気がした。
僕はせき込みながら答える。
「ああ、浮瀬という、東京からの転校生だよ。」
浮瀬には悪いが、話題を何とか逸らそうとする。
が、それが悪かった。
両方の手首、右の脛を、打たれた。
気が付いたら、打たれていた。
僕は膝をつく。
「あの女、ここにいるのか。」
それは、明らかな敵意だった。
そしてそれは、"僕"に対してではなく、"浮瀬"という言葉に向けられていた。
一度引いた彼の殺気が、倍増しで溢れ出る。
けれども、女?
「いや、浮瀬は男だ。人違いだよ。」
と、僕は何とか立ち上がる。
すると、その彼の殺気が引いていくのが分かった。
が、今度はイラついているようだ。彼は舌打ちし、僕の方に近づいてくる。
僕は、彼と距離を取ろうと、後ずさった。
橋の柵が、背中にあたる。
「それで、菰宮牡丹は何かを言い残していかなかったか。」
言い残していったこと。
“ある”。
と、それが彼に伝わってしまったらしい。
彼はもう一度舌打ちをすると、大上段に振りかぶる。
「それを教えろって言ってるんだろーが」
大上段。
これはもう、受けて立ち上がることはできないだろう。
きっと、無事に家にもたどり着けない。
冗談では済まない。
そんなことを考える余裕が、僕にはあった。そんなくだらないことを考えるだけの余裕と時間が、振り下ろされる得物が僕の顔面に届くまでにはある。
僕は柵に手をつくと、痛みを堪え、力いっぱい身体を持ち上げ、柵の反対側に身を投げた。
そこには地面など無い。
「おい、バカか!」という神宮寺の声が、頭の上から聞こえた気がする。
僕の身体は、増水し、濁った川へと、落ちていった。




