18.0 私を抱いてくれませんか?
目覚まし時計の電子音が鳴っている。分厚くて重い、安物の掛け布団の中から手を伸ばし、枕元の電子時計のアラームを切った。部屋の中の空気は乾燥していた。
目を覚まし、息をしていることを確認する。
登校時間まであと一時間。僕は布団から抜け出し、ベッドの下に脱ぎ捨ててある上着を着て、僕の部屋を出る。階段を降り、1階のリビングの扉を開けた。
僕は生きている。
僕は、制服に着替え、朝食をとる。家を出ようとすると、母に呼び止められた。
「頼、腕時計が机の上に置きっぱなしだったわよ。時間も二分くらい、進んでいたし。」
ありがとう。と、受けとるときに、母の言葉が引っ掛かった。
“時間も二分くらい、進んでいたし。”
時計が二分進んでいた。
僕は昨夜の出来事を思い出す。
『ごめんごめん。けれどほら、君の時計は今、八時二十九分を差している。』
『君は、気絶していたんだよ。』
『君の意識は、二分間、途切れていた。』
僕は、浮瀬に地面に叩きつけられて、気を失ってはいなかった。
彼が僕の手首を返したとき、どさくさ紛れに進めたのだ。
あの野郎、と思ったが、僕は今生きているのは変わらない。
僕は母から腕時計を受け取るとき、小さくため息をついた。母はそれを見て、不思議そうな顔をしたが、「道路が濡れているから、気を付けるのよ。」と、送り出してくれる。
僕は「行ってきます。」と、家を出た。なんだか、足が軽い。
昨夜の雨で濡れた自転車に乗り、高校に向かった。
昨夜は、雨が降り続いていたようだが、今朝は晴天だった。
教室に着くと、猿渡の方から声を掛けてきた。
「よう、小石井。お前、今日は顔色がいいな。昨日、ついに部活を決めたのか?」
「おはよう。いや、昨日は久しぶりに、よく眠れただけだよ。」
と、僕はすでに登校していた浮瀬を盗み見た。
彼は、教室の端の隅で、文庫本を読んでいる。
すべてを電子デバイスで済ませてしまう高校生に、文庫本は不似合いだ。しかし、オールドメディアを持ち歩くことが、ファッションと見なされ、持ち歩いている人もいる。
九重も連休中、紙の本を図書館で借りていた。
まだ部活動を決めていないことも加えて伝えると、「なんだ、まだ帰宅部かよ。」と、彼の注意は、スマートフォンの画面に引き戻された。
僕は、自分の席につくと、教室の後ろから、一台の車椅子が入ってくる。
間もなく、ホームルームが始まった。
放課後、帰り支度をしていると、猿渡がスマートフォンを操作しつつ、「今日も浮瀬と部活見学か?」と聞いてくる。
「いや、」と、返事を仕掛けたとき、九重がこちらに近づいてきた。
「小石井くん、では、今日もあの公園で待っていますね。」と、僕に告げ、「では、また後ほど。」と、去っていった。
「な、おいお前、九重とそういう仲だったのか?」
猿渡は驚いた視線をこちらに向け、詰めよってきた。
僕はいつの間にか、"小石井"から"お前"に降格している。
「いや、創部についての話だよ。」
たぶん。
「ああ、そういえばそんな話をしてたな。」と猿渡は、手品のタネ明かしをされたかのような顔で納得する。
しかもそのタネは、“スペードの三は二枚入っていました”というようなくだらない落ちだったらしい。
「きっと企画倒れだろうけどね。」
と、僕は付け足す。
すると、
「それは残念だな、僕も参加しようと思っていたのに。」
と、浮瀬が話に加わった。
「いや、お前ら。まだ何の活動をするかさえ決まっていないだろ?」
猿渡が珍しく、まともなことを口にする。
「そう、だから小石井くんが、今日それを決めてきてくれるんだ。」
と、浮瀬は猿渡に微笑んだ。
え、何それ?
そんないい笑顔は、猿渡ではなく他の女子に見せろ。とか突っ込みたかったが、(もちろん実際には突っ込まないが)謎の役目を押し付けられ、戸惑ってしまった。
「それじゃあ僕は、行くところがあるから。」また明日。と、浮瀬はそのまま教室を出て行く。
その背中を見ながら僕は、どうせ屋上だろう。と、冗談半分に思った。
彼は昨日、あれから何時まであそこにいたのだろう。
屋上に住み始めるのではないか。
「じゃあな、小石井。俺は部活に行くわ。」
と、猿渡も続いて教室を出る。
僕も、公園に向かおう。
学校を出ると、自転車を漕いで、海蔵川を渡る。川は、昨晩の雨で増水し、茶色く濁っていた。
市立羽津病院の敷地内の、小さな公園。駐輪スペースは、昨日と同じ場所が空いていた。僕はそこに、自転車を置く。
九重は、昨日とは異なり、公園の入り口付近で車椅子を端に寄せ、そこで本を読んでいた。
公園の植木は、昨日の雨のせいか、青々としている。
僕が近づくと彼女はこちらに気が付き、微笑む。
なぜだろう。やはり浮瀬の笑みの方が自然だった。けれど、九重も、無理に微笑んでいるようでもない。
「お待たせ、九重さん。」と声を掛けると、「いえ、待っていませんよ。」と、彼女は本を閉じる。
「小石井くん、昨日は雨が降る前に帰れましたか?」
九重は車椅子の向きを変え、ゆっくり動きだした。
「うん、家には帰れたけど、そのあと用事で外出はしたよ。」
「そうですか。」と、彼女は図書館の入り口には向かわず、市立病院の方に進んでいる。
九重さん?と、尋ねると、彼女は「ついてきてください」とだけ答えてくれた。
僕は話題を変える。
「外は雨が降っているのに、その建物の屋上だけ晴れている。ってこと、起こり得るかな?」
と、聞いてみた。
九重は「?」という顔をすると、「何でしょう。なぞなぞですか?」と尋ね返してくる。
いや、単なる"なぞ"なのだ。
「もしそんなことが現実に起こるのなら。なんだか、魔法みたいな話ですね。」と、彼女は笑った。
彼女は、"魔法"という言葉を口にするのが可笑しかったようだ。そのなぞなぞに答えようと、「うーん」と悩み始めてしまったので、僕は慌てて、「いや、いいんだ。忘れてよ。」と、この話題を打ち切った。
僕たちは病院の中を進んでいた。コンピュータ、電子掲示板、エレベーター、介護補助機械。
魔法とは無縁な、科学が充満する空間だった。
僕たちはさらに奥へと進み、病室が並ぶ棟にたどり着いた。
そこで、僕たちはエレベーターに乗り、上の階へと昇る。
僕たちは移動している間、彼女の好きな本について話を聞いていた。
「小石井君は、お気に入りの小説などはあるのですか?」
「小説というか、映画ならあるよ。かなり前のアニメ映画なんだけど、『楽園追放』っていうんだ。」
「あの、アダムとイブの話ですか?」
「いや、聖書とはそこまで関係無いんだけれど。自分の意識をすべて電脳化して、電子の世界に住む人達が、現実世界に戻るきっかけを与えられるんだけど、この現実世界で生活することを選ぶ人はあまりにも少なかったという話。」
「そうですか。何故でしょうね。」
「きっとそれは、一度手に入れた物を、手放すことが怖いからだよ。一度進んでしまったテクノロジーは、もう後ろには戻らない。」
そんな話をしていると、彼女は1つの病室の前で立ち止まった。
いや、彼女は座ったままだけれど。
「着きました。入ってください。」と彼女が言うと、病室の扉が開いた。
扉のそばには、病室番号ではなく、『九重』と書かれている。
もう何十年も、個人情報の問題から、病室には入院患者の名前は出さない。
その病室の扉に書かれた彼女の名前が、まるで表札のように見える。
僕は九重に続いて、部屋に入った。
部屋の中は、一部を除いて、いたって普通の病室だった。
白いシーツのかかったベッド、テレビに冷蔵庫、着替えやタオルを入れるタンスに、電気ケトル。
ただ、異様だったのは、酸素や薬を通すチューブではなく、ベッドの枕の側から、機械のケーブルが何本か伸びていることだった。
九重はそのベッドの傍に寄ると、こちらに向きを変える。
「小石井くん、私を抱いてくれませんか?」
ん。
なんだって?
「間違えました。抱きかかえて、ベッドまで運んでくれませんか?」
「あ、あぁ。うん。」
僕は状況が飲み込めないまま、彼女に近づき、抱き上げる。というか、何を間違えたのだろう。たぶんワザとだ。
「お姫さまだっこですね。」と、九重は楽しそうだった。
僕が軽々と抱き上げることができるくらい、彼女は軽かった。
女子高生は皆、これくらいの体重なのだろうか。
「女子高生は皆、これくらいの体重だと思ったら、大間違いですよ?」
と、彼女はベッドに座る。上半身をベッドの背に預け、両足を前に投げ出していた。
「それで、今日は何の話をするつもりなの?」と、僕は切り出した。
こんな所に、僕を連れ出した理由。
連れ込んだ、とも言える。
「小石井くんとは、これから部活の創設から深く関わっていきますし。」
それに、
「この前は小石井くんの悩みを聞かせてもらいました。」
いや、彼女が僕の話を聞いてきくれたのだ。
そして、僕は彼女の言葉に救われている。
「今日の顔色を見ていると、少しは気が楽になったようですね。」と、彼女は付け足した。
「ですので今度は、私のことを、知ってもらおうと思います。」
私の身体のことを。
と、彼女は、自分の制服のボタンに指を掛けると、丁寧に外していく。
「ちょっと、九重さん。」
と、僕は慌てるが、彼女は手を止めない。
ブレザーを脱ぎ、リボンを取ると、シャツのボタンを、上から外していった。
「冬服では、私が下着を着けていないこと、誰にも言わないでくださいよ。」
と、そのシャツを開いた。
僕は、目を反らさなかった。
女の子の身体に興味があったということも、もちろんある。
しかし、彼女がシャツのボタンを外す度、彼女の身体に走る、何本かの金属の筋が露あらわになっていき、僕の視線はそれに奪われていた。
そして、彼女がシャツを開ききった時、彼女の胸部には、金属の筋と、小さな電子ディスプレイしかなく、人としてあるべきものは見当たらなかった。
「かなり大雑把な言い方をしますと、」
と、彼女は口を開いた。
「私はロボットなのです。」
その時、僕は連休前に読んだ、新聞記事を思い出す。
『渋谷事変から一年。難航する捜査の行方は。』
『人工知能搭載ヒト型ロボに市民権。』
『米修士論文 RW理論を証明か。』
人口知能搭載のヒト型ロボ。
ヒト型ロボ。
人口知能。
『私はロボットなのです。』
呼吸について、意識について、生きることについて、僕に語ってくれた彼女は、そもそも、生物ですらなかった。
呼吸も、
意識も、
彼女には無縁だった。
『それに、役者さんの、大声で泣いたり、はしゃいでいる姿を見て、“まるでお芝居みたい”って思うんです。だから私も、その顔やしぐさを真似すれば、あの人達みたいになれるかもって思うんです。』
と、ゴールデンウィークの彼女は言っていた。
人間の行動、思考を真似た、機械は語っていた。
「あの、小石井くん?」
九重は、不安そうにこちらを見てくる。
彼女は、不安そうに。
いや、それは、不安という感情を模擬し、ぎこちなく、表現してた。
僕は、一体、何に心を許していたんだ。
なんなんだ、このやるせなさは。
そして僕は、その感情を、何も口にできないまま、その場から逃げ出した。




