17.0 浮瀬、君は何者なんだ?
もしも、彼からもらった薬が本物で、今日の僕を引き継ぐ明日の僕はいないとして。
そして、もしも、浮瀬はその薬の効力を無くせるとする。
そして、今日の僕の意識が、今日で無くなってしまうことを、僕は受け入れたとする。
今日、一度も眠らずに、一瞬でも意識を途切れさせずに、明日を迎えられるだろうか。
彼の連絡先は知らないし、家がどこにあるかもわからない。
だから、僕ができることは一つだ。
あの屋上に、もう一度のぼるのだ。
自室にいた僕は、リビングに戻り、母に外出する旨を伝える。
「今日の課題に必要なものを、学校に忘れてきちゃったから、取りに行ってくるよ。」
母は、テーブルにお皿を並べながら、こちらを見る。
「ご飯は?それにもうすぐ八時よ?」
「でも、今日どうしても必要だから。」
と、答える。
僕がこんな時間から、外出すると言い出すことは、ほとんどなかった。そもそも、夕飯は家族そろって食べるのが我が家の不文律だ。父ももうすぐ帰ってくるだろう。
今までそれを、きちんと守ってきた僕が、学校に戻ると言い出したのだ。よほど大切な何かを忘れたと思ったのだろう。母は不満そうに、
「雨が降ってるから、歩いて行くのよ。」
と、傘を差して自転車を運転しないようにと釘を指す。
意識すれば、雨音が家の外から聞こえてくる。片手で傘を差し、自転車も漕げるだろう。
僕は母の注意に、「うん。」とは答えなかった。
僕は、「いってきます」と、玄関を出ると、傘を差す。小雨だが、顔にかかると少し鬱陶しい。僕はそのまま自転車にまたがり、高校に向かった。
地方の夜は、傘さし運転のせいで車に轢かれる心配はほとんどない。むしろ、車のヘッドライトが行きかう方が、明るくて安全かもしれない。田舎道は未だに、暗く、コンクリートに整備されていない道もある。
僕は自転車の頼りない明かりで行く先を照らし、高校に到着した。
校門をくぐり、自転車置き場まで自転車を漕ぐ。もちろん、傘は差したままだ。
校舎内にはまだ、何人かの生徒や教師が残っていた。
部活動で残っている生徒。また、この下之宮高校は、ある程度の進学校だ。この時間まで残って、自習している生徒もいる。
僕は、差していた傘を昇降口に残すと、屋上に向かった。
校舎内と屋上を隔てる扉の前に立つ。
僕の後ろ、階段の下からは、廊下を伝って、生徒や教師が発する音が聞こえてきた。廊下を歩く音。友達とおしゃべりをする声。昼間や夕方とは違い、静に冷めた壁や床を震わせ、どこか遠くから聞こえてくる。
僕の目の前の扉の向こう側からは、何も聞こえなかった。その一枚の扉で、空間がはっきりと区切られている。
内側と外側。
外は雨が降っているはずだ。傘を置いてきたことを後悔した。
そして僕は、その扉を開けた。
◇◇◇◇◇◇
屋上には、人影があった。
彼はこちらを振り返り、僕の姿を確認すると、空を見上げる。
「今来むと 言いしばかりに 長月の
有明の月を 待ち出でつるかな」
と、彼は再び僕の方を見た。
月明かりの下、彼の姿ははっきり見えた。
「素性法師が平安時代、女性の気持ちを詠んだ歌だよ。
ただ今が、長月、九月でないのが残念だね。」
どうだろう?と、浮瀬は僕に感想を求める。
素直な、澄んだ歌だと思った。男性から見た女性の心を、詠ったからだろうか。けれども、男性に対する恨みがましさ、同時に、自身に対する情けなさも溶け込んでいるように聞こえる。
いや、その前に。今、どうして月など見えるのだろう。
雨はどうしたのだろうか。僕は、空を見上げた。
「小石井くん、この範囲はちょうど今、雨が止んでいるんだよ。」
君が校舎内を歩いている間に、止んだんだ。
まるで、魔法みたいな話だ。
「高度に発達した科学は、魔法と区別がつかないと言うけれど、僕に言わせれば、10分単位で天気を予測できる現代の天気予報の方が、よっぽど魔法だよ。」
と、彼は屋上の淵へと歩く。
「それで、小石井くん。どうして君は、ここにもどって来たのだろう。“死ぬ”のが怖くなったのかな?毎日、毎晩、眠るたびに死に続けているというのに。」
「ちがう。けれど、何か大切なことに気がついたんだ。」
それが何かは分からないけれど。
「それで、僕に、運命を元に戻してと言うのかな。」
と、浮瀬は屋上の縁の手前で足を止める。
誰かに触れられれば、そのまま落ちてしまいそうな位置に立っている。
一歩、僕は彼に近づく。
「そうだ。浮瀬。わがままを、聞いてほしい。」
すると、浮瀬はこちらを振り返った。
「小石井くん、君は、幽霊を信じるかい?」
幽霊。
「いや、幽霊だけじゃない。来世。輪廻。天国。審判。どれも、今ではない『いつか』について考えている。」
今ではない。いつか。
「Tomorrow is the another day. (明日は明日の風が吹く)。今の境遇から抜け出したい。変わりたい。ここではない、どこかに行きたい。より良い生活。より良い明日を欲しながら、それでも、自分の根幹、“自我”ともいえるものは、残したい。それを感じ続けたいと欲する。僕たち人間は、あまりにも、わがままな生き物だよ。」
彼はもう一度、僕に背を向ける。
屋上から、校庭を見下ろすこともなく、空を見あげることもなく、ただ目の前の景色を眺めているみたいだった。
その背中は、何故だか、か弱く見えた。
しばらくすると彼は振り返り、「パイナップルは嫌いかな?」と、僕に聞いた。
「いや、大丈夫だけど。」
それはどういう意味なのだろうと考えていると、彼は僕の手が届く距離まで歩み寄ってくる、
そして僕に、「これを、一口で飲み込むんだ。」と、タブレット菓子のようなものを、一粒手渡した。
これで君の、意識の不連続は、明日も続く。
と。
僕は、それは無言で受け取ると、口に運び、飲みこんだ。
口の中に、爽快な風味が広がる。
ミントのような、何かの薬草の味だろうか。
ありがとう。と、言うべきかと悩んでいると、
「信じてもらえてないかな。」
と、浮瀬は言った。
数時間前に飲んだ薬の効果を、こんな錠剤一つで消すことが出来るのかは疑問だった。
「小石井くん、今何時何分かな?」
時間?と思いながらも、僕は左手を持ち上げ、腕時計を見る。
いつの間にか浮瀬は、さらに僕の近くにいた。
「八時二十七分だよ。」
と、僕は文字盤を見ながら答える。父がくれた時計だ。デジタル表示ではなく、ソーラー電池でモーターが動き、歯車が回り、針が時刻を示す。
「ありがとう。いい時計だね。」
と、彼は僕の時計の方に、手を伸ばした。
その時。その瞬間。
僕の視界はぐるりと回転し、無意識に目を閉じる。
慌てて地面についた手が痛む。僕は恐る恐る目を開け、何が起きたのかを理解し始めた。
浮瀬は僕の左手を掴み、捻り、その動作で、僕の体制を崩し、僕は床に叩きつけられたのだ。
あまりの衝撃に、僕はすぐには立ち上がれなかった。
浮瀬は僕を引き起こすと、「ごめんごめん。けれどほら、君の時計は今、八時二十九分を差している。」
と、もう一度僕の時計に視線を向けた。
ごめんで済む話ではない。急に僕は床に叩きつけられたのだ。なんなんだ。意味が分からない。
「君は、気絶していたんだよ。」
気絶?確かに、二十七分から二十九分までの二分間、僕の記憶はない。そんな危険な目に合わされたのか。手首も、床に打ち付けられた肘や肩、膝が痛い。
「君の意識は、二分間、途切れていた。」
だから、それがどうした。お前のせいだろ。と言う目を彼に向ける。
「それなのに、君は今、このように生きている。」
と、彼は言った。
僕は生きていると。意識を失ってもなお、息をしている。
薬の効力が切れている。
「あぁ、ありがとう、浮瀬。けれども次回は、もう少し手加減をしてくれよ。」
と、僕は制服についた埃を払いながら返す。まだ完全に彼を許す気にはなれない。
「そうだね、ごめん。ほら、小石井くん。八時半を回った。高校生は、家に帰る時間だよ」
生徒は夜九時には、校舎を追い出される。
「ああ、そうするよ。浮瀬は?」と、聞く。
浮瀬は「僕は、もう少しここで月を見ているよ。」と、僕に背を向けると、もう一度屋上の縁へと歩く。
「それじゃあ、一つだけ聞いてもいいかな?」
と、僕は彼に声をかけた。
なんだい?
「浮瀬、君は何者なんだ?」
彼は少し笑うと、
「僕はただの、少し変わった高校生だよ。」
と、答えた。
「それじゃあ、おやすみ、小石井くん。」
「うん、また明日。」
僕は階段を下り、昇降口に残した傘を取る。
校舎の外に出ると、雨が僕の全身を濡らす。
もちろん、月も見えそうにない。
『小石井くん、この範囲はちょうど今、雨が止んでいるんだ。』
と、彼の言葉を思い出した。
屋上の床は、乾いていた。彼も、傘のたぐいを持っていなかった。
彼は一体、何者なのだろうか。




